21 第三皇子殿下、再び
客が部屋に入ってきた瞬間、私の呼吸は一瞬止まった。
ひょっとしたら瞬間的に心臓も止まってたかもしれない。
だけど、次の瞬間、絹を引き裂くような叫び声が聞こえた為、
吃驚した余り、私の心臓は再び動き出したんだと思う。多分。
叫び声をあげたのはユーリィ様だ。
なんでって感じだけど、まぁ、入ってきた"客"の姿のせいなんだけど。
突然の来訪者は第三皇子殿下だったんだけど、どういう理由か、目元や片腕に大仰な包帯を巻いていて、腕に到っては三角巾で首から吊り下げていたんだよね。
「あ、あ、ああっ、キャシュレット様、どうなさったんですが、そのお姿は一体!」
血相を変えたユーリィ様が殿下に取りすがって泣き出し、おろおろしている。
それを見た黒姫さまは、
「あーあ…」
と小さく呟く。
そうして私はというと、部屋の中をきょろきょろして、カクレミーノやすでに不燃ゴミとして捨てられたかもしれないスガタガキエールを無意識に探していた。でも見つからなかったので、なんとなく黒姫さまの座っている上座側のソファの裏手に回り、しゃがみ込んで身を隠しちゃったのである。だってほら、扉から身を隠すのに1番いいポジション、そこしかなかったし。
まぁでも隠れられるわけがなかった。
「やかましいぞ、ユーリィ。その口を閉じろ」
皇子殿下は不快そうにユーリィ様に一瞥をくれる。そうして大股で歩きながらそのまま上座のソファの裏側に回り込んで、身を隠そうとして必死にキョドっている私を見つけると、じろりと見下ろしてくる。
恐る恐る見上げてみて、
「ひぃっ」
目がうっかり皇子殿下の水色の眼と合ってしまい、私はパニック状態。で、思わず心の中で(私は空気、私は空気、私は空気)と呪文を唱えたんだけど、勿論無駄でした。
殿下は黒姫さまに対して「姉さま、少し失礼します」と声がけした後、私に近寄ると、
「キサラシェラ男爵家のセーラルルー令嬢」
そう呼びかけた。
「ひゃ、ひゃい…」
震えながら涙目で返事をすると、
「エルイング・カシスタンドの件だ。私が悪かった。謝罪する」
殿下はそう言って一礼をしたのである。
(皇子殿下が空気に謝罪―――じゃなくて男爵令嬢に謝罪ィ?)
私は戦慄した。
だってこれ、天変地異の前触れだよね?
今、黒姫さまの部屋には人が四人いる。
もともと私とユーリィ様は下座のソファに座っていて、黒姫さまが一人で上座のソファに座っていたんだけど、今はキャシュレット殿下が黒姫さまの横に座っている状態。
「その怪我、パシフェルにやられたのか?」
黒姫さまが訊くと、皇子殿下はコクリと肯く。
「先ほど皇宮にいた所を呼び出されたのでこちらに赴き、叔父上の部屋に参りました。そして、顔を合せるなり顔面を殴られ、腕を折られました」
「おお、かわいそうにのう」
「いや、姉さまがリークしたんですよね?」
ロンドグラム公爵さまは黒姫さまが神力を使う事を異常に嫌っているらしい。ただの"嫌い"ではなく、激怒、マジギレのレベルなんだとか。一昨日、皇宮の魔道具倉庫へ向かう時、黒姫さまが照明替わりに使ったほんの僅かな神力すらも、公爵さまにとっては"ふざけてんのか? 死にたいのか? どっちだ? ああん?"なレベルなのだとか。
ちなみに黒姫さまに対して怒るのではなくて、黒姫さまが神力を使う羽目になった原因の方に怒るらしい。
ん?
て事は?
あの時黒姫さまが神力で灯りを作ったのって、私が飛び石に蹴つまづいたからだったよね?
え、ひょっとしてあの時、私、けっこうヤヴァかった?
だけど黒姫さまはきっぱりと仰る。
「あの日、魔道具倉庫へ行かねばならなくなった事と、その際、私がセーラを伴っていた事の遠因は元を正せばそなただろ?」
「それはそうですが」
皇子殿下は苦虫を噛みつぶしたような顔をする。
まぁ遠因を尋ねればそうなるかもだけど、ちょっと罪悪感が。
なんて考えていたらユーリィ様が、
「いえ、私です。私が原因です。申し訳ありません、殿下…」
顔面真っ青、目からは涙が滝の如しだ。
「そうだな。お前のせいだ」
皇子殿下は吐き捨てるように仰る。
「死んでお詫びを…」
「そこまでしなくて良い。お前のせいではあるが、お前の願いに応じたからには私の責任だ。今後も私に尽くす事で詫びとせよ」
「はいっ…」
ユーリィ様は自身の膝に顔を突っ伏し、泣き続けている。ほっそりした可憐な肩が痛々しい。しかし殿下は冷たいまなざしと横柄な様子で見下ろすばかりだ。
私はその様子を横から交互に眺めつつ、
(うわぁ…、なんか別世界だなあ…)
などと考えていた。
だってさぁ。主従とはいえ同い年の幼馴染みだし、兄貴分だの妹分だの言ってるような関係なわけよね? なんというか、下々の身と致しましては、もっとこう、アットホームな関係を無意識に想像していたというかですね。まぁ、でも、皇族と貴族の間には長くてでっかい大河があるってついさっきユーリィ様ご自身が言ってたわけだし、こっちの方が現実的なのかなぁとは思うものの。
「で、キャシュレットよ。そのナリでは明日の後夜祭には行けぬのではないか?」
「いえ、大丈夫です。この後、神殿に行って治癒の術をかけていただくので。ここに来る前、大神官府に連絡したら左右猊下の内、左猊下がお手空きとの事なので、即時治癒の予約を取りました」
「…まぁ、パシフェルも自然治癒するまで捨て置けと命じなかっただけ多少は理性が保ったという事よの」
「いえ、男爵令嬢が丁度公爵邸に来ているので謝罪してこいと… その命に応じた事で温情を頂きました」
「そうか。ぷげら」
「……ところで姉さま、灯りに使う神力って値段に換算するとどれ程なんです?」
「一時間千リエンくらいではないかのお。灯しておった時間は一分以下であるが」
「私、17リエン以下でこんな目に遭わされたんですね」
皇子殿下は遠い目をしていたけれど、やがて黒姫さまに視線を戻し、突っ伏したままのユーリィ様を見やってから、最後にチラッと私を―――見てるんだかどうか判りにくい辺りを見て、
「ところでこの集まりはなんですか?」
と問うた。
黒姫さまが斯く斯く然然と説明した所、聞き終えた皇子殿下は失笑する。
「なるほど、知らない間にそんな事態になっていたんですね。ユーリィはすでにエルイングに気は無く、エルイングはあれほど男爵令嬢への愛を叫んでいたのに浮気とは」
「まぁまだ浮気とは確定しておらんのだがな。ほぼほぼ間違いなかろうと思うぞ」
「して、その相手とは誰なのですか? 私の知っている相手なら面白いんですが」
「どうだろうな。マリーカーラ・エネゼクト=セルバイスという名らしい。セルバイス女伯。知っておるか?」
黒姫さまがそう言うと、皇子殿下は目を見開いた。
「セルバイス女伯ですか」
「知っておるのだな」
「あの女、一時期私の周りをうろついていましたからね」
殿下がそう言うと、
「は!?」
しおしおと泣いていた筈のユーリィ様が、突然ドスの利いた声を出して顔を上げた。
「殿下、私はそのような報告を受けてはおりませんが」
「エルイングを落とすのに忙しいお前に気を遣ったのだ」
「……子細をお聞かせください」
ユーリィ様の目は最早可憐な子爵令嬢ではなく、殿下の忠臣だった。
「春先、私は庭園のベンチに座るお前に声をかけたよな? あの時にお前の横にいた女が、どういうわけかその後、私のサロンの周辺をうろつくようになったのだ。怪しく思い、調べさせた結果、セルバイス女伯と知ったわけだが。面倒臭いので無視していたら、あの女、我が側近に次々声がけするではないか。鬱陶しいので了見を訊いてみようかと一度だけサロンに招いたのだが」
「…招いたのですか?」
ユーリィ様の目が据わってる。
なんか怖い…。
「怒るな。―――あの女、意味の判らぬ事をほざき始めてな」
「どのような?」
「曰く、
『皇子殿下にご相談があります』
『私の友人に子爵令嬢のユーリィ・マフリクス様という方がいるのですが―――そうです、先日殿下が庭園のベンチで話しかけた下位貴族ですわ……。彼女、殿下からのお声がけにのぼせ上がり、周囲に自慢げに言いふらしているのです』
『しかも、殿下の侍女になりたいとまで。子爵令嬢ごときが恐れ多い事だと窘めましたが、ユーリィ様は諦めるご様子もなく』
『どうか、寛大な心で彼女の身の程知らずを許してさしあげて…』
とかなんとか。こやつ、気でも触れておるのかと思ったわ」
私と黒姫さまは勿論、ユーリィ様も、
鳩が豆鉄砲を食ったような顔で静止した。
「しかも、だ。話している内にだんだん"皇子殿下"呼びから"キャシュレット様"に変わっているではないか」
「な、なんという無礼な…」
ユーリィ様が怒りでぶるぶる震えている。
黒姫さまも、
「クソ度胸よのう」
と呟く。
「業腹だったので物も言わずに側近に命じてサロンからつまみ出させた。なんだか『キャシュレット様、誤解です』とか言っていたが何が誤解なんだ? その後もしばらくうろつかれたので、側近に申しつけて接近禁止を言い渡し、それきりだ」
「接近禁止? 指の2~3本、切断してやるべきだったのでは?」
ユーリィ様がめちゃくちゃ怖い……。
思わず黒姫さまの様子を伺うと、特に感情が動かされている様子はなく、卓上のクッキーを摘まんでいた。
一方、皇子殿下とユーリィ様の会話は続く。
「この件、一応はお前に報告する事も考えた。だが、同じクラスだと言うし、曲がりなりにも女伯ではある。子爵令嬢に過ぎぬそなたの立場からはあれこれも言いにくかろうと判断したのだ。その頃、お前はすでに女伯とは距離を置いているようにも見えたしな」
「他には何かございましたか?」
「それきりだ」
「確かでございましょうね?」
「しつこい。と言うか、お前、その態度はなんなのだ。私に怒ってどうする」
「私は殿下の為を思って発言しております。接近禁止などという寛大な処置はあの女の為にもなりませんし、手首でも切断してやるべきであったと考えます。私の態度が不快ならばお申し付けください、死でもなんでも」
おいおい。
おーいおい。
おーーーーーい。
助けを求めるように再び黒姫さまを見ると、今度はお茶を飲んでいた。
一方、皇子殿下は厳しい顔つきでユーリィ様を見る。
「忠義に免じて赦す。が、不快だ」
「左様でございますか」
「今すぐ私の前から去れ。当分顔を見せるな」
皇子殿下がそう言うと、
「承知しました」
そう言ってユーリィ様は居住まいを正し、黒姫さまと皇子殿下、そして私に辞去の挨拶をして部屋から出て行ってしまった。
(あっれれー? この後、明日の後夜祭でのエルイング戦についての打ち合わせしたかったんだけどなあ)
私はつい恨めしげに皇子殿下をチラリと見上げた。皇子殿下は私の方を見る様子はない。公爵さまの命に従って謝罪をしてきた後は、こちらを見るにしてもあえて焦点をズラして見てる感があるし、ホンットに下位貴族は空気扱いなんだなと痛感した。
そしてだからこそ、皇子殿下にとってユーリィ様がいかに特別かも痛感する他なかった。"妹分"は伊達じゃ無いんだなと。




