26 転落
私とエルイングは小さい頃から仲が良かったけど、さすがに喧嘩ゼロだったわけじゃない。
まあでも喧嘩の理由はだいたいしょうもない。
切り分けられたケーキの大きさがエルイングの方が大きくて私がムカついたとか。
お互いの母上に一緒に連れられていったどこかのお屋敷のお茶会で、エルイングが同年代くらいの男の子に粉かけられて、「僕、男なんだけど」と言ってるのに相手は聞かなくてさ。私がそれを横目で見ながらニヤニヤ笑っていたら、後で「セーラは酷い。酷すぎる。なんで助けてくれなかったの」って涙目で言われて、以降は無言になっちゃって。昼下がりにそれぞれ帰路につく時も「さよなら、また今後」のいつもの挨拶も言わなくてさ。あの時はさすがに次会ったら謝ろうかなって思っていたら、一週間も経たずにエルイングの方から「この前はごめんなさい。僕が悪かったです」っ謝ってきたんだっけ。
またある時、我が家でおやつに出されたジャーキーを一緒に食べてたら、うっとり顔で「これも所謂ミイラだよねぇ」なんて言い出すので、思わずボディブローを食らわせちゃったんだけど、その時のエルイングは別に怒ってなかった。でも「エルイング、お腹ぷよぷよだね」と言ったらものすごい激怒したんだよな。あれは8歳か9歳頃だったかな。まだ子供だし、男たる者すべからく腹筋はバキバキに割れてるべし…なんて事は思って無かったけど、その頃の私は格闘技のスター選手に憧れてて、そのスター選手のバキバキな腹筋が脳裏を過ぎって咄嗟に比較しちゃっただけなんだけど、エルイングの逆鱗を思いっきり踏み抜いたみたいで、「帰る!」と叫ばれた。「僕のお腹が割れる日までもう会う事はないから!」と言って帰っていったんだけど、一週間も経たずにエルイングの方から「この前はごめ(略
あれ?
私、なんでエルイングとの想い出を回想しているんだろう?
…などと思ってしまったのは、紫の瞳で射貫いてくるエルイングが全くぜんぜん動かないからだ。
『何が了解なんだって訊いてる』
などと先ほど私に発した質問を再度問いかけてくる様子もなく。
最初こそ怒っているような目つきだったのにだんだんと緩くなり、寄せられていた眉もいつの間にか開いていた。
それからもしばらくエルイングは私の顔を見つめ続けていたんだけれど、唐突に
はぁーーーーーーーーーーーーーー
と長い息を吐くと、カクンと俯いた―――と思ったら、そのまま私の肩の辺りに顔を埋めてきた。しかも、くんくんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ出す。
なにこの状況。
いや、エルイングがこんな風に私の匂いを嗅ぐ事自体は何も特別な事ではなく、小さい頃からの習慣というか、久しぶりに会う度にやられていた事ではあるんですが。
ただ、人前でやられたのは初めてで。
チラッと横を見るとユーリィ様が、目を剥いていた。
けど多分、今のエルイングの脳内にはユーリィ様の存在は無くなってて、この世界に居るのは私と自分だけって感じになってそう。
しばらくその状態ですーはーすーはーしていたエルイングは、ようやく気が済んだのか、依然として私の肩に顔を埋めたままながらも、ようやく言葉を発した。
「セーラさぁ」
「…………何よ」
「僕のこと、怒ってる?」
「怒ってるよ、進行形で」
「傷付いた?」
「そりゃあね」
「僕の事―――少しは恋しかった?」
「…………えーと」
「なんでそこでえーとってなるのかなぁ…」
エルイングは俯いたまま、哀しそうに呟く。
ああ、なんだかさ。
やっぱりなあって思った。
エルイングはやっぱり私の事が好きなんだなあって。
ユーリィ様いじめの犯人はこの私だって決めつけてきた理由とか、
私を睨み付けてきた理由とか。
多分エルイングなりに理由があったんだろうね。話を聞いてみたらユーリィ様にも皇子殿下にもそれぞれの理由や思惑や後悔があったように、きっとエルイングにも理由があって、思惑があって、後悔があって、それを聞かせてもらえさえすれば「ああ、そういう事だったのね」って"解る"んだろう。
私は肩に乗っかってるエルイングの頭を軽く撫でた。
ホワイトブロンドの綺麗な髪。
小さい頃からもう何度撫でたか覚えてない、この髪。
それなのにここ数ヶ月、縁遠くなっていた、この髪。
もう二度と触る事はないんだろうなと思ってた、この髪。
撫でられて嬉しかったのか、俯いていたエルイングはようやく顔を上げた。そうして私の顔をまじまじと見て、破顔して。
なに勘違いしてんだか。
こいつ絶対、許されたって思ってるよね。
「エルイング。さっき私に"何が了解なんだ"って訊いたよね」
「……うん」
「婚約破棄、了解って言ったのよ」
「僕、婚約破棄なんて言ってない…です、ヨ」
「……言ったじゃん」
ですよね? と、横で完全に観客になってるユーリィ様に確認を取ると、
「あ、はい。婚約破棄って言ってました!」
元気よく同意してくれた―――けど、エルイングは首をぐるんぐるんと振る。
「言ってないよ。婚約破棄と"婚約はき"は別物だよ。僕は婚約"覇気"と言いたかったんだ。セーラとの婚約に対して今後も大いなる意気込みで臨むと意思表明しただけだよ、言葉って難しいね!」
言い切りやがった。
婚約破棄ではなく婚約覇気かー。
へー、おんもしろーい。
私は失笑した。
「そんな言葉遊びが通じると思っているなら片腹痛いわ」
私はほとんど覆い被さるような体勢のエルイングを両手で押し戻し、冷たいまなざしを向けた。
「そっちが婚約破棄を申し出ないならこちらから言ってやるまでよ。エルイング・カシスタンド、あんたには愛想尽かし済み。三ヶ月もの間、婚約者を無連絡のまま放置し、横には常に別の女性を侍らせた所業、どんな理由があろうとも見限られて当然でしょうが。じゃあね! アバヨ!」
私は再び背中を向けた。
そうして今度こそと階段を降り―――ようとしたんだけど、またエルイングに腕を掴まれる。「手を離せ」って言ってやろうとして振り返ると、エルイングは悲痛な顔をしている。
そして、
「ごめんなさい!」
叫んだ。
だけど私の心は決まってた。
「謝って済むなら慰謝料はこの世に存在しないんだよ」
言い捨てて強引に腕を振りほどこうとしたんだけど、これがまた力強いのなんの。まるで溺れ死にしそうな人が藁でも掴んでるのかって程の渾身の力で握りしめてきて、折れそうで、死んでも離すかって感じ。
私は思わずユーリィ様に助けを求めようとしたんだけど、見たらユーリィ様はいつの間にか踊り場より10段くらい上の踏み板に腰掛けていて、高みの見物を決め込んでいた。両手を頬にあて、ハラハラしてるご様子だけど、まるで恋愛劇の舞台の山場を天井桟敷から見守ってる感ハンパない。
「セーラ、ごめん。ごめんなさい。僕はね、この学院に入ってから、なんだか色々と心が惑ってしまったんだ」
「どんな風に惑ったのか20字以内でどうぞ」
冷笑気味に言ってやると、
「20字なんて無理に決まってんだろ」
ハンッと冷笑返しをされた。
「そもそもの話、僕だけのせいじゃないと思うんだよね。だってセーラって僕の事、男だと思って無いじゃないか。婚約はしてくれたけど、セーラのはしょうがないなあって感じだったろ。それでも好きな子が一生一緒にいてくれるって約束してくれたんだって思うだけで僕は幸せだった。僕とセーラと生まれてくる沢山の子供達と沢山のミイラ達とで仲良く微笑ましい幸せ家族を計画してたんだ」
ミイラは余計だわ。
「この学院に入る時も僕は夢一杯だった。共学だし、ひょっとして同じクラスになったり? そうしたら席は隣になったり? 寮の門限まで毎日デートしたり? ってね。
ところがどうだよ。
いざ入学の許可が下りて入学案内を熟読してみたら共学なんて名ばかりじゃないか。なんなんだよ、東舎と西舎って。その上、セーラは学院に入ったらあんまり近寄ってくるなって言うし、僕との関係も隠せって言う。
理由はわかるよ。僕だって自分の顔がすこぶるいい事くらいは自覚してる。多分、帝国一、いや、世界一なんじゃないかな! セーラの読みどおりと言っていいのか、実際、モテてモテて困った。困ったし、そこの…」
くるりと振り向いてエルイングは階上に居るユーリィ様を指さす。
するとユーリィ様はニコッと笑って私達に手を振る。
「そこのユーリィ嬢がいじめに遭ってたみたいで、セーラが怖れていたのはこういう事だったんだなって痛感したし。それはわかる。わかるんだ、だけどさあ」
「だけど?」
「欲を搔いた―――」
「欲」
「僕がユーリィ嬢と一緒にいたら、セーラは嫉妬して、僕の事を男として意識してくれるかなぁとか。ひょっとして、ユーリィ嬢をいじめてる女の子達の中に―――こっそりセーラが混じっていたりしないかなぁとか―――思いました。ごめんなさい」
そんな理由か、このバカ。
「…………あのさ。……六月だっけ、七月だっけ。ユーリィ様が転んだのを私が助け起こしたことあるんだけど、あんた、それ見ていたそうじゃない?」
「あ、うん…」
しっかり覚えていたらしく、エルイングは気まずそうに床を見る。
「あの後、あんたからすごい目で睨まれたんだけど。あれは何だったの?」
訊くと、エルイングはぼそっと呟いた。
「…だって」
「言うてみ」
「あり得なくない?」
「は?」
「だってさ。自分の婚約者を奪ってる女が目の前で転んだからって、普通に助け起こすってあり得なくない? さすがの僕もムカつきました」
「……なるほど、そういう事でしたか」
「でも、ひょっとして表面上取り繕ってるだけでは? とか。少しくらい期待した僕、悪くないと思わない?」
「悪いんじゃないですかね」
「セーラはさ。僕に好かれてるって自信持ち過ぎてるんだよ。その自信をへし折りたくなった僕の気持ち、少しくらい判るだろ? 人の心があるならさあ」
「あんたはそれ以上口を開かない方がいいんじゃないのかなあとは思う」
「最後の賭けで… 婚約破棄って言えば、さすがのセーラも焦るかと思ったのに了解しましたーって… なにそれ、酷くない?」
何もかも全てが氷塊しました。
学院祭初日頃、ひたすら謎に思って悩んで感情がネトネトに糸引いてた苦しみのほぼ全ての理由が判明しました。
私はもう一度ため息を吐いた。
すると、
「ごめんなさい」
エルイングがまた頭を下げる。
「ごめんなさい」
また謝る。
エルイングの謝罪は昨日の皇子殿下の謝罪よりもずっとずっと心が籠もってるってのはわかる。わかるんだけど、残念ながら私の方にエルイングを許してあげられるだけの心の余裕がない。許してあげられない事に対して小指の先ほどの罪悪感すら感じているのに、それでも「わかった、いいよ」って気にならない。
だって本当にここ数ヶ月の間、私は辛かったんだよ。
クールでドライにふられたいってのは、とどのつまり、クールでドライとは真逆の感情を持っていたからだもの。
ああ、ここしばらくなりを潜めていた感情の糸がまーた粘つき始める。
ネバネバねっとりネットネト。
ああ、くそ。ここからどう逃げようかななんて思っていたら、
そんな私の顔色を読んだのか、
「ごめんなさいって―――僕は何度でも謝るけど。婚約破棄だけは絶対にしないから」
エルイングが紫の瞳をギラリと光らせた。
その瞬間、咄嗟に私はくるりと背中を向けた。
三度目の正直で今度こそエルイングの手に捕らわれずに済んだ。
私の腕を掴もうとしたエルイングの腕は虚しく宙を搔いたんでしょう。
「セーラ!」
ひどく悲痛な声音で呼ばれた。
でも、私が振り返る筈もない。
トントントンと駆け下りて、
だけど、
私がもうあと数段で階下に辿り着くってあたりで、
突然。
本当に突然、
「キャッ」
後ろの方から女性の甲高い悲鳴が聞こえた。
そして次にはドドドドドドって音がして、びっくりして足を止めたら、何かが横を通りすぎっていったのよ。
そして最後にドサッって。
何が起こったかわからなくて呆然としたけど、でも事態は一目瞭然。
だって、階段のかなり上の方に居た筈のユーリィ様が、今は私のすぐ足下、階段の1番下にいて、何故か倒れていたんだ。
仰向けになって、薄桃色の髪が扇状に散らばっていた。




