第500話 優しく肯定するクマちゃんと、贈り物の正しい使い方。何でも疑う金髪。
クマちゃんは、素敵な髪色の騎士が元気になるように、精一杯励ました。
うむ。とにかくたくちゃん褒めるのがいいだろう。
◇
〈クマちゃんのなんでも映る掲示板〉の向こうで感涙する青年が、奇跡のクマちゃんグッズに衝撃を受ける数分前のこと。
そこには、代わり映えのない景色があるはずだった。
周囲から最年少騎士と目されている青年は、一人の人間を抱えたまま城内を歩いていた。
西塔警備司令室で、何の助言もせずに寝落ちた主席神官を、異変探知機代わりに連れてきたのだ。
カツカツと冷たい足音が、金糸がゆらめく白大理石から跳ね返る。
肩からずり落ちそうな神官を、片手でぐいっと固定する。
家紋入りの武具帯に鍔がぶつかり、シンとした空間でカチャリ、と音が鳴った。
明瞭に照らされた司令区の廊下は、心なしか、いつにも増して明るく見えた。
人が隠れるスペースも、物を隠す場所もほとんど存在しない、いつも通りの風景。
そこには花瓶すら置かれておらず、艶やかな石張りの白壁と、その壁面にずらりと並ぶ優美な魔道灯が、調度品代わりと言ってもいいぐらいだった。
両側に扉が並ぶ、幅三メートルの通路を抜ける。
ルビーレッドの細い絨毯が敷かれた角塔を、雅麗な螺旋階段を横目にやや早足で突っ切った。
そうして最年少騎士は、迎賓王族専用の客室がある南塔の二階へ、なんの期待も抱かずに、カツンと足を踏み入れた。
ふと、空気が変わる。
まるで森の中のように、ふわり、と濃密な緑の香りが鼻先を撫でた。
そして――涙がこぼれそうなほどあたたかで、どこまでも大きな力が、彼らを優しく包み込んだのを感じた。
疲れた体の隅々にまで、癒しを与えられたようだった。
その心地よさに、くらりとめまいがした。
おだやかな木漏れ日と、空を覆う樹冠、恵みの大地が、今ここに、目の前に広がっている。
わずかな時間、そんな風に錯覚していた。
最年少騎士の青年は、頭を垂れそうになる自分を叱咤し、潤む瞳をぐっと細めた。
「…………」
はやる心を押さえ、カツン、カツン、と慎重に歩を進める。
手の甲で、目元を押さえる。
そうして、はっきりした視界に飛び込んだものに、その神々をも魅了しそうな愛くるしさに、わぁ――! と歓声を上げたのだ。
聖獣の赤ちゃんが廊下に巣を作っている……! と彼独自の解釈をしながら。
◇
『知らない人に話しかけちゃ駄目!』と言われてしまったクマちゃんは、口のまわりをもふっと膨らませながら熟考していた。
何でも知っているクマちゃんは知っているが、仲良しのリオちゃんは知らないのだろう。
はじめはみんな、〝知らない人〟だということを。
つまり、たくちゃん〝お知り合い〟がいるリオちゃんは、〝知らない人と話しまくった〟ということである。
駄目なことをやりまくったリオちゃんは、今後どうなってしまうのだろうか。
クマちゃんは不安になった。
湿ったお鼻がきゅうっと鳴った。
ゆえに、〈残念賞ちゃんB賞ちゃん〉を残念そうに見つめるリオを、想いをこめて応援することにした。
猫っぽい手先をきゅむ、と丸めて「クマちゃ……」と。
ファイチョ……。
妙な呪文をかけられたリオは「クマちゃん何言ってんの?」と返しつつ、掲示板から聞こえる足音へ意識を集中させた。
冷気を放つ誰かが苦しげな声を漏らし、渋い声の持ち主に「おい、大丈夫か」と言われていたが、そちらは見なかった。
無口な魔王から殺気を向けられていることも、気にしている余裕はなかった。
この世のどこかにある伝説の秘宝などよりも百倍以上、いや、計り知れない価値がある〈天才的おねんねクマちゃん人形〉が、通りすがりの人間によって奪われてしまうかもしれないからだ。
泣くほど可愛いと思っているなら、天罰を受けてでも奪いたいと考えても、さらには強行に及んだとしてもおかしくはない。
掲示板越しでも殺気は届くのか。
そんなリオのただならぬ念が届いたのかもしれない。
ついに掲示板に映りこんだ騎士が拾い上げたのは、究極的に姿勢の良い人形――ではなく〈鼻かみ用ティッシュ〉という謎のアイテムのほうだった。
掲示板から声が届く。
感動しているような、震えた声が。
『ふわふわしている……』
『……あたたかい』
若い騎士は跪いたまま、愛くるしい人形へ遠慮がちな視線を送った。
そして、ぎし、と体が固まったみたいに動きを止め、おおよそ二分間が過ぎる。
リオはハラハラとイライラが混ざったような表情で強く願った。
「その『鼻かみ何とか』は持ってっていいからどっか行って欲しいんだけど」
クマちゃんは難しい顔のリオを見ながら両手を丸め、不安そうに「クマちゃ……」と言った。
ファイチョ……。
「何か気になるんだけど……」とリオはクマちゃんの弱々しい応援に気を散らしつつも、最年少騎士から目を離さなかった。
「おい、息をしろ」と切迫した声がした。
誰かが意識を失いかけているらしい。
「うーん。たしかに、息が止まるほど愛らしいね……」
「ああ」
新芽のような髪色の騎士が、祈るように目を閉じる。
『はぁ……愛らし過ぎて胸が痛い……。でもこれで、この〝聖具〟の使い方がわかりました』
最年少騎士は、クマちゃんが不正解者に贈った〈鼻かみ用ティッシュ〉の使い道を深く理解したようだった。
手のひらサイズのそれを胸に当て、悟ったように頷いている。
「鼻かむんじゃないの」とリオは冷たく答えた。
〝鼻かみ用〟と書いてあるのだから、どこか遠くで鼻をかめばいい。
そんなリオの雑な思念は届かなかったようだ。
最年少騎士は感じ入るように囁いた。
『主席神官殿に枕を用意してくださったのですね……。お心遣いに感謝いたします』
「小さすぎるでしょ」というリオの言葉は、やはり届かなかったようだ。
ふたたび掲示板から最年少騎士が消える。
ごん、と鈍い音がした。
◇
速やかに作業を終えて戻ってきた騎士は、じっと人形を見つめながら呟いた。
『愛くるしい……なんという名の聖獣様なのだろう』
クマちゃんは掲示板を見ながらハッとお口を押さえた。
お名前を聞かれたのだから、ご挨拶をしなければ。
ふわふわの猫手で、スッとドクロスイッチを構えた。
リオは素直な我が子が心配になり、「ちょっと待って」と口を挟んだ。
『そもそも聖獣なのか』と問うよりも先に、言うべきことがあった。
「流石に〝クマちゃん〟はやばいんじゃないの。偽名使ったほうがいいって」
仲良しの彼の言葉に、クマちゃんはハッと表情を変えた。
もこもこしたお口を肉球でプニ、と押さえた。
やばちゃ……と。
クマちゃんは天才的な頭脳を猛スピードで働かせた。
リオの曖昧な忠告が、クマちゃんの丸い頭をそよ風のようにサァ――と駆け巡る。
ふわふわなお耳がピクリと動く。
つぶらな瞳がキリッと吊り上がる。
パッと浮かんだ偽名は、一つだけだった。
クマちゃんは、うむ、と頷き、脳内の約八十九パーセントを占める偽名を寂しげに告げた。
「クマちゃ……クマちゃ……」
クマちゃんのお偽名ちゃんは……『流石にクマちゃんはやばいんじゃないの』でちゅ……。
大人達はクマちゃんを『?!』と凝視した。
リオは諦観したように静かにまぶたを下ろした。
「うん……ぜんぶ言っちゃうよね」
そして諦観の金髪リオは、心清き赤ちゃんを混乱させた元凶として袋叩きに遭いそうになった。
しかしそのあいだにも、最年少騎士とクマちゃんは、掲示板越しに心温まる交流を続けていた。
『ええと、そうですね……聖獣様の真名を人間に知られるのは危険だと、僕も思います』
『この辺りは僕が人払いをしておくので、どうか安心しておくつろぎください』
『巣作りに必要なものがあれば、調達して参ります。……花の種がいいでしょうか?』
ピンポーン――!
と軽快な音が鳴り響いた。
『クマちゃーん』という愛らしい音声も。
景品ちゃんですちゃーん、と人間達の耳は、それを受け取った。
カコーン! カンカンカン……と硬い物が廊下に転がる。
騎士は焦った表情でそれを拾い、『ああ、壊れてはいないようです』と安堵を息を吐いた。
その直後、『これは……!』と驚きの声を上げた。
大人達は視線を掲示板に戻した。
騎士の手に握られているのは、非常に見覚えのある人形だった。
「めっちゃヒゲ」とリオは率直に述べた。
黒いヒゲの人形といえば、あのアヒルボートである。
映ってはいないが、天井付近に黄色い悪魔がいるようだ。
リオは先ほどからおかしなアイテムを落としている存在にあたりをつけた。
それと同時に、掲示板の向こうの騎士も、何かを察知したらしかった。
『まさか、この城内でそんなことが起こっていたとは……。脆弱な人間達のために、たったお一人で戦いにいらしたのですね……』
『このヒゲならいつかやると思っていました。……僕にお任せください。必ず生け捕りにいたします』
ピンポーン!
『クマちゃーん』
ふたたび音声が鳴り響く。
クマちゃんの真っ白な猫手はスイッチのドクロマークに、ふに……とのせられていた。
リオは黒ヒゲを見つめて懸念を述べた。
「濡れ衣なんじゃないの」
そうして現場が荒らされないことをしっかりと確認してから、我が子に告げた。
「クマちゃんもうお昼だから遊ぶのおしまいにしよ」




