第441話 心優しいクマちゃんをのんびり見守る仲間達。黒髪の案内人。客は客室へ。
クマちゃんは温かな空気を目指し、ヨチ……と一歩を踏み出した。
「クマちゃ……」と。
◇
ザァザァと心地よい水音が響く煌びやかな広間。
鮮やかな色合いの織物が高い天井からゆったりと垂れ下がり、空中に曲線を描く。
濃い緑の香る南国の植物、凝った装飾のランプ、陽に透けるステンドグラスのように床や水面へと広がる色とりどりの光。
それらは珍しい客人達を歓迎するかのように、美しくキラキラと輝いていた。
永遠に尽きぬ清らかな水が、いくつもの細い滝をつくり、エントランスを囲む水路へ、溢れることなく流れてゆく。
「……魔王城というにはあまりにも……」
「なんて美しい……」
「神の国なのでは……?」
「とんでもなく豪華ですね……。あのランプ、いったいいくつ宝石が付いてるんだ……」
王都の客達は、これまで目にしたことのあるどの国の王城よりも絢爛豪華な城の広間らしき場所に佇み、ぼーっと口を開けていた。
飾りの一部のように使われている織物も、よく見るとキラキラと輝いている。
――宝石を溶かし込んだ糸でも使っているのでは。そんなものが存在するとは聞いたこともなかったが、商人達はそう分析した。
「…………」
『あれ一枚だけでデカい城が建つな……』と慄き、癒しを求めてずらした視線の先、その植物に生る実が、キラキラと明かりを反射する宝石のごとき光を放っているのを見て、商人達はもう一度ポカーンと口を開けた。
◇
関係者以外立ち入り禁止区画内にある『冒険者ギルド会議室』にいたはずの彼らがなぜ、『クマちゃんリオちゃんパーク、影武者リオちゃん王の御座す(こともある)お城』にいるのかというと――。
空気を読むのが苦手な高位で高貴なお兄さんが、闇色の球体で彼らを飲み込んだからだ。
――お兄さんがそうした理由は、彼が庇護している幼いクマちゃんが『クマちゃ……』お城ちゃ……と言ったからである。
商隊の長である男は、本日何度目かというほど突然見知らぬ場所に連れてこられ、そのうえ腕の中のクマちゃんがいなくなっている事実に絶望し、はらはらと美しい涙を零していた。
それは王都であれば大勢の女性達がハンカチを握りしめ駆け寄ってきそうなほど、無駄に整った泣き顔だった。
「はぁ……商隊長、しっかりしてくださいよ。朝になったらまた会えますって……多分……」
「……小声で『多分』と言ったな。聞こえたぞ……」
地味な美形商人と垂れ目がち色気駄々洩れ超美形商隊長がそんなやりとりをしていると、エントランスの両翼に大きな弧を描く階段の左手からカツン――と硬質な音が響いた。
護衛の男が下がるように合図を出す。
いつの間にか、彼らのすぐ側にひとりの男が立っている。
その男は艶やかな黒髪で、目元に黒い布を巻き、執事服――というには少々仕立てが良すぎる衣装を纏い、腕には真っ白なぬいぐるみを抱えていた。
どこか見覚えのある男が美しい唇を開き、どこかで聞いたようなかすれ気味の声が、さらさらと言葉を紡ぐ。
「待たせちゃった? 俺のことは、えーと……執事さんって呼んで。呼ばれたからってすぐに来れるわけじゃないけど」
『執事さん』と名乗った男はそういって、ふ、と魅惑的な笑みを零した。
物腰はやわらかい。が、圧倒的な存在感と顔を隠していても溢れる華やかさは服装が示す職業と見合っておらず、出迎えを受けた彼らに小さくはない衝撃を与えた。
『〝執事様〟とお呼びすべきか……』と。
高位貴族のような品の良さと身のこなし。
ほぼ口に出してしまっている『俺は忙しいから呼び出しちゃだめだよ』という、聞く者に圧は与えないが子供を諭すような態度。
王都の客人達は思った。
目の前の男は絶対に『たかが人間の商人(と、人間の護衛)』をもてなす立場の生き物ではない。
護衛の男が嫌そうな顔で「やってらんねぇな……」と呟く。
『どいつもこいつもなんでこんなに強いんだよ。俺ひとりで抑えられるわけねぇだろアホか』と言いたいようだ。
「金色の御方と似てるが……絶対に執事ではないな……」
「双子か……? ということはやはりあの方も人間では……」
「傅かれる側だろうに……」
「そのぬいぐるみは、まさかクゥ――!」
「商隊長!! 余計なこと言わずに大人しくしててくださいよ。〝欲しい〟などと言ったら殺されますよ!」
「俺からも頼むぜ。怒らせたら全員あの世行きだからな。普通なら『俺が足止めしてるあいだに逃げろ』ぐらい言ってやるんだろうが、一秒も止められねぇよ。……悪いな、護ってやれなくて」
護衛の男の声は普段と変わらず落ち着いているようだったが、最後の言葉には悔しさが滲んでいた。
「なに? 俺ってそんなに怖そうに見える? 心外なんだけど。とにかく部屋に案内するからついてきて。出歩いても見学してもいいけど、危ない場所もあるから気を付けてね」
黒い布で目を隠した男はそういって上品に笑うと、彼らへ背を向けスタスタと歩き出した。
客室は上の階にあるようだ。
ふわ――。階段から光が舞い落ちる。
「ん……?」
護衛は男を追う足を止め、靴先に落ちているものを拾い上げた。
「羽……?」
淡い光に包まれた羽を、つまんだまま裏返そうとしたが、ふわりと空気にとけ、跡形もなく消えてしまった。
「…………」
『あいつらぜってー人間じゃねぇだろ……』
護衛の中の『森の街の冒険者は全員人外疑惑』がますます深まる。
だが、男は綺麗な顔を歪めただけで、それを商人達に伝えることはしなかった。
天使だろうが悪魔だろうが、彼らが手に負えない存在であることに変わりはない。
古代の装置も巨大な魔法陣も使わず人間達を一瞬で転移させる何かが、彼らの周りにいる。
ここでは『何を見ても知らないふりをしろ。そして忘れろ』と言うしかないのだ。
◇
その頃クマちゃんはお城の厨房でヨチヨチしていた。
小さなお玉を肉球できゅ……と握り、熱々のシチューが入ったお鍋へヨチ……とクマちゃんが忍び寄る。
「クマちゃんは危ないからこっちねー」
「クマちゃ……」
『こっちねー』と言いながら、金髪の調理補助リオはいつものように左腕にもこもこした生き物をおさめた。
おっとりしたシェフはハッとした。
お玉がない、と。
「クマちゃんのお玉めっちゃちっちゃくね? これなんも掬えないっつーか手すべって鍋に落とすやつじゃん」
風が何かをささやいている。
クマちゃんはふたたびハッとした。
良く聞こえなかった――。
しかし天才なクマちゃんは、聞こえた部分だけで質問の意図をビビッと理解した。
『クマちゃんのお玉』『すくえない』『鍋』『落とす』
つまり――
『クマちゃんのお玉は救えない場所にあります。鍋に落としたのは金のお玉ですか?』
ビッグチャンス到来の予感である。
煩悩を刺激されたクマちゃんはドキドキしながら素直に答えた。
「クマちゃ……」
『金のお玉ちゃ……』
はい。クマちゃんが落とちたのは金のお玉ちゃんでちゅ……。
「いや普通に銀色だけど」
――きゅおー――。湿ったお鼻が悲しみの音を奏でる。
シェフを泣かせた調理補助は死神のごとく恐ろしい男が地下牢へと運んでいった。
廊下から剣戟と罵声が聞こえる。
『理不尽すぎるでしょ!! 鍋かき混ぜてただけじゃん!』
『赤子の希望を打ち砕く愚か者に任せる鍋などない――』
厨房に豪華なソファセットを出現させゆったりと寛いでいた高位で高貴なお兄さんが、閉じていた目をゆるりと開く。
頭に響く不思議な美声が、お告げのように言葉を紡いだ。
「――しばし待て――」
同じくソファセットで長い脚を組んでいた魔王は、切れ長の目で『お兄さん』を見やると、道具入れから取り出した何かをもふ……とテーブルに置いた。
『クマちゃんカードケース』という名のぬいぐるみが素早い動きでシャシャシャ――! と一枚のカードを取り出す。
白とピンク色で構成されたそれは、子猫にそっくりな肉球を真横から見た貴重な絵であった。
ルークは長い指先でスッとカードを掴み、ほんの少しそれを眺めてから魔法の風を操った。
躊躇を知らぬ男にしては随分と勿体ぶった仕草に、同じ席で紅茶を飲みつつ死神から預かったシェフを撫でていた派手な男が視線を投げる。
ウィルはいつもの優しげな表情を崩すと、いかにも悪い男の顔でニッと笑った。
可愛いクマちゃんの貴重なカードを一枚たりとも手放したくないのは、たとえ同じカードを二枚持っているルークでも同じらしい。
ふわりと手元に届いたそれに、高位で高貴な男は何を考えているのか分からぬ眼差しを向けると、己の闇で静かに覆い隠した。
魔王からの贈り物は、高位で高貴なお兄さんのお気に召したようだ。
地下牢へ行かずに厨房へ戻って来た目撃者は、まるで国家間の怪しい取引を盗み見てしまった一般人のような顔で「え、こわ……」と言った。
◇
クマちゃん達が城の厨房で何をしているのか、というと。
客である彼らを城へ送った直後、心優しいシェフが、ずっとお外にいたお客様を思い『クマちゃ……』と言い、それに『えぇ……』と返した調理補助が『クマちゃ、クマちゃ、クマちゃ……』の言葉に従い肉と野菜とその他諸々を用意し、包丁で切り、煮込んでいるところであった。
「さっきのヤベー取引みたいのなに?」
「うーん。君が気にするほどのことではないよ」
ウィルは意味深長な発言をすると、リオの髪へチラ、と視線をやり、すぐに逸らした。
別に隠している、というわけではない。
『お兄さんが可愛らしいクマちゃんのために金色の調理器具セットを用意しようとしているみたいだけれど、おそらく特注品だから時間がかかるのではないかな』
『リーダーはそのお礼をしようとして、金貨よりもずっと価値があるものを贈り物に選んだ。あのカードにはとても素晴らしい絵が描かれていたよ』
『たぶんお兄さんは〝お礼〟を断るつもりだったと思うのだけれど、渡された物があまりに魅力的だったから思わず受け取ってしまったのではないかな』
『……というのがさきほど君が見た場面で、〝ヤベー取引〟は君が気にするほど怪しいものではないよ』
という話を金髪に語って聞かせるのは少々面倒で、可愛いクマちゃんには大人達が妙な取引をしていると誤解されたくなかったがゆえに、彼は一言で纏めたのだ。
『君が気にすることではない』
つまり、『訊くな』ということである。
「なに。何でいま俺の頭見たの。気になるんだけど」
「君が気にしなければいけないのは頭ではなく鍋だよ。ほら、そろそろいいのではない?」
「クマちゃ、クマちゃ……」
『シチューちゃ、完成ちゃ……』
シェフの愛らしい声が、料理の完成を告げる。
ウィルはシェフの愛くるしい頬を優しくつつきながら、「では、彼らの客室へ運ぼうか。鍋ごと持っていけばいいかな。空腹だろうからスプーンよりもお玉のほうが喜ばれるかもしれないね」と、いかにも大雑把な人間らしいことを言った。
「その顔で雑なこと言うのマジでやめてほしいんだけど……」
リオは本気で嫌そうな声を出し、顔を歪めた。
南国の王族と言われても違和感がない見た目をしている男がお玉でシチューを食う場面など想像したくない。もはや山賊の所業である。
意外と真面目なリオは細かな食事のマナーは気にしないが、仲間のイメージが著しく損なわれるような行動に対しては若干忌避感があった。
そんなことを話しながら、リオはピカピカに磨かれた食器類をどんどん自身の『クマちゃんカードケース』(もこもこしたぬいぐるみ)に手渡していった。
◇
クマちゃん達が厨房でシチューを作り、客の案内を終えた『執事さん』が廊下で「え? 金色ですか?」と言いながら爆走していたとき――。
豪華すぎる客室に案内された商隊長達は、室内のあちこちに置かれた小さなベルを鳴らすかどうか、真剣に悩んでいた。




