第401話 疲れがふっとぶもこもこセラピー。目的を見失い、大切なものを得た男。
もこもこあん摩まっちゃーじ指圧師クマちゃん先生は、お客様が元気になるようにお手々のツボを『しあちゅ』している。
◇
自身の体がどうなってしまったのか気付かぬまま、そしてそれが『もこもこ飲料メーカー』の元気になる牛乳を飲んだせいであると知らぬまま、リカルドはひたすら、己の手によじよじもこもこ……と乗り上がってきた子猫によく似た生き物をねめつけていた。
(子猫が……! 子猫が私の手のひらに……! なんというふわふわ感! 小さな肉球が熱を発している……!)
混乱している男の頭には『何故乗られているのか』という疑問などまるで浮かばなかった。
普段、仕事人間のごとく仕事ばかりしている男は、このとき一切仕事のことを考えず、生まれて初めて『手乗りもこもこ体験』をした感動にただ深く浸っていた。
「クマちゃ……」
クマちゃん先生はハッとした表情で口元を肉球で押さえた。
お客様の手が冷えている。
ということは、おそらく冷え性である。
これは本格的にふみふみしなければ。
竜宮城から『やわらかマシュマロクマちゃんお手々まくらちゃん』を運んできたいが、あれはお菓子の国のものなので、こちら用にそっくりなアイテムちゃんを作るのがいいだろう。
クマちゃん先生は、うむ。と深く頷くと、お客様の大きな手からするりと降りた。
すると、手からもこもこの愛らしい温もりを失ったリカルドの表情が瞬く間に絶望に染まった。
「いや傷付きすぎでしょ」
「……まぁ、気持ちは分かるが」
クマちゃん先生とリカルドのふれ合いをのんびりと見守っていたリオとマスターが、短く感想を述べる。
『初対面で手に乗ってくれたのだから、それで満足しろ』と言ったところで、彼の悲しみは癒えないだろう。
もこもこがヨチヨチと移動し、リオに肉球を見せる。
「クマちゃ……」
「あ、鞄?」
リオはルークから預かっていた『本日の衣装に合わせたクマちゃんの鞄』を取り出した。
『水色の生地に黒いコックタイが描かれたお洒落なよだれかけ』に合いそうな、小さな黒猫さんの斜め掛け鞄を。
――――!!
出会って数分で傾国の子猫に夢中になってしまったリカルドの目が、愛らしいもこもこの愛らしい動きを捉える。
(なんということだ……白い子猫が黒猫の鞄を小さき手でごそごそと探っている……!)
――クマちゃんは子猫ではなく『クマちゃん』という謎多き生き物だが、彼は『耳が丸くてふさふさな子猫』なのだろうと勘違いしていた。
リカルドの視線の先、テーブルの上にマシュマロと小さな魔石がコロリと転がった。
子猫にそっくりな手が、最後に真っ白な杖を取り出す。
何をしているのか。しようとしているのか。
そんなことはまるで彼の考えになかった。
もこもこしている小さき生き物が『魔法を使ってアイテムを作る』。
それは『子猫が二本足で歩き、本を読み、キッチンで料理をする』のと同じぐらいありえないことだ。
目の前で魔石と杖が出てきても、引っ搔き回しているうちに鞄から落ちたのだろうと気に留めなかった。
――そもそも『魔石と素材さえあれば何でも作れる』などという非常識な魔法は人間界には存在しない。
それゆえ彼の目の前で、子猫が両手で杖を握っても、小さな黒い鼻の上にキュッと皺が寄っても、愛らしいと思いこそすれ『マシュマロと魔石を魔法でアイテムへ作り変えるのだな』などとは、頭を掠めもしなかったのだ。
◇
癒しの力と輝きに包まれた応接室で、商業ギルドマスターリカルドはカッ――! と目を見開いていた。
「今のはなんだ……?! いったい何が……それにその白い物体はどこから」
「気にしなくていいから。ぜんぶ幻だから」
「あ~、そうだな……。せっかく体調がよくなったなら、落ち着いて過ごしたほうがいいんじゃねぇか? あまり考え込みすぎるなよ、リカルド」
動揺するリカルドを、リオとマスターが適当になだめる。
「あ、これってアレじゃね? マッサージのやつ。可愛いねークマちゃん」
「クマちゃ、クマちゃ」
リオに褒められ、もこもこもこもこと撫でられたクマちゃんが愛らしく喜び、混乱中の男に詳しい説明もないまま事が進められる。
「ハイ。おっちゃんはこれに手のせとくだけでいいから」
「……私はおっちゃんではない」
リカルドは突然テーブルに出現した謎のアイテム『やわらかマシュマロクマちゃんお手々まくらちゃん』に手を置けとリオに言われても抵抗しなかった。
が、『おっちゃん』には抵抗を示した。
もしかすると、毎日仕事で忙しいなか、片側の髪を綺麗に編み込んでいるのも、シンプルで高級感のあるピアスをしっかりと目立つように着けているのも、年相応に見られるようにと彼なりに努力した証なのかもしれない。
◇
そうして準備が整ったのを察知したクマちゃん先生が、ふたたびリカルドの手の平にヨチヨチよじよじしようとして、高さが合わずきゅお……と湿ったお鼻を鳴らす。
リカルドは誰かに何かを言われる前にサッ――! ともこもこを自身の手の平へ乗せ、そのままうつ伏せのクマちゃんの胴体をみょーんと伸ばしたような『やわらかマシュマロクマちゃんお手々まくらちゃん』にその手を戻した。
「おっちゃんめっちゃ必死じゃん」
余計なことをいう金髪に返事をする余裕もないらしい。
そもそもここへ何をしに来たのか。を思い出す余裕も。
必死な商業ギルドマスターが、ふわふわで温かい手乗りクマちゃんを凝視していると、もこもこした生き物がついに、キュ……とお目目を閉じ、丸い子猫ハンドを動かし始めた。
親指の付け根あたりの比較的柔らかい部分を、温かな肉球がふみぃ……ふみぃ……と踏んだり揉んだり、可愛いお手々をぐぅ……ぱぁ……ぐぅ……ぱぁ……と閉じたり開いたりする。
――――!!!
クマちゃん先生の温かな肉球でふみふみされているリカルドの顔が、とんでもない衝撃映像を見てしまった悪役のような形相へと変わる。
それはまるで長年信頼していた手下が突然武器でも向けてきたのかというほど険しい表情であった。
「ヤバいヤバい。さすがにそれはヤバすぎる」
「リオ、白いのが頑張っているときに余計な口出しをするな」
ほぼ正面に座っているリオは悪気なくリカルドの顔を心配した。
マスターが軽く窘めたが、「へーい」と答えて黒縁眼鏡を拭いている金髪には何のダメージにもなっていないだろう。
その程度で失言がおさまるならば最強の男の『コツン』を何度もくらったりしないはずだ。
ふみぃ……ふみぃ……。きゅお……きゅお……。
愛らしい生き物が、リカルドの手を懸命にふみふみしながら、離乳前の子猫のように甘えた鳴き声を漏らしている。
(この世にこれほど愛らしい生き物が存在していたとは……もしや私の手を母猫の腹だと思っているのか……乳が出せず申し訳ない……。だが叶うならば、このままずっと手の平にこの生き物を乗せていたい)
男は仕事ばかりの人生のなかではじめて『安らぎ』と『愛おしさ』を覚えた。
もう一生この部屋でふみふみされていたいと思えるほどに。
彼の顔から険しさが抜け、不器用な笑顔らしきものが浮かぶ。
「なに、その死ぬ直前みたいな顔」
「おい、リオ。客に向かって失礼なことばかり言うな」
穏やかなときが流れ、クマちゃん先生の施術が終わりに近付く。
リカルドの手がほんのり温かくなったことを感じたクマちゃんは、きゅお……と愛らしくお鼻を鳴らしながら、もこもこもこもこと寝床を整える子猫のような仕草をしてから、ころんと仰向けになった。
お目目をつむったクマちゃん先生が、ピンク色の肉球を虚空に向けて、ぐぅ……ぱぁ、ぐぅ……ぱぁと子猫的なお手々を丸め、限界まで広げる。
自身の手の上でそんなことをされてしまったリカルドは、小さなもこもこへの愛が爆発し、ぐっと喉が詰まり、鼻の奥が痛み、胸がかきむしられるほど苦しくなった。
「えぇ……泣くのやめてほしいんだけど。あとで口封じとかされそう」
「お前は一度ぐらい口封じされたほうがいいだろうな」
外野がざわざわするなか、クマちゃん先生の『おハンドまっちゃーじ』が終わり、温かくなったリカルドの手の平でお座りしていたもこもこが、泣いている男に肉球を伸ばす。
きゅお……。
仕事を忘れ、小さなもこもこだけを一心に見つめるリカルドは、もこもこを睨むことなくまばたきで雫を落とすと、そっとクマちゃんを抱え、どこまでも優しい手付きでふわりとその背を撫でた。
そんな彼の手を両手できゅむ……とクマちゃんがつかまえる。
そして湿ったお鼻をピチョ……と、疲れている彼を慰めるようにくっつけた。
もうこれ以上あがることはないと思っていたリカルドの『もこもこへの愛』がドカンと跳ね上がる。
心底苦しそうな表情をして、もこもこを片腕にのせたまま顔を隠す男を見たリオが「そろそろ俺のクマちゃん返してくんない?」と非道な発言をする。
が、心優しいマスターが少しくらい待ってやれと諭したため、リカルドが絶望の淵へ叩き落とされるまでの時間は三分間だけ延長された。
◇
「つーかおっちゃんて結局何しに来たんだっけ」
「…………」
リオが奪い返したもこもこを撫でながら尋ねたが、愛らしい子猫を失ったリカルドはそれどころではないらしい。悪役顔に翳りが見える。
危険な男を好む女性がときめきそうな表情だ。
「あ~、確か……荷物のことだったな。取引先の人間をもう一度調べ直したほうがいいぞ、と言いたいところだが……俺の説明だけで納得できるような話とも思えん。すまんが街の広場に設置されてる魔道具で『映像』を見てからもう一度来てくれるか。時間があるなら再放送の時間まで酒場にいるのもいいと思うが……」
「……いえ、仕事があるので。『映像』というと、商業ギルドの人間が騒いでいた『美少女』のニュースのことでしょうか。分かりました。必ず観てきます」
リカルドはそう言って、リオの手にじゃれているもこもこをじっと見つめてから静かに立ち上がった。
危険な視線を向けられてしまったクマちゃんはハッとした。
お客様がお帰りちゃんのようだ。
お疲れやすいお客様へ、健康になるアイテムちゃんをお渡ししなければ。
クマちゃんはリオに抱えられたまま、ごそごそ、と鞄を探り、お客様にぴったりなクマちゃんグッズを探した。
「クマちゃ……」
クマちゃんが両手で抱えたそれを、リカルドへ見せつけるように、ぷるぷるしながら掲げる。
「どしたのクマちゃん。つーか何それ。めっちゃ可愛いんだけど。まさかおっちゃんにあげるやつ? おっちゃん顔こえーし可愛いアイテムとか使わなくね?」
「私はおっちゃんではないが、子猫からの贈り物であればありがたく頂戴する」
応接室の出入口で、一応見送りのために立っていたリオのもとにリカルドが近付く。
子猫の肉球が掴んでいるそれを、そっと受け取った。
「なんと愛らしい……。これは人形か? 幼児用エプロンに『せんせい』と書いてあるが……」
それは荒々しい字で〝せんせい〟と書かれたよだれかけを首から下げたクマちゃんが、両手、両足の肉球を前に突き出している可愛らしい人形であった。
お昼寝中の子猫のごとく、お目目をきゅ……と閉じている。
「クマちゃ、クマちゃ……」
『健康ちゃ、クマちゃ……』
そちらは『健康クマちゃんグッズ』ちゃんでちゅ……。クマちゃんの肉球の部分で、手の平のちゅぼを押してくだちゃい……。
「え、俺もやりたい。おっちゃんちょっとそれ貸して」
リオは返事も聞かずにリカルドの手から『健康クマちゃんグッズ』という名のクマちゃん人形を奪い取った。
さすが凄腕の冒険者といった鮮やかな手並み。まさに一瞬の出来事であった。
またしてももこもこを奪われたリカルドの顔が、邪魔者の始末を目論む凶悪犯のように歪む。
悔しさからか、手がわなわなと震えている。
「怖い怖い。そんな怒んなくてもすぐ返すって」
リカルドの『健康クマちゃんグッズ』を奪った超健康な犯人は、悪びれた様子もなく、クマちゃんを抱えているほうの手の平に、それを押し当てた。