#7 オンナゴコロの天気予報
どんなに悩んでいても朝は必ずやってくるし、俺の母さんも「早く起きて」とキッチンから怒鳴ってくる。
考えすぎて寝た気がしないが、学校を休んだところで眠れるわけでもないんだよな。
こういうときは無になって毎日のルーティーン通りに動くしかない。
起きたら必ず朝食前に、一週間分の天気をスマホのアプリでチェックする。
通学が徒歩と電車ということもあるけど、いちばんの目的は週末の釣りのためだ。
予測アルゴリズムの精度が上がって昔よりも予報は合っていることが多いけれど、自然に【必ずしも絶対】はない。
雨の予報が翌日になるとか、寒いと思っていたらカンカン照りになるということもザラにある。
とりあえず、今週末は曇のち晴れ。
釣りはできそうだけど、テトラポットのスポットに行くと思うと躊躇してしまう。
俺はスマホを裏返してからダイニングテーブルにうつ伏せた。
胸に突然現れた小さな棘が刺さったままで、苦しいんだ。
この痛みが気にならないようになるまでには、まだ時間が必要だろう。
※
「晴人、もしかして最近悩みでもあるの?」
テーブルにフルーツ入りシリアルと牛乳とベーコンエッグを並べた母さんが、おもむろに俺に訊いてきた。
ギクッ・・・。
心当たりがないわけではないが、母さんに相談できる内容じゃない。
俺は動揺を悟られないように、平静を装って返事した。
「いや、別に。なんで?」
「先週、珍しく釣りに行かなかったし、今もスマホ見ながらため息ついていたじゃない。」
「そ、そう? 」
無意識とは怖いものだ。
母さんも昔はサイコメトリーが使えたせいか、妙にカンが鋭い。
「新しい釣りスポットを探そうかと思ってさ。いつもの場所は日影がないからしんどくて。」
「なんかあったら相談しなさいよ。」
「だから、悩んでねぇって!」
俺の顔色が変わったのを見て、逃げるようにキッチンに入った母さんと入れ替わりで、雫が二階から降りてきた。
「おっそよー。」
雫はリスのフードがついた可愛いルームウェアを着ているが、二日酔いのおっさんのように寝ぼけた顔でリビングのソファに転がった。
「なになに? オニィ、朝からムダに悩んでるの?」
「ムダっていうな!」
「まあ、思春期だしね。
悩むだけ悩め、少年よ。悩んでるうちが花ですぞ!」
「悩んでない。俺は一ミリも悩んでないからな!」
ったく。女って、本当にデリカシーのない生き物だな。
俺はガツガツとシリアルを口に頬張ってから勢いよく深皿の底の牛乳を飲み干すと、急いでいるフリをして家を出た。
※
昼休憩を過ぎると、学校にこもった熱さは本格的に俺たちの体力を奪うつもりのようだった。
三年前に改築された校内は一階から三階までをつなぐ大きな吹き抜けの構造で、とても開放感があって洒落た建物なんだけど、各教室にエアコンが設置されていないのが難点だった。
改築の計画段階では、北海道の気候が今ほど上昇していなかったからだと思う。
今年になって熱中症が深刻な問題になり、市教育委員会が市立の小中学校に三・四年かけてエアコンを導入するという報道を見た。
俺の高校はいつになるか分からないが、俺が卒業するまでに設置されるなんて期待できない。
大きな扇風機が四台回る教室で、俺は移動教室のために席を立ちあがった。
次の授業は美術室か。どこに行っても変わらず暑いだろうな。
タブレットと筆箱を手にぼんやりと歩き出した俺の肩を、後ろから誰かが軽く叩いてきた。
「加藤、あのさ。」
俺は硬直した。
相手は陽キャの田中だった。
「次の美術ってタブレット使うの?」
俺のボッチ人生で、クラスの中心的人物に話しかけられる日がくるとは・・・!
でも悲しいかな、俺の苗字が間違って覚えられています!
いや、待て。
試されてんのか俺?
こういう時はどうやって返事するのが正解なんだ⁉
俺は生唾をゴクリと飲み込んで唇をこじ開けた。
「いる。」
その瞬間、女子のグループの叫声で俺の言葉がかき消された。
「え、加藤なに?」
「タブレット、使う。」
覚えたての日本語を使う外国人のように、片言で繰り返す俺。
田中は人の良い笑みを浮かべてうなずいた。
「おう、サンキューな。」
俺から離れた途端、ひとりの男子が田中の首に腕をかけ、複数の男子たちが笑いながら田中を取り囲んだ。
「田中よ。オマエいま、誰に話しかけたんだよ。」
「誰って、加藤だけど?」
「バカ、あいつ【佐藤】だべ! まったく失礼なやっちゃなー!!」
顔を真っ赤にした田中の背中を叩きながら、爆笑した男子たちは廊下へと走り去っていく。
しばらくは事あるごとに、俺の名前がいじりのネタにされるのが予想できる。
はぁ。俺を巻き込むなよ。
めんどくせぇ。
そう思った時、下半身に身震いが起きた。
暑いからって水をガブ飲みし過ぎたかな。
トイレトイレ・・・。
※
男子トイレの仕切りを小走りに抜けて手洗い場に荷物を置くと、俺は小便器に向かった。
尿意をもよおした時は全然なのに、ベルトに手をかけている時はせっぱつまった感じになるのはなぜなんだろう。
「晴人くん!」
(ウェィッ、女子の声! って、 ありえない!!)
俺は慌ててズボンのチャックを勢いよく引き上げて、顔だけ後ろを振り向いた。
(ううう、嘘だろ⁉)
「せ、生徒会長⁉」
「約束したじゃない。なんで週末、海に来なかったのよ?」
間違いない。
彼女は生徒会長の鈴木さんだ。
でも、約束とか海とか言ってるし・・・!
(え、え、え ??)
「ていうか、あの・・・ココ・・・男子トイレだけど。」
「アッ、ひとりで歩いていたから・・・じゃなくて!
やだ、本当に男子トイレ・・・!!
あの、私・・・。」
興奮していた生徒会長が、急に耳まで赤くなってうろたえだした。
なにを今さら?
「待っていたのに! 晴人くんのバカァ‼」
どっ、どういうことだよ⁉
俺は膀胱が満タンなのも忘れて、呆然と立ち尽くしていた。
オンナゴコロの降水確率、誰か予報してくれッ‼