第471話 癒しのもこもこによる、清らかなアイテムづくり。目撃者達の感情と、高位な存在による肯定。
クマちゃんは先の丸い猫手で愛用の杖を握ると、どんな強力な毒にも絶対に負けない、と強く強く願いながら、湿ったお鼻にきゅ! と力を入れた。
◇
通せと言われて『うっす、すんません』と素直に場所をあける人間ならば、普通はゴロツキ呼ばわりなどされない。
だがこの店の常連客であるゴロツキ達は、ピアスだらけの美人に逆らえなかった。
いつも客席の奥のほうでだらっと座っているだけの、顔の良すぎる男に。
その男が自分達とはくらべものにならないくらい強いことを、皆知っているからだ。
◇
きっかけとなったのは、実にゴロツキ共のたまり場らしい出来事だった。
酔った馬鹿のひとりが、『大層お顔立ちが整っておりますね。本当に男性なのでしょうか』というような意味合いの言葉を、ひどく下品な口調でぺらぺらぺらぺらと、イカレた王弟に投げつけたのだ。
わざわざ席を立ち、彼の指定席のような場所までのこのこと出向いて。
イカレた王弟様は『ははっ』と笑い、座ったまま馬鹿を見上げた。
そして――……、
『あなたはもっと魅力を高めなければ、将来大変なことになりますよ。いったいいつからそんな様になったのか、あなたは覚えていますか? きっとあなたの格好に驚いて、お部屋の鏡がすべて割れてしまったのでしょうね。しかし悲しむことはありません。私が今から凄まじい格好のあなたのことを、土の中に埋めてさしあげましょう。ははっ。来世では良いことがあるといいですね』
といった意味合いの言葉を、そこらのゴロツキ共ですら『なんてひどいことを!!』と驚愕するような言い方でおっしゃったのだ。
しかし本気で土に埋めるつもりはなかったらしい。
蹴り一発で許してやることにしたようだ。
同じ身長の人間よりも明らかに長い脚で、ドン! と勢いよく腹を蹴られた馬鹿は、二つ折りの状態で、まるで冗談のように宙を舞った。
そうして、彼我の力量を見極められなかった馬鹿は、体の柔軟性を計測する長座体前屈のようなポーズでビュン! と飛んでいき、カウンターの天板にガッ!! とふくらはぎのあたりを引っ掛けるようにぶつけてから、ズズズ……とその内側へ落ちていった。
肉体的にも精神的にもかなりの深手を負ったであろう馬鹿の末路に、他のゴロツキ達は『いまのはクソ痛ぇな……』という普通すぎる感想を思い浮かべることしかできなかった。
美人な男は、『ははっ』と少しだけ笑った。
しかしすぐに興味を失ったらしく、客の無事を確かめようとはしなかった。
ではその時、猫背の店員は何をしていたのかというと、彼は事件の被害者風加害者のかかと的なものが引っかかっているカウンターの内側で、野菜の下ごしらえ的なことをしていた。
猫背の男は鍋に水を注ぐと、そこから目をそらさずに点火した。
マイペースな店員が野菜の加熱処理を終えるまで、頭に血がまわりそうな格好で気絶している迷惑客はそのまま放置された。
◇
苦い、というより思い出すだけで腹とふくらはぎが痛みそうな仲間の失態が鮮やかによみがえったところで、ゴロツキ達は自然と左右に分かれ、道を譲った。
すると、美人な男の立つ場所からカウンターまでの、短い花道ができた。
王弟の視線の先には、何度見ても驚くほど愛らしいもこもこがいる。
「…………」
美人な男は表情を消し、じっと謎の生き物を見下ろすと、「なぁ」と声をかけた。
もこもこした生き物は、名前を呼ぶとナーンと鳴く猫ちゃんのように「クマちゃーん……」と小さな声でお返事をした。
それにより、王弟を含む複数の人間の瞳孔が開いたり「あああー!! クソかわ」と妙な叫びが一瞬聞こえて途絶えたりしたが、死神の方から冷気が漂ってきたため、彼らはすぐに落ち着きを取り戻した。
王弟は、真っ白なもこもこに告げた。
「その樽の中身、五百杯分くれよ。あっちの席に」
イカレた美人が『あっちの席』を親指でさす。
そこには、謎の毒物よりも後継者問題に苦しめられている国王陛下が座っていた。
◇
聞きたくなくとも聞こえてしまった国王は、辛い現実から逃げるように目を瞑り、「……あいつの教育係に訊きたいことがある……」と呟いた。
国王陛下の安全と幸せを心より願う護衛達は、苦し気な表情で、王弟殿下の教育係を務める男の最新目撃情報を主君に伝えた。
「……つい先日、冒険者を目指すといって城から出て行きました……」
「薬草の採取で金がもらえるというのは本当か、なんて平和な仕事なんだ、と城の者に尋ねているのを聞きました……」
「それは若い冒険者の小遣い稼ぎだからいい歳の大人がすることではない、と相談を受けた者が説得したらしいのですが、『私はまだまだ若い。冒険者になればこの白髪も消える』と耳を貸さなかったようで……連れ戻すには時間がかかるかと……」
国王は目を閉じたまま、「……そうか」と言った。
連れ戻さなくていいとは言わなかった。
◇
王弟の言葉を聞いたラッコちゃんは、ハッとした表情でもこもこした口元を押さえ、丸いお目目をうるうるさせると、重々しく頷いた。
「クマちゃ……クマちゃ……」
わかりまちた……準備ちゃんをいたちまちゅので、少々お待ちくだちゃい……。
◇
お菓子の国、竜宮城の大広間。
リオは掲示板に映る我が子から、恐ろしい魔王様の腕の中で眠る我が子へ視線を移すと、国王になりすまし、小声でぼそぼそと説得を開始した。
「……準備……不要……戻って寝ろ……いますぐにだ……」
その声は必要以上に低い。森の街で一番声が低いと言われている『酒焼けした爺さん』の声よりもさらに低かった。
彼は威厳のある声を出しているつもりで、いつの間にか低音の限界に挑戦していた。
比較的近い場所にいた精鋭達が険しい表情で耳を澄ます。
「地響き……いや、呪詛が聞こえる……」「お菓子の国に悪霊が出た……」
「これは……悪夢への誘い……」「森を開拓したクマちゃんを恨んでいるのか……」
人間の枠組みから外れた物真似に不安を感じたのか、耳に異変を感じたのか、ルークの腕の中で安らかに眠っていた赤子がきゅお……きゅお……とうなされ始める。
しかし麗しの魔王様が家鳴りのような声を出すリオを退治することはなかった。
もこもこを過保護に愛するウィルが、声の低すぎる偽国王を襲撃したからだ。
愛しいクマちゃんからの贈り物が、彼の魔力を高めてゆく。
「ねぇリオ、君も夢の世界へ行ってクマちゃんのお手伝いをしたらいいのではないかな」
「隣の人間から……強い殺意を感じる……」
◇
夢の世界、映像の中。
クマちゃんは不安気な表情でサッと口元を押さえた。
一瞬、積乱雲の気配を感じたが、気のせいだろうか。
雷と地震が苦手なクマちゃんのお鼻に、きゅ……と力が入る。
しかし怖がっている場合ではない。クマちゃんにはやることがあるのだ。
おいちいお飲み物を五百杯も注文したということは、王弟ちゃんはこのお店でパーティーを開くつもりなのだろう。
危険な食材ちゃんがどこかにしまわれている、このお店で……。
店員ちゃんがひとりしかいない、このお店で……。
猫背の店員ちゃんが、さきほどお肉の自慢をしていた。
そのお肉ちゃんは無事だろうか……。
良いお肉ちゃん……冷たいビールちゃん……パーティーちゃん……ドロドロちゃん……食あたりちゃん……食あたりパーティーちゃん……保健所ちゃん……。
小さな頭の中で、すべての情報がひとつにまとまってゆく。
クマちゃんは、むむむ……とお目目を吊り上げると、赤ちゃん的な発想で、全員が食中毒になっても営業停止にならない方法を思いついた。
あたったことに気付く前に治せば、あたっていないことになるのではないだろうか。
――大きな問題を心の中で解決したクマちゃんに『いや中ってる中ってる』と物申す人間はいなかった。
◇
それは、一部の猫好きと王弟がラッコちゃんの可愛い後ろ姿に見入ったり、一部の警戒心の強いゴロツキが、いつの間にかもこもこの側にいた死神に『マジでやべぇ……』と怯えたりしている時に起こった。
木樽型魔道具を生成したときよりも、もっともっと強い光が、店内をカッ!! と白く塗りつぶしたのだ。
生身の人間すら浄化されそうな光に、精神体のゴロツキ達が「ぐあぁ!!」「目が! 目が!」「クソやべぇ!!」と騒ぎ、顔を押さえる。
サングラスをかけている王弟でさえ、少しのあいだ目を閉じるほどの光であった。
もこもこした赤子を優しく見守る黒髪の執事は、そこで起こっている一部始終を、止めずにみていた。
「わぁ~……これは……凄いというか、なんというか……」
執事さんは聞こえた者達の不安を煽るような物言いをすると、まるで誰かに報告するかのような口調で、さらに気になることを言い出した。
「あの~……こういうのは、ここにあっても平気なやつなんですかね? はい……はい……あっ……良くはない、と……」
気になりすぎた人間達が、恐る恐る目を開く。
しかし、光はいまだおさまらず、もう一度目を閉じる羽目になった。
◇
竜宮城の大広間。
リオは眼帯に隠されていない特別な瞳で、その物体を見ていた。
「めちゃくちゃ光ってるじゃん……」
光の中でぼやける輪郭を視線でなぞる。
かすれ気味の美声が、その物の名称を告げる。
「水差しめっちゃ光ってる……」
彼は声に出しながら、そのアイテムがどういったものかを考えていた。
「祭壇とかに置くやつ。間違いない」
◇
人間というのは、時に己の肉体よりも好奇心を優先させてしまう、愚かな生き物である。
無理やり薄目を開けることに成功したゴロツキ達は、強烈な光を放つそれを、似たような表情で見た。
そして全身に鳥肌を立てた。
感想はひとつも思い浮かばなかった。
たとえ何かを言うことができたとしても、『あ』だとか『う』だとか、意味のない音になったに違いない。
彼らの目には、神器が映っていた。
眩い光に包まれ、キラキラと輝く神器が。
神器は美しい流線形で、人間の使う道具でいうと、水差しに似ているように思われた。
よく磨かれた食堂のカウンターに水差しが置かれているのは、少しもおかしいことではない。
むしろ普通のことだ。
ただ、その水差しは、一般的な食堂では一生お目にかからない、神々しい光の柱の中にあった。
ラッコの着ぐるみをまとった愛くるしい子猫が、可愛らしい猫手で、神聖な水差しをきゅむ……きゅむ……と押している。
純白の被毛に包まれた可愛い子猫のお手々が、白い光の中できらきらと輝いている。
不思議なことに、どちらの存在感も、少しも薄れる様子はなかった。
非現実的な光景だ。
だが、どこまでも美しく、愛おしい光景だった。
ゴロツキと呼ばれ、悪党と蔑まれる人間達であっても、当たり前のようにそう感じられた。
『盗む』だとか『奪う』だとか『壊す』だとか、そういう罰当たりなことをしようとは、露ほども思わなかった。
彼らは子供のように素直な気持ちで、それを受け止めた。
なかには敬虔な信者のような気持の者もいたかもしれない。
『子猫ちゃんが肉球で神器を押している……』
癒しの魔道具の力で頬をもふっ……! と優しく殴られ、癒しのビールで清められた彼らの体には、危険なドロドロに含まれていた穢れは欠片も残っていなかった。
◇
『畏怖』という感情をはじめて知ったゴロツキ達の前で、『祭壇とかに祀られているやつ』を押しながら、世界を震撼させる物体を生み出した赤子は、外道のようなことを言った。
「クマちゃ……クマちゃ……」
それでは、こちらの聖なる水差しちゃんに、ちゅめたいビールちゃんを注ぎましょう……。
――掲示板越しにそれを聞いていたリオは、「無い無いナイない――……」と無限に続きそうなほど『無い』を強調し、赤子の発言を否定した。
彼のそれは、姿を隠したままの高位なお兄さんが、思わずゆるりと頷いてしまうほど、正しい否定であった。




