第490話 怪しい美人。冷静ではない護衛。可愛いクマちゃんと健康なリオ。
クマちゃんはハッと口元を抑えた。
これはまちゃか……、と。
◇
薄暗い朝に相応しい、健康的かつ酒気を帯びた飲み物が、ひやりと喉を通り過ぎてゆく。
うま、と小さく呟き、リオは王弟と護衛と妖精達が映る映像をじぃっと眺めた。
確かに、丸い頭と可愛い耳からは薄い赤色の雫がぽたぽたと垂れていた。
が、冒険者が血とジュースを見間違えるわけがない。
それを言うならあの護衛も同じなはずだが、廊下に包丁でも落ちていたのか、それとも、ただの猫好きか。
ともかく、偉大な魔法使いクマちゃんがつくった〝凄い医務室〟で、クマちゃんの分身体のような妖精が怪我をするなどありえない。
そんなことが起こる前に、高位で高貴で〝超〟過保護なお兄さんが、溺愛するクマちゃんにそっくりな妖精達を闇色の球体で助け出すに決まっている。
と、リオが考えるのと同じように、巨大な掲示板を観ている大人達――特に冒険者ギルドに所属する者達も似たようなことを思っていた。
「あれは怪我……ではないな」
「妖精ちゃんはなんで頭にジュースがかかってるの?」
という風に、慌てることなく映像に目を凝らしている。
彼らだけではなく、掲示板に映る王弟も驚いてはいないようだった。
――映像の中、美人な男が美麗な鼻をスン、と鳴らす。
そうして、のんびりとした口調で、汗を滲ませ息を乱す護衛の心臓が大暴れするようなことを言った。
『お前、キュウリみてぇな匂いすんなぁ』
『そんな馬鹿な……!!』と毎日高価な石鹸を使用している護衛が目を見開く。
まさか、あの緑色の石鹸にキュウリが、と。
ほぼ同時に、映像を観ている者達もざわついた。
「甘えん坊キュウリ」
「ひどすぎる」
「なんてことを」
「キュウリじゃなくてトマトだって」
「そういう問題だろうか」
――映像の中、我が道を行く王弟様は貴族な護衛騎士を激しく動揺させたことに気付いていないようだった。
『まぁいいや』と美人な男が言う。
『まったく良くありませんが』と護衛が声を震わせる。
屋敷のメイド長に今すぐ聞きたいことがあるのですが……、と。
しかし今はそれどころではないと思い至ったらしい。
優秀そうな護衛は愁いを帯びた顔つきで、『人間用の回復薬ではこの子達の毒になってしまうでしょうか?』と王弟に問いかけた。
訊く相手を間違えている。と護衛に助言する者はいない。
『俺が治してやるよ』と王弟は言った。
『まことにございますか?』と子猫っぽい生き物とキュウリの件で激しく動揺している護衛は、怪しい王弟に甘えん坊な一面を垣間見せた。
リオはその映像を観ながら、かつて後輩冒険者が〝私はこれでモテました〟という本を抱えて一輪のバラを購入していた時のように、嫌そうな声で「うわ」と言った。
◇
――映像の中の王弟は、おそらく貴族な護衛達に『なぁ、お前らさぁ、風呂の用意できる?』と訊いた。
それは命令でもお願いでもなかった。
強制力のないただの問いかけだ。
しかし護衛達は『できません』とも『やったことがありません』とも言わずに『心得ております』と答えた。
『本当に?』と聞き返す者がいないまま、護衛の二人が寝室に併設された浴室へと移動する。
残された護衛は腕をすっと自分の鼻に近付けると、『まさにキュウリ……』と呟いた。
美人な男はサングラスでは隠し切れない美貌を護衛に向け、まるで国一番の踊り子のように、妖艶な笑みをつくった。
大抵の人間を言いなりにできそうな笑顔だ。
そうして、『香水よりマシだろ』と、意外に男らしい、妖精を抱いていないほうの手を護衛の肩にのせた。
『私は香水の方が……』とうっかり顔を上げた護衛は『いえ、キュウリでも……』と、すぐに意見を覆した。
王族のオーラと顔面の圧力に負けたらしい。
が、やはり妖精達が心配なようで、王弟の抱えているそれをチラチラ見ている。
『なぁ、お前、いっこ下の階いってきてくれねぇ?』と美人な男は声をひそめた。
『下、というと……まさか……立ち入り禁止の』
『入り方、教えてやるよ』
『ばっ、あぁぁぁ』と、優秀そうな護衛がおかしな声をあげる。
聞きたくないようだ。
『階段を三回下がっ』『ああああ!!』『うるせーな』
『殿下、失礼いたします。ご入浴の支度が整いました』と、浴室から護衛の一人が出てきた。護衛は何故か、大量に水を被ったように全身が濡れている。
『ははっ。すげぇじゃん』
王弟は意外と優しい表情で笑い、護衛を褒めた。
護衛は生まれて初めて褒められた人間のように、泣きそうな顔で『で、でんか……』と声を震わせた。
美人な王弟は捕まえていた護衛の肩から手を退けると、まるで今までのやりとりをすべて忘れてしまったかのように『なぁ、お前、コネコ達の飲みもん持ってきて』と常識的なお願いをして浴室の方へと歩いていった。
――映像の中、優秀そうな護衛が白い手袋と体に付着した匂いのもとを浄化する。
手袋には汚れがつかない糸が使われているのか、赤い液体に染められてはいないようだった。
「…………」
マスターは一連のやりとりを受けて、奇妙なものを見たかのように考え込んでいた。
◇
クマちゃんリオちゃんレストランの店長でありクマちゃんの調理補助でもあるリオは、トマトとキュウリの違いが分からない王族と貴族を思い、「めっちゃもやもやする……」と言った。
クマちゃんの丸いお耳がぴくりと動く。
可愛いお顔がハッとした表情に変わる。
クマちゃんは察知した。
仲良しのリオちゃんが何かにもどかしさを感じていると。
気分が晴れない時は綺麗な空気を吸った方がいい。
心優しいクマちゃんが子猫のような声で呟く。
「クマちゃ……」
リオちゃ……。
可愛い我が子に呼ばれた男は「ん? クマちゃんどしたの?」と優しく尋ねた。
ルークに抱えられているクマちゃんは、リオの顔の方へ、可愛い猫手を伸ばしている。
抱っこちてくだちゃい、あるいは高い所へ行きましょうのポーズである。
猫手の位置がいつもより若干高いことに気付かない男が、悔し気に顔を歪める。
「クッッソかわいい……」
そうして、麗しの魔王様から常時可愛いクマちゃんを受け取ったところで、彼らはまとめてふっと、漆黒の闇に包まれた。
◇
今より十数分前――、とある医務室。
それは、クマちゃん達が朝食を食べ、掲示板でリアルタイムな配信『クマちゃん健康ちゃんチャンネルちゃん』を観始めた頃のことだった。
どこかの王城にそっくりな建物の中、むくりと起き上がった男は「……あぁ?」とあたりを見回した。
視界に入ったのは、真っ白なシーツと向こう側がうっすらと透ける布。
やや縦長の四角い空間が、高級そうな薄布で囲われている。
男は綺麗に整えられたベッドに寝かされていたようだった。
ガラの悪い男は、いかにもゴロツキといった口調で「おいテメェ、どこだよここ」と言い、隣で死んだように寝ている食堂の店員の肩を強く揺さぶった。
店員は目をつぶったまま答えた。
「あとでいいっすか」
「あーまだ寝てろよ……って言うとでも思ってんのか?! ぁあ?!」
「…………」
「寝たふりカマしてんじゃねぇぞコノヤロー!!」
そうしてゴロツキ代表と食堂の店員は互いの意見のあいだをとり、約五分間、片方は肩を揺らし続け、片方は無視をし続けた。
◇
約五分後に動き出した二人は天蓋の外に出た。
最初に目に入ったのは、壁際の大きなテーブルに並んだたくさんの飲み物、と、壁にデカデカと張り付けられた紙。
そこには、幼子が全身を使って描いたような文字で、こう書かれていた。
――フリードリンクコーナーちゃん――。
「はぁ? なんだこれ」とゴロツキ代表が言ったときにはもう、食堂の店員は赤い液体が入ったグラスに手を伸ばしていた。
「馬鹿かテメェ! あぶねぇだろ!」
意外と優しいゴロツキが店員の腕をぐいっと引っ張り、テーブルの上で、中途半端に傾いたグラスがゆっくりと倒れてゆく。
赤い液体は、真っ白なテーブルクロスを伝い、つぅ――と、細いリボンのように流れていった。
「やべっ」
ゴロツキは高そうな絨毯に視線を向けた。
弁償するのは御免だ、と。
そこで、彼は見た。
白い生き物二匹が、可愛らしく身を寄せ合い座っているのを。
頭の天辺に落ちる水を無理やり飲もうとする子猫のように、目をつぶり、顔の横を赤い液体が通過した時だけ小さな舌を出す、という永遠に何も飲めそうにない行動を繰り返すさまを。
◇
現在、一人と一匹は空気の綺麗な場所にいた。
可愛いクマちゃんを抱えたリオは、いかにも王族が好みそうな家具が置かれた部屋で、育児の大変さを嘆いていた。
「クマちゃん……お家帰ろ……」と弱った人間がささやく。
神経内科医クマちゃんはハッとした表情で、子猫にそっくりなお手々をもこっとしたお口に当てた。
まちゃか、低血糖ちゃんでしょうか、と。
そうして、憶測で早まった診断を下した神経内科医は、
「クマちゃ……クマちゃ……」
リオちゃ……チョフトクリームちゃんを食べましょう……、と仲良しな彼をフリードリンクコーナーへ誘った。




