第475話 もこもこが撃退した何か。いつでも安全な地。働かざるを得ない大人の事情。
清らかな生き物クマちゃんは、彼らに何かが迫っていると感じていた。
ふんふんふんふん……と、湿ったお鼻から荒い息が漏れてしまうほどの何かが。
◇
ルークから渡されたカードには、胸の前で真っ赤なカードをきゅ……と握りしめたクマちゃんが描かれていた。
クマちゃんの背後には、湯気の立つ泉がある。
温かそうな泉に、白地に黒い模様が入った見たことのないボールが浮かんでいる。
ボール遊びをしていて落としてしまったのか、わざと入れたのかは不明である。
カードの端に、大きな白い翼が見切れているのが気になった。
もしかすると、ボールの持ち主は天使的な生き物なのだろうか。
リオはカードの中の可愛いクマちゃんを見ながら言った。
「めっちゃお目目うるうるしてる……」
これは、うるうる度二百パーセント。
きゅおー……という鳴き声まで聞こえてきそうだ。
そんなふうに思っていると『クマちゃ……』と、我が子の愛らしい声がリオの脳内に響いた。
『まちゃか、クマちゃんは退場処分ちゃんになってちまうのでちゅか……』
退場処分ちゃん――!!
リオの胸が激しく痛む。
こんなに可愛いクマちゃんをどこに退場させようというのか。
我が子は何故退場に……。
可愛いクマちゃんが退場になった理由を探ろうと、白黒ボールのように白と黒で構成されているクマちゃんの可愛い顔を見つめていたリオだったが、ふと気付いた。
まさか、このカードは『捜査を続ければもこもこの目がうるうるになって湿った鼻がきゅおーと鳴るぞ』という警告なのでは――。
金髪の探偵は、入手方法が不明な超レアカード、『レッドカードクマちゃんカード』を渡してきたルークを見ながら声を震わせた。
「卑怯すぎる……!」
だが、麗しの魔王様は「うるせぇな」と言ったあと、うるさい金髪から貴重なカードを奪い返し、そのままリオを放置した。
ルーク様はおやすみ中のもこもこを見守るので忙しいらしい。
もこもこは魔王様の腕のなかですやすやと、仰向けでおやすみ中の子猫のようにちょろっと舌を出し、胸元でお手々を折り曲げている。
リオは「よく見えなかったからそのカードちょっとだけ貸して。ちょっとでいいから。あとクマちゃんこっちちょーだい。俺が抱っこするから」と言ったが、カードもクマちゃんも返事も一瞥も一切貰えなかった。
――捜査どころではなくなった金髪が、メラメラと怒りの炎を燃やす。
冷静さを著しく欠いた男は決意した。
憎らしい魔王から超レアクマちゃんカードを奪い、可愛い我が子を奪還すると。
◇
カッとなった探偵が事件の鍵を握る『ポイズン』を忘れ、無謀な計画を立てていた頃。
夢の世界では、ゴロツキ達が執事に質問をし、それに対し、黒髪の執事さんが驚愕の答えを返すところであった。
「つーかよぉ、喧嘩したって毒矢なんてとんでこねぇよな」
「だよな。ナイフにだって毒なんて塗らねぇし、そもそも使わねぇしな」
「ああ。一応持ってるだけで、たかが喧嘩でいちいち切り合いなんてしてたら、裏通りの人間なんて誰もいなくなるっつうの」
「そういやぁ、なんで毒矢なんだよ」
ゴロツキの中のひとりが、執事さんに尋ねる。
『優れた肉体』の話など、はなから信じていなかった。
美味い食事をするだけで特別な力を手に入れられるなんて、そんなあやしい話に耳を貸すゴロツキはいないだろう。
ゆえに、『毒矢』にまつわる凄い話を期待したわけではない。
質問者も他のゴロツキも、皆、似たようなことを考えていた。
見たことねぇし、どうせ飛んでこねぇし、こんな話聞いても意味ねぇよな、と。
それが大間違いであるとも知らずに――。
黒髪の執事は、腕の中の愛らしいラッコちゃん先生をなでながら「え~……非常にいい質問ですね」と、本気で思ってはいないであろう前置きをした。
腕に抱えたもこもこが、獲物と激しく格闘する猫のように、お目目をキッと吊り上げ、聴診器をかじっている。短くて可愛いあんよが虚空をけりけりと蹴り上げる。
興奮する消化器内科医から獲物を取り上げようとした執事は、指をあぐあぐにゃしにゃしと噛まれることとなった。
執事はすぐに諦めた。白い手袋に守られた指を、大興奮する猫っぽい医者に預けたまま客席を見る。
「落ち着いて聞いてほしいのですが~」と、噛まれ続ける執事が仕切り直す。
もともと落ち着いていた人間の心をざわつかせる発言に、言われたほうの人間達が『ん?』となる。
荒ぶるクマちゃんの心を落ち着かせる効果もなかった。
『落ち着け』と言われて落ち着く赤子はいない。
興奮する猫に言っても答えは『シャー!』だろう。
全員の視線が、おもちゃにかじりつく子猫にそっくりな顔のラッコちゃん先生に集まるなか、黒髪の男が語って聞かせたのは、普通の人間にはあまりに信じがたい話であった。
「え~、なんで毒矢なのか。と言いますと、それは君達が寝ているあいだに――」
◇
掲示板に映るゴロツキ達が、心から『何言ってんだテメェ』を吐き出したり国王陛下の顔色が悪くなったりする数分前のこと。
ひとりのギルド職員が風のように駆けていた。
お菓子の国の中にある、竜宮城の大広間を目指して。
マスターに大至急伝えてほしいことがあると、寝不足でクソ真面目な後輩職員に物凄い形相で掴みかかられたのだ。
『こんな時間に制服を着たまま酒場にいるということは、〝仕事がしたくてたまらない〟というアピールでしょう。僕には分かります』と言って。
美しい男はお菓子の国にできた美しい我が家に美しい私物を運ぼうとしていただけだった。
朝に近い時間帯ゆえか、客の少ない酒場を横切ったばっかりに、時間外労働を強いられる羽目になってしまった。
森の街では『酒場』と呼ばれる冒険者ギルドの一階。
飲食スペースの絶妙に邪魔な場所にある〈クマちゃんのお店〉の不思議な裏口を抜け、大森林の湖にそびえ立つ、真っ白な展望台の一階に出る。
クマちゃんの別荘前を通り過ぎ、ガラス張りの温室のごとく美しい水の宮殿前に設置された魔法陣に乗ると、彼の行きたい場所を察したのか、〈クマちゃんリオちゃんレストラン〉前ではなく、足元に色鮮やかで透き通った海が広がるマスターの事務所(お菓子の国出入口付近、屋外仕様)に着いた。
ギルド職員が自分の仕事机を見る。すると、いつでもお仕事をサポートしてくれる事務員妖精ちゃんが、ドリンクメニューを持って、彼を見返してくる。
愛らしい! 断りにくい……!
あやうくもこもこした妖精達にもてなされるところだったが、ギルド職員にはやることがある。
意外と真面目な男は「くっ! ちょっとだけ……!」と言うと、もこもこした事務員妖精との交流を、二分四十八秒で切り上げた。
ラムネ色に輝くメインストリートから、優美で異国情緒あふるる温泉施設へ飛び込む。
その際泳ぎの下手な妖精の世話をするピンク髪の男と目があったが、『走るな』とは言われなかった。
おそらく仕事であることを察しているのだろう。
リオからしょっちゅう『鬱陶しいんだけど』と思われ、直接言われているギルド職員は、冒険者のほうが向いているであろう走りで竜宮城の廊下を駆けながら思った。
こんな時間に働いてしまったのだから、今日は仕事を休んで菓子の国で目いっぱい遊ぼう――。
到着直前、男は美しい顔を敢えて辛そうに歪ませた。
肩より短いサラサラの髪が、魔法のきらめきと共にサラァとなびく。
ひとりでも鬱陶しいギルド職員は、「ああっ! 走ったせいで美しい汗をかいてしまった! これを伝えたら風呂に入らなくては!」と独り言にしては大きな声を出すと、精鋭達と王都からの客人達、商業ギルドマスターとクマちゃんの保護者達がくつろぐ大広間にばーん! と(魔法で)音を立てて飛び込み、意味もなく『クマちゃんペン』を高く掲げ光の雨を降らせてから、もうやることはすべてやったという雰囲気で報告をした。
「あの、マスター。美しい俺がわざわざ走って言いにくるようなことでもないんですが、結界の外にゴロツキのような身なりの男達と姿勢の悪そうな男と王族らしき方々と王都の騎士っぽいのが複数が倒れてるそうです。矢が四、五本落ちてたらしいですが、負傷者はいないとのことです。さすがに本物の王族ってことはないと思いますが、一応伝えたんで、美しい俺は美しい風呂で美しい汗を流してきます」
そうしてきらきらと輝くだけの魔法を使い、光あふるる廊下へ戻ろうとしたギルド職員の背が見えたところで、渋いマスターの鋭い命令が飛んだ。
「待て!! 誰かそいつを捕まえろ!」
美しくも鬱陶しいギルド職員は、出入口が好きな精鋭の手によって瞬時に捕らえられた。
◇
王族らしき人物が、何者かの襲撃を受け街の外に倒れている。
そんな話を聞かされれば、冒険者達も動かねばならない。
しかも今回の場合は、騎士団に知らせるのを躊躇したくなる報告内容なのだ。
まったくの別人であることを願うが、まさか、外に倒れている王族とは、毒と過労で死にかけていた国王とイカレている次期国王だったりしないだろうか。
リオは面倒そうな態度を隠しもせずに言った。
「えぇ……」
そろそろ可愛いもこもこと一緒に寝ようかな、というところだったというのに、いったい何が起こったというのか。
何でも映る掲示板から情報を得ようにも、そこに映っているのは、何故このタイミングなのか、『ミニゲームちゃんの成績ちゃん』というリオにとってはかなりどうでもいいものだった。
一位がルークとマスターであることなど、まったく知りたくなかった。
いつの間にスイッチを押していたのか。
休まずスイッチを押していた商隊長は、何かいいことがあったようで、非常に機嫌がよさそうだ。
「うーん。矢を放ったのは王弟殿下を狙った暗殺者なのかな……。それにしても、どうやってここに?」
三位のウィルはそう言ってチラリと、高位で高貴なお兄さんがいるであろう場所を見た。
おそらく違うだろうな、と思いつつ。
世界を守護する存在が人間同士の争いに関与するはずがない。
転移させることは簡単だろうが、そうする理由がないはずだ。
現在は『執事さん』と名乗っている男も、この件とは無関係だろう。
冒険者ギルドのマスターである渋い男は、視線で精鋭達を選びながら言った。
「その件はあとだ。現場に急ぐぞ」
「りょーかい」「ああ」といった返事の中には、いつの間にかクライヴの声も重なっていた。
◇
夢の世界で邪悪な気を感じ、格好良く撃退していたはずのクマちゃんだったが、湿った鼻先にふわり、と緑の匂いを感じてぱちりと目が覚めた。
「あ、クマちゃん起きた? おはよーこっちおいで」
「クマちゃ……」
うむ。どうやらクマちゃんは起きてちまったようでちゅ……。
仲良しのリオちゃんの言葉に頷きながら、自分をなでてくれる大好きな彼に、おはようの挨拶をする。
ルークの指先が、クマちゃんのお口のまわりに優しくふれる。
嬉しくなったクマちゃんは、きゅお……きゅお……と、甘えるように鳴いた。
「ずるい……ずるすぎる……」
かすれた風が吹く。樹々がざわめいている。
クマちゃんのふわふわのお耳が『ぞわ……ぞわ……』となった。
そしてハッとした。
もしやここは、危険がいっぱいな『お外ちゃん』ではないだろうか。
クマちゃんはもこもこしたお口の中の唇っぽい部分をきゅ、と噛みしめ言った。
「クマちゃ、クマちゃ……」
戦闘ちゃんは、ちゅごくちゅよいクマちゃんにお任せくだちゃい……。
「ちゅごくちゅよいクマちゃんレベルイチ」と言った金髪は、もの凄く強い男達からかなり激しい攻撃を受けた。
いつものように『伝説のつるぎ』を振り回し、ギリギリで危機を脱した男の視線の先には、どんな場所でも目立つであろう黄色があった。
森の中のやや高い場所を見ながらリオが言う。
「あれってさぁ、リーダーのアヒルじゃね?」




