第71話 クマちゃんの葛藤
クマちゃんはたくさんの幸せで、溺れてしまうかもしれないと思った。
◇
「――何かみんな戻ってくんの早くない?」
リオは森の魔王ルーク様に貰った美麗な飴細工をパリパリと食べながらそう言った。
その目は、複雑な人間関係のおままごとをしている冒険者達と、湖畔に置かれたふわふわベッドで休んでいる冒険者達とを見ていた。
ただ早いといっても、〝特別〟と言えるほどではないが。
自分達が討伐隊から抜けているわりに、というだけだ。
そんなことを考えつつ、ふと、あの猫みたいな鳴き声を思い出した。
もしかして、猫顔のクマ太陽が縄張りを広げてしまったのだろうか。
「……あの地下洞窟の広さはわからないけれど」とウィルは話し始めた。
視線を、リオがかみ砕いている飴細工から、周囲の冒険者へと移した。
自分達が調査をしていたときは――と早朝の様子を思い浮かべながら、リオの疑問に答えた。
「癒しと浄化の泡が洞窟の通路で増え続けているのなら、それを感じ取った大型モンスターは、その力の及ばないところまで逃げるのではない?」
地下にある洞窟に泡を流しても、地上の大型モンスターは倒れないだろう。
奴らを檻に閉じ込め完全に動きを封じ、そのうえで泡を掛けたとしても、それは同じことだ。
クマちゃんの魔法の泡は、攻撃のためのものではない。
たとえ弱体化に成功したとしても、討伐は出来ないに違いない。
だが、もし本当に自分の推測通り、地下洞窟の泡が発する〝癒しと浄化の力〟を嫌ってモンスターが逃げて行ったのだとしたら――。
敵が見当たらないのは、彼らの視界に入らなくなっただけということになる。
砂を入れて振った容器のように、中身が片側に寄ったのだ。
都合よく減ったりはしない。
自分達が感知できないほど遠いところで増えているのであれば、却って状況は良くないだろう。
――やはり、一度森の奥まで行って、モンスターを討伐する必要がある。
「そうかもな」
ルークが無駄に色気のある声で、適当な相槌を打った。
どうでもよさそうではあるが、ウィルの推測は間違っていないということだ。
ルークはクマちゃんに手を齧られながら、もこもこを見ていた。
蝶の飴をもらってご機嫌のようだった。
口元に飴を運んでやると、もこもこのもこもこした口が、もふっ――と愛らしく膨らんだ。
が、クマちゃんは口を開けなかった。
そのままぬいぐるみのようにじっとしていた。
ルークは蝶の飴をもふっとした口元から少しだけ遠ざけた。
すると、
「……クマちゃ……クマちゃ……」
幼く可愛らしい声が聞こえた。
小さすぎて聞き取りにくかったが『……だめ……たべちゃだめ……』と言っているようだった。
クマちゃんはほとんど口を開けずに話していた。
間違って食べてしまわないように、だろう。
よく見ないと分からないくらい、もこもこの口は少しだけ動いていた。
ルークは猫っぽい口からさらに飴を離した。
話しにくいだろうと思ったからだ。
が、結果は先ほどと変わらず、また小さな声が聞こえた。
「……クマちゃ……クマちゃ……」と幼い声を震わせて、クマちゃんは『……だめ……たべちゃだめ……』と言い続けていた。
パリパリ……と繊細な飴を食べ終えた男は言った。
「クマちゃん、飴美味しいのに食わねーの?」
繊細な蝶の羽はリオの糧となったのだ。
食べ物に関して繊細な心を持たぬ男は、ぬいぐるみのように動かないクマちゃんを不思議そうに見ていた。
つぶらな瞳で一点を見つめたまま、愛らしく『……クマちゃ……』と呟いているクマちゃんの葛藤は、残念ながらリオには伝わらなかった。
彼は『綺麗すぎて食うのもったいねーかも』と言いながらすぐに食べるタイプの人間だった。本当にもったいないと思っているのか、それすら怪しかった。
「クマちゃんはリーダーが作ってくれたとても美しい飴を、食べて失くしてしまうのが嫌なのだと思うよ」
派手な男は大体のことに大雑把であったが、綺麗なものや可愛いものに対しては繊細な心を持っていた。
ウィルは、幼いクマちゃんの激しい葛藤を理解していた。
クマちゃんは甘い物が大好きだ。
それゆえ、
『いますぐ目の前の、良いにおいがする甘くて美味しそうな飴を食べたい』
『大好きなルークが自分のために作ってくれた、綺麗で可愛い蝶々をずっと取っておきたい』
という二つの気持ちの狭間で揺れ動き、自身の欲望と戦っているのだ。
つぶらな瞳を潤ませ「……クマちゃ……クマちゃ……」と呟くもこもこの言葉は、いつのまにか『……クマちゃん……負けちゃだめ……』に変わっていた。
今にも欲望に負けてしまいそうな様子だった。
クライヴはそれを可哀相に思い、手元に魔力を集め始めた。
冬の支配者の周りに冷気が漂う。
薄い飴が割れるような音がする。
パリパリという音と共に、氷が何かを模ってゆく。
「うぉ、すげぇ。……つーかさっき絶対ナイフいらなかったじゃん……」
リオは独り言のように呟いた。
クライヴが氷の魔力を自在に操れることなど、この街の冒険者なら皆知っている。
だが、ここまで緻密なものだとは思わなかったのだ。
やはり、おままごとでナイフを使っていたのは、彼なりの役作りだったらしい。
楕円形のパンを作るくらい、クライヴには息をするのと同じくらい簡単に違いない。
「――とても美しいね。透き通った氷の細工に光が当たって、より繊細に見えるよ」
儚く美しいそれは、美術品の鑑賞を好むウィルから見ても素晴らしいものだった。
女性に贈れば感動で涙を流すのでは。
その相手が、冷酷な冬の支配者染みた男ならばなおさら。
――と思わなくもなかったが、きっとクライヴが得意の魔法を使ってこのようなことをする相手は、クマちゃんだけなのだろう。
氷を操ることであれば世界最強の男にも引けを取らぬクライヴは、幼く純粋なもこもこに強い庇護欲を感じているようだ。
南国の鳥はそんな風に、冬の支配者を観察していた。
「受け取れ」
クライヴは自分が作ったそれをすっと差し出した。
黒革に包まれた手で、愛おしいもこもこへと。
ずっと聞こえていた「クマちゃ……」がピタリと止まる。
子猫がミィ……と鳴くような、小さな小さな呟きが止んだのだ。
クマちゃんが、クライヴの手元をじっと見つめる。
もふもふの口元に、ピンク色の肉球が付いた両手をサッ――と当て、つぶらな瞳を感動でさらに潤ませる。
魔法で作られたそれは、氷で出来た一輪のバラだった。
花びらには一匹の蝶がとまっていた。
静かに羽を休ませるその様子は、今にも動き出しそうなほど精巧だ。
透き通るバラも、繊細なアゲハ蝶も、どこまでも美しく優雅であった。
クライヴはルークへ視線を向けた。
それだけで、ルークは男の頼みを理解した。
冷たく美しい贈り物を魔力でなぞり、結界でピタリと包んだ。
クマちゃんが受け取っても決して溶けることのないように。
本当はクライヴ自身がそうしたかった。
しかしそのように高度で複雑な結界を刹那に構築できる者は、ルークの他に存在しなかった。
それに、たとえ可能だったとしても、クライヴが作れば結界も冷たいだろう。
――愛しのクマちゃんの可愛らしい肉球に、万が一〝しもやけ〟ができてしまったら……。
あまりに悲しい想像に、もともと険しいクライヴの顔は極限まで険しくなった。
「ヤバすぎる……」とリオは呟いたが、気に留めた者はいなかった。
クマちゃんはもこもこの両手を、彼が差し出す氷のバラへと伸ばした。
ピンク色の肉球でムニ……と挟んで受け取った。
感激して、湿ったお鼻をふんふんふんふんと鳴らした。
そうして、果てしなく透明で、光を浴びキラキラと輝く、宝石よりも美しいそれを、そっと――頭の横につけた。
「いや何で頭につけるの。どうやってつけたのそれ」
リオは思わず物申した。
何故かくっついたままの氷のバラを凝視した。
ミニトマトと豆の時も思ったが、どうして落ちないのか。
なんでも頭につけるのは何でなのか。おしゃれなのか。
着け方はそれでいいのか。
「好きに使え」
贈り物の制作者は言った。
声は氷のように冷たかったが、彼は愛おしいクマちゃんが何をしても可愛いと思っていた。
丸い頭と並列する氷のバラに、大きなガラス細工を頭にくっつけた猫のようなその姿に、何故だか胸が苦しくなった。
クライヴは眉間に深い皺を寄せ、静かに目を伏せた。
――重症である、と診断を下す者はこの場にいなかった。
「クマちゃんは次は何がしたい? 僕はマスターから呼び出される前に、街へ買い物に行くのも良いと思うのだけれど」
問う声に、シャラ――と音が重なった。
髪を払う仕草に、飾りが小さく揺れた。
ウィルには、美しい物を身に着けたいと思うクマちゃんの気持ちが良くわかった。
純粋でいとけない行動を微笑ましく思った。
次の予定を尋ねられたクマちゃんは、じっと考えた。
今日はなんて幸せな日なのだろう。
こんなに幸せでいいのだろうか。
大好きな皆とお花畑でピクニックをして、楽しく遊んで、そのうえ素晴らしいプレゼントを三つも貰ってしまった。
ルークがクマちゃんのために作ってくれた、とても甘い香りがする綺麗な蝶々。
クライヴがおままごとで作ってくれた、可愛い氷のパン。
そして、今作ってくれたばかりの、とても綺麗な蝶々がお休みしている氷のバラ。
――全部大切に取っておこう。
あの飴は食べたら、きっとすごく美味しいだろう。
でも誘惑に負けて甘いそれを食べたら――なくなってしまう。
どんなに美味しそうでも、クマちゃんは負けない。
こんなに一度にたくさん幸せなことがあったのに、ウィルは、これから皆で街へお出掛けしようと誘ってくれた。
クマちゃんがもっともっと喜ぶことを言ってくれたのだ。
嬉しすぎて大変だ。
クマちゃんの胸がどきどきしている。
どきどきが止まらない胸を両手で押さえて、ルークを見る。
すると彼は、すごくかっこいい声で「行くか」と言ってくれた。
本当にいいのかな、とクマちゃんが思っていたことが彼にはわかったのだろう。
すごくすごく嬉しいのに、何故か涙が出そうになった。
不思議に思ったが、あまり考え事をしているとお返事を忘れてしまうかもしれない。
幸せな予定がなくなってしまう前に、クマちゃんは『うむ』としっかり頷いた。