第447話 眼帯の向こう側。森の街の凄すぎる仲間達。たゆたう夜。寝ないクマちゃん。
現在クマちゃんはゆらゆらと心地いい揺れに身を任せている。
「クマちゃ……」と。
◇
「もー……マジで脱げねー……つーかこれって眼帯? え、どうなってんのこれ両方見えるんだけど」
と言いながら、いつものように可愛いクマちゃんを見ようと右手へ視線を向けたリオの呼吸が止まる。
――――!!!?!
可愛いクマちゃんを見る前にとんでもないものを見てしまったリオは「えっ……こわっ……」と言って視線をそらした。
「え、何いまの」
見間違いであることを願いつつ、心臓のあたりを押さえ、再度そちらを見る。
そして一瞬前と同じように「えっ……こわっ……」と言った
なんと、彼の隣には、この世を恐怖と絶望で支配する魔王様にしか見えない御方がお掛けになっていたのだ。
何故だ。いったい何が起こったというのだ。
たったいま目にしたそれは、『服のせいだよね……』と納得できる範疇を著しく超えていた。
自分達が着せられた軍服もじゅうぶん物々しいが、それの比ではないし、そういう問題でもない。
ルークと彼らとの共通点は肩章と飾緒の付いた長いコートを肩からかけている、ということぐらいだった。
その身に纏う貴族のような衣装は、クラヴァットさえきちんと結んでいないというのに、ルークの、否、ルーク様の究極に美しいご尊顔があれば、それこそが正しい着方のように思えた。
耳と首を飾る豪華な銀の装飾品は、普段の彼が絶対に身につけないたぐいのものだ。
間違いない。確信を持ってそう言える。
が、あまりに似合いすぎていて、『玉座に座るときはいつもこの格好だよね……』とおかしな錯覚までしてしまいそうだった。
そのうえ、少しだけ後ろへ流し整えた気品ある髪型と、そのせいで良く見える切れ長の目は、男からみてもぞくりとするほど色気が溢れ、どこまでも高貴で、かつ威厳に満ちていた。
つまりどういうことかというと、
「本物じゃん……え、リーダーマジで魔王だったんだ……つーかこわ……やば……えっ……こわ……」
ということである。
とんでもなく格好いいが、その恰好は洒落にならないし、まったく知り合いだと思えない。
ではどちら様なのか。
絶望の化身、魔王様である。
(きっと生まれた瞬間からこの姿だったに違いない)と、失礼の化身リオは勝手に結論付けた。
見覚えがあるのは彼の腕の中で「クマちゃ、クマちゃ……」と甘えているもこもこした生き物だけだ。
しかしそのもこもこすらも、真っ黒なレースのリボンと豪華なブローチでその身を飾り、いかにも魔王様に溺愛される高貴なもこもこ様、といった形姿になっていた。
「…………」
リオは声を出さず、真剣な表情で頷いた。
とても可愛い。良く似合っている。
『そういうのも似合うねー。クマちゃん可愛いねー』と言いながら高貴なもこもこ様を撫でまわし、頭にかじりつきたい。
――という願望を実行に移すと本当に(自分が)大変なことになってしまうため、その想いは心の『クマちゃん可愛いね袋』へそっと封印した。
輝く被毛もいつも通り美しく、小さな黒いお鼻も湿っていてお元気そうだ。
さすがは甘えん坊で赤ん坊なもこもこ様である。
とにかく可愛い。存在が可愛い。まさに可愛いの化身。
世界中の可愛いを凝縮させた、リオの可愛い赤ちゃんは、ルーク様のお姿が本物の魔王のように変わっても、緊張することなどないらしい。
『緊張……』と思考を巡らせ、リオは周囲の様子がふと気になった。
妙に静かだ。
と思ってそちらを見ると、黒ずくめの海賊団らしき船長(商隊長)と参謀(元おさげ)と武力担当(護衛)、若干図太そうな三人以外の商人達六名が、『あち湯』に避難していた。
足を温め震えの止まらぬ体と失神寸前の精神を癒しているらしい。
姿の見えない精鋭達の気配を探ると、靄の中にあった。
魔王様の御機嫌を損ねないよう、『パァン!』という破裂音のあと、いち早く靄の中へ隠れたようだ。
さすが、ヤバい組織のボスから『クソガキ共』と言われるだけはある。
その言葉に相応しいクソガキっぷりだ。
自分のことは完全に棚に上げた眼帯の将校リオは、もう一度、薄目で右隣を見た。
やはりそこには、どこからどうみても、見た者を恐怖と絶望に陥れる、魔を統べる王、魔王様がいた。
リオは心の底から思った。
「えっ……こわっ……」
◇
南国風ではなくなったが黒の軍服が非常によく似合う、若干腹の内が黒そうなウィル様は、心なしかいつもより冷たく聞こえる声音でおっしゃった。
「ねぇ君達、そろそろクマちゃんの寝る時間だから、ご飯を食べるなら席に着いてくれないかな。ずっと靄の中にいたいというなら、無理にとは言わないし、僕も協力するけれど」
「なんだろ。いま『出てこねーなら殺すぞ』って聞こえた気がする」
警戒心の強い男リオは一瞬不穏な何かを感じ取ったが、己の心の扉から『ビー!!』と警告音が漏れ聞こえたため、即座に口を閉じ、すっと気配を消した。
無事食事を終えた彼らは、愛らしいクマちゃんの「クマちゃ、クマちゃ……」という案内に従い靄の中を移動した。
どうやら、華やかな王都からお越しの特別なお客様とゆったりお話をするのに相応しい、特別で開放的な場所があるらしい。
コツ――。硬質な足音が響き、彼らは靴底から床板の存在を感じ取った。
同時に、ゆらりと景色が歪む。
白一色の空間が、たちまち黒へと塗り替えられる。
ちゃぷ、ちゃぷ、と響く水音。
湿った空気。潮の匂い。吹き荒れる風。圧倒的開放感。
足元に広がる平らで巨大な板。板の端を囲う手すり。闇の中、垂直に立てられた長大な帆柱。
見紛うはずもない、この独特な造形は――船。
なんでも疑う眼帯男は己の勘を疑いながら、かすれた声で呟いた。
「めっちゃ海の匂いするじゃん……」
そして切なげに頭上を見上げ、「あ……流れ星……」と言った。
ザッと吹いた潮風が水滴を運び、彼の頬を濡らす。
リオは夜空を仰いだまま、満天の星々にも叶えられない願いを告げた。
「クマちゃん……風呂入って寝よ……」
波がザザ……とかすれ声をかき消す。
睡眠時間を削りナイトクルーズを楽しむ破天荒な乳幼児に、リオは優しくささやいた。「クマちゃん……船は明日にしよ……」
風のささやきから『クマちゃん……船……た……しよ……』を聞き取ったクマちゃんは、ハッと理解した。
『クマちゃん……船たのしいよ……』
到着して間もないが、さっそく楽しんでくれているらしい。
うむ。深く頷いたクマちゃんは、愛らしい声で別室の魅力を語った。
「クマちゃ、クマちゃ、クマちゃ……」
『開放的ちゃ、客室ちゃ、お部屋ちゃ……』
開放的な客室ちゃんなので、いちゅでもお好きな時に、開放的なお部屋ちゃんへ移動ちゃんできまちゅ……。
リオはザザ……という波の音に紛れ「クマちゃん……実はここ、外って言うらしいよ……」と驚愕の新事実を伝えたが、大海原に阻まれ丸い耳まで届かなかった。
「うーん、なんて美しいんだろう……。心が洗われる気がするね。クマちゃんの優しさが広い海を通して伝わってくるよ」
美しいものと可愛いクマちゃんをこよなく愛する男は、星空を見上げてそう言った。
心が洗われるザザ……と共に、海水を敵視する眼帯男の「しょっぱいねぇ……クマちゃんゴワゴワになっちゃうかもねぇ……」が聞こえた一秒後。
美しい夜空に相応しくない剣戟が――ギィン――! と響いた。
が、もこもこ様を溺愛する魔王様が「リオ」と低く妖艶な美声を発したおかげで、事態はすぐに収拾した。
「心臓キュッってなったよね……」
◇
夜空に広がる無数の星々。絶え間なく聞こえる波の音が、生きとし生ける者の心を穏やかにさせる。
闇に覆われた果て無き海を、月の光がぼんやりと照らし出す。
オレンジ色の蝋燭が灯された幻想的な甲板では、見ているだけで幸せな気持ちになる不思議な生き物達が、足音を立てない子猫のように、ヨチヨチ……ヨチヨチ……と可愛らしく行き交っていた。
彼らは足元に寄ってきた妖精達にそっと手を伸ばし、優しく抱き上げた。
そうして、もこもこで愛くるしい妖精達に感謝を告げると、案内されるがまま、用意された席へと移動した。
ふわふわで真っ白な『雲上風客室』から徒歩数十秒。
常識にとらわれないミステリアスな生き物クマちゃんが、『開放的なお部屋』と言って皆を連れてきたのは、驚くことに、夜の海に浮かぶ巨大な船の甲板(にしか見えない場所)だった。
――赤子はそれを『部屋』だと言うが、リオは信じていなかった。
謎の島の村長である彼の勘が告げていた。
『村の周りの海なんじゃないのぉ……?』と。
船を用意したのは赤子に甘い『高位で高貴なお兄さん』の仕業に違いない。
白いクロスが掛けられたパーティーテーブルの間を、ヨチヨチ! ヨチヨチ! と非常に忙しそうに、もこもこした妖精ちゃん達が歩いている。
船主であるクマちゃんの「クマちゃ……」に従い、お客様を接待しているのだ。
それまでガチガチに緊張しきっていた六人の商人達は、魔王と席が離れたことで大分気が楽になっていた。
少しだけ心に余裕が生まれた彼らは、テーブルの上や足元をヨチヨチする妖精達とふれあいながら、小声で雑談を始めた。
「可愛い……こんな経験はもう二度とできないでしょうし、楽しんだ方がいいのかもしれないですね……」
「可愛いな……そうだ、王都へ戻るまで、この子達を存分に愛でよう」
働き者の妖精ちゃんが、ヨチヨチ……と彼らにメニューを運んでくる。
幼い子供が一生懸命書いたようなそれには、飲み物の名前、らしきものがたくさん載っていた。
『りょくちゃちゃん』
『こうちゃちゃん』
『ぎゅうにゅうちゃん』
『やちゃいじゅーちゅ』
『コーヒーちゃん』
『ビールちゃん』
『ブルーマルガリータちゃん』
『レッドアイちゃん』
『ちゅっきりハイボールちゃん』
『ちゃわやかレモチャワーちゃん』
『ちゃっぱりウーロンハイちゃん』
『赤ワインちゃん』
『白ワインちゃん』
『ちゅぱーくりんぐワインちゃん』
その他にも、『おちゅまみセットちゃん』『軽食ちゃん』『どんぶりものちゃん』という妙に気になる文字も見えるが、食事はさきほど終えたばかりだ。
この場合は飲み物を先に頼むべきだろう。
愛らしい妖精が、うるうるした瞳で彼らを見上げている。
なんとなく、『ご注文ちゃんはお決まりちゃんでちゅか……?』と言っているような……。
そうして当然のようにギューン! と胸を締め付けられた彼らは、素直に「可愛すぎる!! ……じゃあ、この『白ワイン』を……」「では赤で……」と、とりあえず飲みなれたものを注文し、もこもこ達とのナイトクルーズを楽しむことにしたのだった。
クマちゃん達のテーブルには、全身真っ黒な大物たちが勢ぞろいしていた。
魔王と魔王軍の軍将にしか見えない者達。
裏社会のボス的な立ち位置についていそうな男。
姿を隠したままの、高位で高貴な黒いお兄様。
海でも陸でも暴れていそうな顔立ちだが、実際は穏やかな軍人風の男。
妙に品の良い海賊のような男達。
彼らの視線を一身に受ける、もこもこした赤ちゃん。
おめかししたクマちゃんを穴が開くほど見つめているのは、当然のことながら、顔の良すぎる海賊の頭、の衣装が脱げなくなった商隊長である。
「クゥは黒も良く似合うな……」
「クマちゃ」
「そこの船長、なんか目つき怪しいんだけど」
「あ~、休んでいたところをすまんな……」
話を切り出したのは、裏社会のボスことマスターだった。
狙いは『王都で動ける冒険者の獲得。ただし、王都のギルドは通さずに』という、非常にグレー、かつ断らせる気のない依頼を受けてもらうことだ。
ここにはひとりしかいないが、他の冒険者の協力を得るのは、彼の説得が成功してからでいい。
上手くいけば戦闘に参加させ、実際に『それ』を見てもらうことになるだろう。
場所はもちろん、森の街の名物、果て無き森だ。
時間がかかる場合は所属を移してもらうこともあるかもしれない。
王都の冒険者ギルドから、森の街の冒険者ギルドへ。
つまり悪い言い方をすれば、引き抜き、とも言う。
とりあえず本題に入る前にと、軽く探りを入れる。
「最近の王都の様子を知りたいんだが……商隊の護衛は、〝ゼノ〟で合ってるか?」
「……間違っちゃいねぇが……」
ゼノと呼ばれた護衛の男は動揺を隠せなかった。
『裏社会のボス』に自分の本名が知られている。やっかいなことになった――と。
「ん? なんだ。歯切れが悪いな。登録名の変更は余程のことがない限りできないはずだが……おい、まさかお前までおかしな勘違いを……。いや、いい。この席にこいつがいる限り、何を言っても信じられんだろうしな……」
マスターは目元を隠すようにこめかみを揉んだ。
〝こいつ〟――それは悪の象徴、本物の魔王にしか見えないルーク様のことである。
たとえ本人の口から『魔王じゃねぇ』と言われても、信じられないだろう。
森の街の冒険者である精鋭達ですら『ほ、本物だ……』『やっぱり……』『知ってた……』『怖すぎる……』『魔王ルーク様……』『ついに……』と、顔を青くして慄いていたのだから。
「それよりゼノ、『ホワイトスープ』を食って様子がおかしくなった人間に心当たりはあるか? それ以外でも、普段と言動が違ったり、体調を崩したり……睡眠不足ていどの不調でもかまわん。知ってることがあれば教えてくれ」
「そもそも、その『ホワイトスープ』ってのも、俺が知ったのはこっちに来る途中だしな……」
護衛の男、ゼノはそう言って眉間に皺を寄せ、静かに話し出した。
「そっちの組織にいるSランク……いや、SSランクにも言ったが、俺が商隊のやつらと顔を合わせたのは王都を出る直前だぜ? 依頼を受けたのもな。どの商会がどこで何を売ってるか、なんて、わざわざ個人で調べたりしねぇよ。俺は流行ってもんにも興味がねぇしな。街の様子が知りたきゃ、買い物好きの女冒険者にでも聞いたほうが早いと思うぜ」
ゼノはそこで一度言葉を切った。
妖精ちゃんが目の前をヨチヨチしてきたからだ。
彼は無理やり視線をそらし、何かに耐えるように顔をしかめた。
そらされた視線のさきに、ヨチヨチ……ヨチヨチと移動してきた妖精ちゃんを見ないようにしながら「……それに」と話を続ける。
「アンタらは意外に思うだろうが……俺は戦闘面で頼られることが多い。だから街でじっとしてることなんてほとんどねぇ。だいたいは依頼で外に出てる。ちょうど、今みたいにな。『ホワイトスープ』だか何だか知らねぇが、他人の食いもんなんて興味ねぇし、野郎相手に『お前、今日のメシは?』なんて気色悪い会話、したこともねぇよ。……で、あとは体調だったか? ……元気が有り余ってる奴なら知ってるが……顔見知りの体調なんて、いちいち気にかける冒険者のほうが珍しいと思うぜ? 生憎、俺はそこまでおせっかいじゃねぇし、博愛主義でもねぇ。アンタらを満足させる情報なんて持っちゃいねぇよ」
と、ゼノは冒険者にしては珍しいといえるほど丁寧に解説してくれた。
『心当たりがひとつもない理由』を。
この男と話して分かったことと言えば、『王都の冒険者ゼノは真面目で優秀だが、情報面においては一切役に立たない。本人のお墨付きである。ホワイトスープには興味がない。そして理由は不明だが、可愛い妖精ちゃん達と世界一可愛いクマちゃんを避けている』ということぐらいだ。
「あ~、そうか。まぁ、戦闘特化の冒険者ならそうだろうな」
マスターはひげの生えた顎をさわりつつ適当な相槌を打った。
『可愛い生き物が苦手なのか……? しかしそれなら白いのの領域には入れんはずだが……』と、引き抜き計画の一番の問題になりそうな、ゼノのおかしな行動について考えながら。
しかしそのとき、森の街の冒険者達があまりにも非協力的なせいで、相当慎重にことを進めなければならなくなったマスターの計画を、木っ端微塵にするような美声が響いた。
「ねぇ。そこの可愛らしい妖精ちゃんが、君に甘えたいようなのだけれど。少し遊んであげてくれる?」
「俺の隣にゴロツキみたいな人いるんだけど……」
勘の鋭いリオが心の耳で聞き取ってしまったドスのきいた美声は、『おいテメェ……断ったらただじゃおかねぇぞ』だった。
そのやり取りを見ていたクマちゃんはハッとした。
ウィルちゃんは、クマちゃんと妖精ちゃんの気持ちに気が付いてくれたようだ。
クマちゃんはつぶらなお目目をうるうるとさせながら、肉球にきゅ……と力を入れて決意した。
真面目そうなゼノちゃんに『俺もクマちゃんと遊びたくてたまんねぇが、お仕事中なんだぜ……』と真面目にお断りされてしまう前に、おちごとの邪魔をしない遊び道具ちゃんの準備をしなくては……!




