第502話 天才シェフと調理補助の穏やかなひととき――会議中のマスターを添えて。
そして天才シェフクマちゃんは、難事を成すための秘術を披露した。
◇
陽に透ける緑が風に吹かれ、さわさわと揺れている。
噴水の水音が、森を癒す雨のようにザァ――と空気にとける。
鳥たちの瑠璃色の歌声が、交互に、ときに重なって、最上の音楽のように響いている。
ピュリィー、チチチ、ヒョロロロ。
高らかにさえずる彼らは、何を語っているのだろう。
ふわふわな耳が小さく跳ねパタタ、と動く。
天才シェフクマちゃんは猫にそっくりな手を伸ばし、白き表紙の愛読書をぱらりとめくった。
開いたページは本日のメイン料理、〈豚スペアリブの炙り焼き〉である。
シェフはうむ、と頷いた。
子猫のように透き通った声は、ゆっくりとそこに書かれた材料を読み上げていった。
◇
「クマちゃ、クマちゃ……クマちゃ、クマちゃ」
豚ちゃんのあばら肉ちゃ……お塩ちゃ、クマちゃ、クマちゃ……おクマ黒胡椒ちゃ。
なるほど。今日の昼飯は豚肉を使った料理らしい。
調理補助リオは「えーと」といって身をかがめた。
見おろすと、片腕にはいつものようにシェフがもふ……と収まっている。
では最初に――、
もふ……とふわふわで生温かいシェフへ、リオは右手を伸ばした。
そして、水色のチェック柄ではない部分をふわりとなでた。
指のあいだを細い毛が通り抜けてゆく。
極上の手ざわりである。
もこもこ頭の丸さと温もりが、手の平に伝わってきた。
「クマちゃ……」と満足気な声がする。
リオは手を離した。
その瞬間。
シェフがハッとして、振り返るように首を動かす。
が、あまり回らず、やや横を向いた程度で止まる。
「……くっ」
調理補助は胸の痛みで息を詰まらせた。
きつく抱きしめたくなる気持ちを、歯を食いしばって耐える。
少々呼吸が乱れていた。
「やば……」と声を漏らし、シェフの顎下を指先でふわふわする。
目の前の煌めくカウンター席では――、
流れ弾に当たった死神が倒れかけていた。
愛に苦しむクライヴはマスターの肩を借り、食卓兼円卓へと連れていかれた。
円卓という名の巨大な貝殻は、幻想的な光を放っている。
間を置かず、「お前らも来い」と声がかかった。
ついでのように呼ばれたルークとウィルは、席を立たなかった。
そのまま十五秒ほど、もこもこしたシェフを見つめていた。
が、残念ながら「おい」がもう一度聞こえてしまった。
そのため仕方なく、しぶしぶ、渋い男の額に青筋が浮くほど時間をかけて移動していった。
「豚肉のあばら……ってこれ? なんか骨ついてそうなやつ?」
シェフがルークの不在に気づかぬよう、リオは先手を打った。
食材の入った箱の前に跪く。
すると、ゆるやかな半弧を描くカウンターの陰になり、ちょうどいい目隠しになった。
「クマちゃ……」
素直なシェフは凄そうな肉の迫力に、もふっと口元をふくらませた。
一人と一匹の前には、ずしりと重そうで、上質な骨を抱える肉塊が座していた。
赤と白の対比と、生命を感じさせる弧の連なりは、おそろしくも美しかった。
「それから塩とー……クマ胡椒、あれ? 黒胡椒だっけ? っていうかこの黒い袋……」
調理補助は、シェフの頭を高い鼻の先でもふ、としながら嫌そうに紙袋を開けた。
「こわ……」
と静かに声を漏らす。
やけに黒くて格好いい袋の中は、当たり前のように〝静かなる闇〟に支配されていた。
間違いない。
これこそが〈よろず屋お兄さん〉の何でも出てくる調味料入れである。
冒険者でなければ、この小さな闇から感じるただならぬ気配にひれ伏すだろう。
五体投地してガタガタするか、全速力で逃げ出すか。
そういう何かがそこに在る。
どんな感じかというと、近くにあるだけで静寂や無、つまり〝死っぽいもの〟を感じるのである。
そして近づきすぎると何も感じなくなるわけだが、袋に入るわけではないので、気にしなくてもいいだろう。
これがあるということは、クマちゃんの過保護な〝お兄さん〟はカウンターでシェフを見守っているらしい。
やけに似合う竜宮城から出てきたということだ。
きらびやかなあの場所でゆるりと過ごしていたはずだが、学園生達から離れることよりも、愛し子の料理の方が大切なようだ。
そこでふと、『泥が爆発』というクライヴの言葉を思い出す。
あんなに短時間で、彼らの仕事が終わるはずがないのだ。
菓子の国の円卓から極大な森の奥地、さらに天上の城まで一瞬で移動できる人間など、この世に存在しない。
それを可能にしたのは、高位で高貴なお兄さん以外にありえない。
マスターの書類を運んでいたのも闇色の球体だった。
まさか、大型モンスターがめちゃくちゃ増えてたとか?
と、一瞬思い浮かんだが、ルーク達の様子は普段通りだった。
それに、とリオは思案する。
たとえ倍に増えたところで、クマちゃんの加護がある自分達の脅威にはなりえない。
食べるとドンドン強くなるイカレた食事。
ありえないほど効果の高い回復薬、もとい甘すぎる牛乳。
強化薬というより狂化薬のごとき野菜ジュース。
もう完全に神器を超えているとしか思えない力を、秘めずにバチバチ放っている武器。
これらを手にした彼らが、たかだか大型モンスター程度に苦戦するはずがないのだ。
本物の魔王が五体ぐらい同時に現れても何の問題もないだろう。
なんなら素手でもいけそうである。
よぎったあれこれを振り払い、立ち上がる。
リオは余計なことと先ほどの件を記憶から消し、マーメイド妖精達がヨチヨチと集まっている場所へ礼を伝えた。
「お兄さんありがとー」
そうして、〝穏やかで安らかな闇〟が入った袋をサッと、蒼い輝きを放つ台の上に置いた。
◇
ピュリリ、ピピピ、リィルルル。
「そうだな……今度はあの家の周りでいい。話を聞く限り、しばらくは何もないだろうが……朝昼晩、いや、数時間おきに確認すべきだろうな」
「大型モンスターのボスがいる……」
「やめろ、ボスに殺られるぞ」
「もう泥は嫌だ……」
「俺は無事だったぜ」
「無事か?」
「おまえ涙目だったろ」
「泥爆弾よりルークさんの結界が怖い……」
「それな……」
「俺さ、初めて空飛んだわ……」
鳥たちの歌声と、穏やかで渋い声、精鋭達の悲しげなざわめきが、静かに交じり合う。
その声は、数メートル先の彼らにも聞こえていた。
蒼く美しいキッチンは、まるで舞台のようだった。
ひかりの宝石を砕いて集めたみたいに、幽美な調理台は光彩を散らしながら半弧を描いている。
巨大な真珠貝のような形の傾斜のついた屋根からは、貝殻風のランプが吊り下げられていた。
一人と一匹の前には、メインの食材と、ガラスっぽい容器に入れられた調味料が、ずらりと整列していた。
迫力満点骨付き肉、四種のハーブ、赤と焦げ茶のソース、琥珀色のはちみつ、マスタード、リンゴ、ベリー、ニンニク、玉ねぎ、パプリカ、割られた木。
調理補助はシェフの顎下を撫でながら、見て分かるものの横に置かれた、見ても分からないものについて尋ねた。
「あのさ、あの木なに? 薪?」
シェフはうむ……と頷いて、彼の疑問に答えた。
「クマちゃ……」
フルーチュウッドちゃんでちゅ……。
「そっかぁ。フルーチュウッドちゃんかぁ」と調理補助は何も分からないまま繰り返した。
分からないが、もうそれでいい。
なんか果物っぽいような気がする……とわずかに掴みかけた思考すら、もこもこの愛らしさの前ではどうでもよく感じられた。
「クマちゃ……」と愛読書を開き、シェフが険しい顔をする。
そこには、あばら肉を解体するための難題が記されていた。
刃で余分な脂を落としたり、ちょうど良く残して、焼いたときに煙が出すぎないようにしたりするらしい。
そのうえ、なんだかよく分からない膜も剥がすらしい。
さらに、骨に沿って美しく形を整えねばならないらしい。
しまいに、余った端肉は刻んで別の料理に回すらしい。
シェフは、調理補助に頭をもしょもしょされながら考えた。
うむ。大変すぎる。
そうして、天才シェフクマちゃんは、複雑な作業を一瞬で、手早く終わらせる秘術を試してみることにした。
「ん? 降りたいの? クマちゃん可愛いねぇ」と煌めくステージに降ろしてもらったシェフは、ごそごそ……と幼児用エプロンの裏に本を隠した。
「どうやってんのそれ」とリオは尋ねたが、シェフは忙しいらしい。
カフェ店員妖精ちゃん達の方へヨチ、と向き直ると、静かに頷き右手を上げた。
そして、リオは見た。
チェック柄のコック服に身を包んだシェフが、両目をつぶり、もふっと膨らんだ口元の横を、丸めた猫手でこしこし、こしこし、と懸命こすり始めた瞬間を。
それに合わせ、キッチンのあちこちで待機していた妖精達が、シェフと同じように、こしこし、こしこし、と子猫顔を洗い出した、奇跡としかいいようのないその光景を。
「えっ何これ」
リオはあまりの愛おしさに、ぐっと目を細め、片手で顔を覆った。
どうしようなんか分かんないけどとにかくヤバすぎる無茶苦茶可愛い俺もう死ぬかも……と心臓を激しく高鳴らせながら。




