第476話 見覚えのある人間達。真面目にお仕事をする大人達の中に、しっかりと加わるクマちゃん。
クマちゃんは、まちゅたーのお話をしっかりと聞いてうむ、と頷いた。
わかりまちた、すべて、クマちゃんにお任せくだちゃい……、と。
◇
朝というには早い時間帯。
鬱蒼とした森の中、湿った土と緑の香り。
ざわざわとした葉擦れの音は、森で生きる彼らの心を穏やかにさせる。
だが、さんざん夜更かしをして『さぁ今から寝ようか』と思っていたところを、『仕事』といって引っ張りだされた今の彼らにとっては、残念ながらその効果も薄かった。
◇
リーダーのアヒルとは、いったい何なのか。
それは、黄色いアヒルボートに小さな小さなクマちゃん人形、(別名コクマちゃん)が乗っている可愛らしい魔道具のことだ。
入手は非常に難しく、ドクロスイッチを押すだけで簡単に遊べるコクマちゃん育成ゲーム(あるいはイカダ育成ゲーム)を最後までプレイし、なおかつ最高得点を維持したままクリアする必要がある。
条件を達成すると、遊戯者がゲームで育てた船に、可愛いクルーが乗った状態で実体化される。
子供のおもちゃそのものな見た目の多機能なアヒルと、自由自在に動き回るコクマちゃんがセットになったその魔道具は、人類には到底作ることができないほど高性能で、現在それを所持しているのは、ゲームの腕も世界最強な冒険者、ルークだけだった。
◇
何でも疑う男リオは、可愛いアヒルを見上げながら思った。
黄色い悪魔がなぜここに。
やつは数時間前まで王都にいたはず。
そこで、白いもこもこの可愛い猫手によって間接的に操られ、ただ事ではないアレやコレを実行していたのではなかったか。
路地裏のゴロツキ共を頭から蒸気を噴き出しそうなほどおちょくり、耳に謎のぬるま湯を注入して気絶させ、王城にとんでもない垂れ幕を掛け、国王の寝室にナイフを持ったゴロツキ共を放り込み、続けて国王のベッドの天蓋にもナイフが突き刺さったダーツボードを持ったゴロツキを放り込んで、国王本人を寝かせたまま天蓋を崩壊させるという物体の強度を見極められぬ猫のごとき悪事を働き、ついでのように寝室のど真ん中で原始的な土木工事を行っていたはずだ。
風呂のまわりをウロウロしたあげくに足を踏み外す猫よりも『どうしてそんなことをしたんですか』と訊きたくなるミステリアスな行動の数々を映像で見たのは、おそらく二時間から三時間ほど前。
少し思い出すだけで、寝息すら聞こえぬ静かな寝室に響いた嵐のような騒音と、爆撃のような轟音が耳によみがえってきそうだ。
はたして国王の鼓膜は無事なのか。
リオは視線を黄色いアヒルから真っ白なクマちゃんへ移した。
あれもこれもすべては奴の、先の丸い棒のような可愛い猫手があやしいスイッチをしつこく押し続けたせいである。
気になるとなんでもお手々でちょいちょいしてしまう猫のように、ぷに……ぷに、ぷにぷにぷに! と。
しかし彼と目が合ったクマちゃんは『クマちゃんはとってもいい子でちゅ……』といった曇りなきまなこでリオを見返して、もこもこしたお口をチャ……チャ……と、子猫がミルクをなめるように動かし、そのままほんの少し、お口を開きっぱなしにしただけだった。
ルークに抱えられ、顎の下を優しくくすぐられているクマちゃんを見ながら、リオは王都の人間が目にすれば驚いて拝みそうなほど整った顔を悔し気に歪めて呟いた。
「クソ可愛いすぎる……」
クソ可愛いすぎるクマちゃんに、新たな衝撃映像を見せられる五十七分前。
◇
地上にいるリオやマスターの位置からは、アヒルボートの船長であるコクマちゃんは見えない。
しかしツルツル素材の黄色い魔道具の中では、黒の軍帽を被った動く人形、小さな小さなクマちゃんがヨチヨチしているはずだ。
リオの声に反応したのか、持ち主の気配を感知したのか、黄色いアヒルがゆっくりと動き出す。
まるで道案内をするように、彼らの少し先を、ふよ、ふよ、と。
◇
「あ、マスター、お疲れさまです。いまのところ誰にも見つかってませんが、そろそろ巡回の兵士が来そうな時間ですし、早く運んだほうがいいんじゃないですかね」
そう言って片手を上げたのは、『倒れている人間達』から離れた場所で気配を消して立っていた見張りの冒険者だ。
口調はそれなりに真面目だが、こんな時間にいったい誰からどうやって借りたのか、男は商業ギルド職員の制服を着ていた。
そのうえ、見張る対象から離れすぎている。
その姿はいかにも、面倒そうな相手が来たら逃げる気まんまんといった佇まいだった。
冒険者達は視力が良いので見えないことはないが、森はまだまだ暗い。
遮蔽物も多い。
『遠くで誰かが倒れている……ような気がする……』という距離で仕事をする商業ギルド職員風冒険者に、マスターが苦い顔をする。
「お前な……まぁ、気持ちは分かるが……」
怪我がないとはいえ、『矢と共に倒れている王族』の側になど、誰だっていたくないだろう。
見つかれば面倒どころの騒ぎではない。
もしも運悪く、思い込みの激しい権力者と鉢合わせになれば、弁明も許されず極刑になる可能性だってあるのだ。
「……本物に見えるが」と言ったのは、一応王都出身という理由でふたたび街の外までついてきた、商業ギルドマスターのリカルドだった。
しかし彼が見ているのは遠くの茂みとほぼ一体化している『王族かもしれない男達、あるいはただの茂み』ではなく、冒険者が着ている制服である。
リカルドはうっかり者か馬鹿者か、いずれにせよ彼の部下に違いない何者かが貸してしまったそれを、穴が開くほど凝視していた。
逃げ足の早そうな冒険者はそれを無視したまま、マスター達に言った。
「というか、何なんですかその格好。完全に悪の首領じゃないですか。魔王と手を組んだ裏社会の人間みたいなことになってますよ」
何故か漆黒のファー付きロングコートを肩に羽織っているマスターが「黙れ」と言って深いため息を吐く。
疲れが滲む悪の首領は、腕組みをして商業ギルド職員風冒険者を睨みつけた。
「お前……そんな格好でよくそんな台詞を吐けるな。……誰から借りたか知らねぇが、あとで返しておけよ」
マスターはそれだけ言うと、見張りの冒険者の側頭部に、ゆるく曲げた指の関節をこつんと、軽く叱るようにぶつけて通り過ぎた。
一見甘い対応のようにも思えるそれは、見た目の百倍痛かったらしい。
「頭が割れそうなんですが……」と苦情を言った冒険者を、マスターの後に続く精鋭達が、すれ違いざまに肩を叩いてなぐさめていった。
「分かるぞ……」「割れてるかもな……」「おい、この指は何本に見える?」
精鋭のひとりが、頭が割れたかもしれない冒険者の意識を確認する。
その呼びかけに反応したのは、どんな質問にもニャー……とお返事をしてしまう猫のような生き物、クマちゃんだった。
もこもこした赤子は真剣に答えた。
「クマちゃ……」
百三十本ちゃん……。
事実だとしたらかなりまずい状況である。
リオは真剣な声音で尋ねた。
「どうやって数えたのそれ」
幻覚が見えている可能性よりもそちらが気になる。
しかし、もこもこがどのようにして暗い森の中で百三十本の指をカウントしたのか、答えを聞き出すことは叶わなかった。
問題の現場に到着したからだ。
◇
「あ~……これは、間違いなく……」
と言い難そうに言葉を切ったのは、冒険者ギルドのマスターだった。
目の前で倒れているのは、どうみても、何でも映る掲示板に映っていたあの男達だ。
この国の最高権力者と、護衛達、おそらく王弟であることを隠している食堂の店主、その店の従業員、ただの常連客というにはガラの悪い男達。
全員見覚えがあるどころではない。
皆、数分前まで映像越しに見ていた顔だった。
「マジでいるし……つーかこいつら何でここで倒れてんの?」
リオは自分達の気配で起きない男達を見下ろしながら、ただ不思議に思ったことを言った。
城で暗殺者に襲われたのだとしても、ここにいる理由が分からないと。
さきほどウィルが言ったのと同じように。
そんなリオのことを、もこもこはつぶらな瞳で見ていた。
仲良しの彼の疑問に、心優しき生き物クマちゃんが清らかな答えを返す。
「クマちゃ……」
クマちゃんが、拾って育てまちゅ……。
正直な金髪は、かつて後輩冒険者がゆで卵を口いっぱいに頬張り突然スポーン! と吐き出したときのように、「きつい」と言った。
リオとクマちゃんが互いの意見をぼんやりと宙に漂わせていた時、マスター達は真面目な話をしていた。
「酒場の医務室……はまずいな。人目がある。兵士や騎士が引き取ってくれればそれが一番なんだが……」
マスターが言外にこめた疑念に、商業ギルドマスターのリカルドが答える。
「……やめておいた方が賢明でしょう。この街にいる兵士は信用できるかもしれませんが、彼らから知らせを受けるのは王都の人間です。敵がどこに潜んでいるかわからないうちは……」
◇
大人達の闇色のお話をすぐそばで聞いてしまったクマちゃんは、ハッとした。
ぼそぼそと小声で話していた彼らの言葉から聞き取れた部分を、丸くて可愛い頭の中にしっかりと並べてゆく。
『医務室』『兵士』『引き取って』『敵』『潜んでいる』
クマちゃんはつぶらな瞳をうるうると潤ませ、うむ、と頷いた。
兵士長クマちゃんは、豪華で可愛い医務室ちゃんをつくり、倒れている彼らを引き取って、どこかに潜んでいる敵ちゃんを、丸見えちゃんの状態にしなければならないらしい。
お口の周りをもこっと膨らませているクマちゃんを見ながら、リオは言った。
「ちょっとリーダークマちゃん怪しいんだけど」
しかし彼の訴えは、当然のことながら、怪しい獣を抱っこするルーク様にも、幼きもこもこを菓子の国から見守る存在にも聞き入れられなかった。
クマちゃんがきゅお、と湿ったお鼻を鳴らした次の瞬間には、リオ達は巨大な闇色の球体に包まれ、その場から消えてしまっていた。