第510話 『ピッピー!』 イエロースコール
クマちゃんは冷静に、すべてを見極めた。
主審としての誇りを胸に、清く正しく「クマちゃ――!」と。
◇
テチテチ テテテ ペチ ペチチ
ピチャ ピチャン
白き猫手が硝子玉を叩き、グラスの水面を打ち付ける。
時に大きく、時に小さく。
雨の楽譜をなぞるように、繰り返し、何度でも。
掲示板の荒々しさと共鳴するように、妖精達の演奏にも力が入っていた。
頑固親父こと、ピンク髪の美青年シャノンは熱く席を立った。
「けしからん……!」
若者に苦言を呈する親父のごとく、拳を握る。
そして――頑張り屋さんな妖精達に〈ふわふわクマちゃんアイス〉を購入してやっていた。
「無理はするな! 水分を取れ!」と熱く指導している。
リオは暑苦しい背後に「えぇ……」と正直な声を上げてから、主審に尋ねた。
「つーかあの侯爵、なんであんなキレてんの?」
リオはじっと映像を見た。侯爵の身体は暗く赤い光を帯びていた。
体内で、魔力と憎悪を練り合わせているように見えた。
〝ブチギレ〟といっても過言ではない形相で、一歩も動かず。
二人の騎士はその禍々しさに足を止めていた。
『先輩! あの魔力にはふれないほうがいいと思います!』
『君は、私のことを馬鹿にしているのか? あんなものに近づくはずがないだろう!』
マスターはギルドの管理者らしく「まぁ、騎士には荷が重いだろうな」と能力を分析していた。
眼差しは、いっそ冷淡にすら感じるほどだった。
感情を排して事実だけを述べていた。
カラン
南国の鳥はグラスの氷を揺らしながら「おや?」と言った。
「侯爵の手の甲に、黄色いものが見えるのだけれど」
その言葉に、主審はハッと口を開いた。
口元がもふっと膨らんでいた。
親切な主審は、観客のために情報を開示することにした。
「クマちゃ……」と頷き、猫手で掲示板を示す。
あちらをご覧くだちゃい……。
白い手先で招くように空をかくと、映像がぱっと切り替わった。
「おおっ」と観客がどよめく。映ったのは、噂の手の甲。
正直者リオは曇りなき眼で観察した。侯爵の手の甲を。
否、手の甲というより――黄色いカードを。
ぴったりと揃えられた指先と、真っ直ぐに伸ばされた甲に、イエローカードが貼り付いている。
がっつりと、固定するように。
つまりどういうことかというと、
「めっっちゃ動かしにくそう」
ということだった。
そのうえ主審の判定は〝ダブルイエローカード〟なのである。
侯爵の手は両方共こうなっているということだ。
リオは素直に理解した。
これめっちゃ腹立つと。
正直者が「ひどすぎる」と禁断の審判批判をしていると、南国の鳥が涼やかにさえずった。
「なるほど……だから騎士達を不愉快そうに見ているんだね」
「いや『不愉快そう』どころじゃないでしょ。絶対殺す気じゃん」
不仲な人間にあんなことをされたらブチギレ必死である。
『手の甲イエローカード事件』は騎士の仕業だと思っているのだ。あの侯爵は。
――まぁ犯人は目の前の騎士ではなく、ここで変な笛を吹いているクマちゃんなわけだが。
と、リオは他人事のように考えていた。
しかし掲示板の方はそれどころではなかったらしい。
ドガァンッ
ただ事ではない音が響いた。
「おー派手にやってんな~」
「この貴族のおっさん、何が不満でこんなことしてんだろ」
「普通に考えて、下剋上とか?」
「無理。敬えない」
「暗殺者送ってんのもこいつ?」
「王様も王弟くんもこっちいんのやばくね~?」
「暴れ損すぎるだろ」
「手がウケる。超黄色」
「ピーン! ってなってる……てかビールうまっ」
「それな」
「マジさいこー」
精鋭達が、冷えたビールで真面目と不真面目の間をさまよっていた、そのときだった。
ピピィー――!
鋭澄な音が空気を一閃する。
主審の猫口が笛を鳴らしたのだ。
観客は息を飲み、「クマちゃ――!」に耳を澄ませた。
これ以上侯爵の身に何が起こるのか――と若干気の毒にすら思いながら。
◇
現在クマちゃんの『スポーチュ観戦』に巻き込まれている侯爵は、何一つ理解していなかった。
自分が所持している〝不気味な宝玉〟が、不幸の原因であるということを。
その玉、あるいは珠が、自分の自我を奪いつつあるということを。
だが、それよりさらに深刻な問題があった。
たとえ説明されたとしても、理解しようのないことだった。
それは、今まさにその〝玉〟のせいでどこかの世界の〈球技的ルール〉の縛りを受けていること。
それを、猫のような主審により裁定されているということだった。
子猫のごとき主審は、外見年齢および精神年齢が赤子だった。
乳飲み子らしく、様々な物事をぼんやりさせていた。
それゆえ、広すぎる心と拡大しすぎた解釈により――知っている球技のルールと不意に思いついたルールを、すべて複合させてしまったのだ。
清き赤子たる主審は、核が揺らぎ続ける〝クマちゃんスポーチュルール〟を、厳格に見極めんとしていた。
壁を凝視する猫のごとく、〝何かが気になる侯爵〟だけに焦点を当てて。
◇
ピピィー――!
主審が鋭笛を鳴らす。
侯爵が動くたび。気になる動作をするたびに。
侯爵が歩けば、笛が鳴る。
のちにリオは語った。
嫌いだから鳴らしたんじゃないの――と。
ピピィー――!
主審による聖なるjudgeは理不尽とも言えるものだった。
否、理不尽の塊でしかなかった。
そう。正義とは、時に理不尽なのである。
ピピィー――!
「クマちゃ――!」
『変な玉を隠し持っていまちゅ――!』
ゆえにトラベリング。
ピピィー――!
「クマちゃ――!」
『まだ玉を持っていまちゅ――!』
ゆえに繰り返し違反。
ピピィー――!
「クマちゃ――!」
『規定の距離を保ってくだちゃい――!』
ゆえに距離不足。
ピッピピピー――!
「クマちゃ――!」
『反スポーチュ的な表情でちゅ――!』
つまりラフプレー。
ピーピピッピッピー!
「クマちゃ――!」
『オフサイドちゃんでちゅ――!』
という主審の突き抜けた判断により、競技者三人のうち一人は常にオフサイドとなった。
主審は何かがあるたびに、ハッとした猫の顔で、ピッ! と猫手を上げた。
これらは、侯爵に下った判定の一部である。
隠し持った武器だけ飛ばして、オフサイド。
主審のみぞ知るラインを超えて、オフサイド。
右側通行、オフサイド。
遅延行為も、オフサイド。
アレもコレも、とにかく全部が、オフサイド。
ピピィー――!
主審は「クマちゃ――!」と警告した。
イエローカードちゃんは累積百枚で退場になりまちゅ――!
「多すぎでしょ」
と、リオは感じるままに告げた。
累積させすぎであると。
◇
『貴様らぁあ……!』
理性を失った人間の声が、掲示板から響いている。
非常に聞き取りにくい声だった。
原因は、顔に貼られた四枚のイエローカードであると推測された。
ピピィー――!
主審は厳格な子猫の声で「クマちゃ――!」と告げた。
『セミダブルイエローカードでちゅ――!』
そんなものはない。と反論する者はなかった。
それゆえ、謎めいたカードは増えていった。
ルールと同じように、限りなく自由に。
現地の黄色い悪魔によって、絶叫し暴れる侯爵の身体に直接貼り付けられていった。
ちなみに、セミダブルベッドサイズのイエローカードは、侯爵の背中に貼られた。
退路を塞ぐためかどうかは不明である。
『アディショナルイエローカードでちゅ――!』とカードは理不尽に追加された。
『オレンジカードでちゅ――!』とカードは少々赤みを増した。
精鋭達はそこに描かれた文字を読み取り「クマちゃん鉄道……?」と呟いた。
しかしそこで、リオはまったく別の衝撃を受けていた。
〝イエローカード〟に似たものを、彼は見たことがあった。
色が変わったことで、さらにそれが赤みを帯びていたことで、ようやく気づいたのだ。
頭の中の記憶が、ピピピピピ――と主審の鳴らす笛音のようにつながってゆく。
本物そっくりな絵、温泉の湯気、白と黒のボール、涙目のクマちゃんと、猫手に握られた――。
「赤いカードのやつじゃん」
そうだ。ルークが持っているカードに描かれていたのだ。
ボールを温泉に落として『退場』になりそうなクマちゃんと、天使のような羽が。
つまり、神聖なカードを、白き赤子におもちゃとして与えてしまったのは――
「お兄さんじゃね?」
と、高位で高貴な存在のなにがしかにふれるという禁忌をかすめた男は、派手な男によって菓子の森へ連れ去られた。
「リオ、君に話があるのだけれど」
神秘的な決まりは守る大雑把の化身が、余計なことばかりいう男の口にクッキーを詰めていたときだった。
『脳なしの騎士どもめ……! なぜ王を護ろうとする! あれが……あの愚王が何をしたか、貴様らは知っているのか!』
クマちゃんの掲示板から、ひび割れた声が聞こえてきた。
呪詛のような叫びに、マスターは「ん?」と片眉を上げた。
愚王などと呼ばれる人物ではないと、立場が上の者ほどわかっているのだ。
それゆえ侯爵が何を言おうとしているのか、見当がつかなかった。
侯爵は、全身を黄色に染めて慟哭した。
血を吐くように叫んだ。
自分だけが知っている、残酷な真実を。
『王弟を殺したのは、あの男だ! この国の王は、愚かにも、実の弟を手にかけたのだ……! 誰より美しく聡明なあの御方を妬んで……!』
「いやいやいや死んでない死んでない。めっちゃ生きてる」
と、リオは心の底から告げた。
口元のクッキーを親指で払い、「え、つーか誰の話? 聡明な御方は下ネタ言わなくね?」と余計な言葉を付け加えて。




