#0 あいにくの空模様
「心雨!」
思い切って呼んだ名前は、廊下の階段で大きく反響した。
周囲の空気がピリッとして、すれ違う生徒が不思議そうに俺に注目する。
学校の階段の踊り場で大声を出しているんだから、当然か。
俺が呼び止めたのは生徒会長の鈴木さんだ。
鈴木さんは俺とは違うクラスだから交流はないけど、噂で名前だけは知っていた。
今年四月に転入してきたカノジョは成績優秀・品行方正なハイスペ女子だった。
クラスが満場一致の推薦で生徒会役員に担ぎ上げ、六月の選挙では見事に生徒会長に任命されたという経歴のもち主。本来なら、ボッチ男子の俺なんかが気軽に話しかけて良い人間ではない。
けど、今日は違うんだ。
俺はドキドキしながらその時を待った。
俺より頭一つぶんだけ背が高くて手足が細長い、髪をねじりパンみたいに編み込んだ黒ぶちメガネの鈴木さんは、ゆっくりとこちらを振り返った。
(うっし、間違いない!)
俺はメガネの奥の丸くて黒目がちな瞳をジッと見て、確信した。
胸の鼓動がハンマー叩きみたいにガンガン跳ね上がり、口の端はだらしなく緩んでしまう。
ようやくこちらを振り向いてくれた鈴木さんに、俺はできるだけ親しみをこめて喋った。
「海で会った時と雰囲気が違くて、すぐに分からなかったよ。」
俺がまっすぐに見つめていると、カノジョはなぜか気まずそうに目を泳がせた。
(あれ? 様子が変だな。)
期待していた反応じゃなくて気が抜けたけど、俺はそのまま話し続けた。
「あのさぁ、今週末の釣りのことなんだけど・・・。 」
するとカノジョは、キッと上目づかいに睨みをきかせたんだ。
「なんのことかしら?」
「エッ・・・? 」
予想外の態度に怯んだ俺は、頭の中が真っ白になった。
「ウソだろ?
俺と海で釣りをしたこと、覚えていないのかよ・・・。」
めまいを覚えるほどの衝撃を喰らった俺に対して、両腕を組んだ彼女は毅然とした態度を崩さなかった。
「用件はそれだけ?
忙しいので、私は失礼します。」
俺はなすすべもなくその場に立ち尽くし、彼女の後ろ姿を見送るしかなかった。
複数の生徒たちの密やかな会話がやがて雑音になり、廊下の秩序は元どおり。
変わらない日常の中に、変わってしまった俺だけがひとりで取り残されたみたいだ。
いったい何が、どうなってるんだ?
校舎の中だというのに廊下に響きわたる蝉の大合唱が、耳の奥に反響して心の整理が追いつかない。
ぐちゃぐちゃになった気持ちを抱えた俺は、誰も居なくなった廊下でようやくひとつの答えを導き出した。
「鈴木さんと心雨は・・・同一人物じゃないのか?」