第494話 下界の快眠騒動。天上のクマちゃん。ざわつく都会人。王弟様からの……。
クマちゃんは、雲の中を仰向けで泳ぐような気持ちで、薄くて小さな舌をちゃ……と動かした。
◇
まるで、穏やかな光をあびて、さわさわ、さらさらと草木がゆれる音に身をゆだねているような、そんな、やすらぎに満ちた時間だった。
耳元で大声を出された彼らは、ん、と顔をしかめた。
やさしいひかりが、ふわりとはなれてゆく。
すりぬけるなにかに手をのばそうとして、指先がぴくりと動いた。
ああ、――朝か。
彼らは、気取った仕草で目元をおさえたり、目を開けないまま朝の香りを吸いこんだりしながら、非常に貴族らしく、ゆったりと起床した。
ぼうっとしつつ、瞬きをする。
そうしてようやく騎士達は、先ほどの『おい、おきろ!』に対する、返事のようで返事ではない言葉を返した。
「最高の睡眠だったな」
顔だけ真面目な騎士が言う。
「同意するが、これは、どういうことだ……?」
神経質そうな騎士があたりを見回す。
「僕、こんなにすっきりしたの初めてかもしれません。癖になりそうだなぁ」
最年少騎士が、朝に相応しくない笑みを浮かべる。
「それにも同意するが、ここは……廊下ではないのか……?」
と神経質そうな騎士はうっかり同意しつつ、美しい城の廊下へ汚らわしいものを見るような眼差しを向けた。
三人の騎士に、彼らを起こした騎士が状況を説明する。
男は報告書のように、大きな声で、順序立てて言葉を並べた。
「本当に最高だった!」
「こんなに気持ちよく眠れたことが過去にあっただろうか?」
「いや、ない!!」
「体の疲れも打ち身も、すべて治っている!」
「しかし!」
「もう一度寝たい! などと言っている場合では――ない!」
「我々は今から、副隊長のところへ向かわねばならない!」
「直ちに進行を開始する!」
そうして起きたばかりの騎士達は、報告書のような男を先頭にして、貴族らしく早足で二階を目指した。
◇
風のない湖面のように、大理石に光がはしっている。
カツカツ、と響いていた騎士達の足音が、カッ――と大きくなって途切れた。
静寂を、少しばかり大きな声が切り裂く。
「失礼します! 西塔警備の者です! 異変を感知したため報告に参りました!」
「寝ていたとは言えないよな」
「君、ここで言うのはやめたまえ」
「異変というか気持ち良かったですよね」
「やめろと言っているだろう!」
神経質な騎士はキッと目を吊り上げ、「同意するが」と言った。
そんな彼らに、いつもなら返ってくるはずの小言は、今日は聞こえなかった。
「ここもか」
顔だけ真面目な騎士が、そう言ってずかずかと司令室に足を踏み入れる。
上席が揃っていたとしても挨拶は必要ない。
この区画を護る騎士達も、彼らを素通りさせたのだ。
「仏頂面以外の顔なんて初めて見たな」
男は円卓に伏す副団長の顔を堂々と覗き込み、
「完全に寝てる」と頷いた。
起こしたら怒られるんじゃないか。
などと場違いなことを考えながらトン、と肩をたたく。
「副団長。いいところを邪魔してすみません、南塔に連絡をお願いします」
顔だけ真面目な騎士が、彼らの上官を起こそうとしているあいだ、その後ろで同僚二人は不真面目な会話をしていた。
「でもこんなことになってるのに、僕、まるで焦ってないんですよね。先輩って神聖な空気とか感じるほうですか?」
「同意するが、この部屋で『まるで焦ってない』というのはやめたまえ。私まで睨まれるだろう。……全員寝ているようだが」
神経質そうな騎士は十メートル以上の吹き抜けを見上げ、回廊からはみ出す手に「寝相が悪い」と処断した。
◇
王都の騎士達が、巨大な警備司令室の人間を起こすのに苦労していた頃。
繊細華麗な透きとおる薄絹が、優しくふわりと幕を下ろす。
寝台にもふ……と横たえられしクマちゃんは、幽光たる淡雪にも勝り、たまゆらのごとき輝きを放ち、生後三か月にして光輝燦然とした神々をも超え、天舞い踊りし聖獣をも凌ぎしからだに、雲のごとき羽絹をふわりと掛けられた。
優美なベッドに横になったリオは、お風呂上がりでいつもよりもこもこしているクマちゃんを眺めながら、はぁ、とため息を吐いた。
「めちゃくちゃもふもふしてるじゃん……」
寝ているだけなのに、どうして目が離せないのか。
何故、なんのために全身が被毛に包まれているのか。
どうして耳までふわふわしているのか。
耳も頭も手の先も丸いのは、いったい何故なのか。
リオがそんなふうに、湿った鼻から熱い寝息が零れているだけで可愛いクマちゃんを、「白い。白すぎる……」と嘆きにも似た声音で賛美していたとき。
ふと現れた闇色の球体が、何故か天蓋付きのベッドが三つも増やされていた部屋に、音もなく、白き塔を置いていった。
「おや? あれは……マスターの書類ではない?」
ウィルは、高位で高貴なお兄さんの、人間の常識とはいささか異なる思い遣りを、ギルドの管理者にやさしく知らせた。
「良かったね、マスター」
と、他人事のように。
空ゆえに、逃げ道のないマスターは、ふ、と哀愁を漂わせた。
「……そうだな」
神秘的な存在に『書類を持ってくるんじゃなく、俺を地上に帰らせてくれ』とも言えず、威厳を宿すテーブルに積み重なった紙を、マスターはぱらりとめくった。
ルークの懐で眠るクマちゃんを凝視していたリオが、
「マスターウケる」というのと、マスターが「黙れクソガキ」というのは、完全に同時だった。
「いや八つ当たりじゃん!」というのと「ぶっ飛ばすぞクソガキ」というのも、やはり同時であった。
◇
その頃、白きもこもこが空に浮かべた怪奇現象に混乱していた王都の街中では。
都会人達は、まだ近所をうろついていた。
空を見上げる人間を探し出すために。
コツコツコツ、と整えられた石畳を早足で歩く。
向こうからも同時に人が歩いてくる。
が、空を見上げてはいない。
ただすれ違い、そして――都会人は胸騒ぎを覚えた。
あの男、先ほどもすれ違わなかったか? しかし何かが……。
違和感の正体を確かめるため、バッと勢いよく返り、都会人は衝撃を受けた。
『おしゃれになってる!!』と。
都会人は震えた。
まさか、先ほどのダサい自分を見て着替えたのか、と。
相手もやはり振り返っている。
今度はなんと、目を口をかっぴらいて。
顔色が変わった都会人は、その場からダッ! と逃げ出した。
もう一度着替えなければ! と。
相手の男が、両手で服を隠しながら走り去ったことも知らずに。
◇
王都の街中がおしゃれな人間であふれかえっていた頃。
ははっ、と軽やかで気品漂う笑い声が、王の寝室にそっくりな部屋に響いた。
「お前、そっくりだなぁ」
何故か、いつも王宮で出されるものより温かく、味も普段とは明らかに違う――言葉を飾らずはっきり言うと、宮廷第一料理長が作るものより数倍美味い――料理に舌鼓を打ちながら、美人な王弟は機嫌の良さそうな顔で、ふわふわした妖精をくすぐっていた。
白いコネコにそっくりな妖精は、目をつぶり、懸命に猫パンチを繰り出している。
護衛達は黙したまま、微かに口を動かした。
『可愛い……』『羨ましい……』
王弟が、ん、と彼らを見る。
二人は侵入者でも警戒するように、窓の外に目を向けている。
「あいつ、戻ってこねぇなぁ」
王弟はのんびりとした口調でそう言うと、二人の護衛に、なぁ、と声をかけた。
護衛が「はっ」と応答する。
心の中は少々不安が勝っていたが、顔には出さない。
「探しに行ってきてくれねぇ?」
『どんどん護りが手薄になっていくんですが……』と言いたい気持ちを堪え、護衛の片方は微かに間をあけて「御意」と答えた。
男は自分の顔が御意の顔でないことを心配したが、王弟殿下は違いが分からなかったようで、ゆったりと頷いただけだった。
一時間ほど前、妖精達の飲み物を探しにいったはずの優秀な護衛を連れ戻すため、真面目な護衛の片方は、足早に寝室をあとにした。




