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第400話 お疲れな美形商業ギルドマスターに起こった変化。迫る肉球。

 新人アルバイタークマちゃんは、リオちゃんの準備が整う瞬間を姿勢を正して待っていた。


 カタ、とカップがティーカートに置かれる音が聞こえた。

 風がささやく。お願いします、クマちゃんと。


 うむ、クマちゃんの出番である。


 足音を立てないように歩き、カートの持ち手にスッとお手々を置く。


 ススス……――。


 出来る限り中身を揺らさず、クマちゃんはお客様の前へ移動した。

 そうして速やかに事を為したクマちゃんは、お客様にそっとピンク色の肉球を見せた。


 どうぞ、と。



 ふわふわの布を巻いた瓶から光と共にチョロチョロと注いだそれを、リオは子猫サイズの台車に置いてやった。


「はい、クマちゃん」


「クマちゃ……」

『出番ちゃ……』


 ゆったりと頷いたクマちゃんが、ヨチヨチヨチヨチ……とそれに近付き、小さな台車に肉球をかける。


「……台車に、子猫の……」


 商業ギルドのマスター、リカルドは、美形だが目の下のクマと険しい表情のせいでやや人相の悪い顔を歪め、子猫によく似た生き物をじっと、睨むように見つめた。

 

(なんということだ……! 飲み物が入っている台車に子猫が手を掛けてしまった……。ヤツは何故止めないんだ。危ないだろうに)


 不満気で子供に優しくない顔の裏で考えているのはそんなことだった。

 彼は小さなもこもこが転ぶのではないかと心配しているのだ。


 ハラハラしているリカルドの思いを知らぬもこもこが、生まれたての子猫のごとくぷるぷるぷるぷる震えながら、ヨチヨチ……ヨチヨチ……と台車を押す。


 カタカタ……カタカタ……。


「クマちゃ……クマちゃ……」

『クマちゃ……がんばるちゃ……』


 リカルドはぐっと喉を詰まらせた。

(子猫が自分を励ましながら、重たい飲み物を客である私に運ぼうと……! なんと健気な……!)


 手伝ってやりたい。だが……と葛藤するリカルド。


 なんとか座ったまま持ちこたえ、自身の顔がそうとう歪んでいることに思い至らず、眼前までカタカタヨチヨチしてきた子猫を見下ろす。


(よくぞ無事にここまでたどり着いたな……その短い猫足で……)


 感無量なリカルドは不満気な顔のまま、スッと目を細めた。


「商業ギルドのおっちゃん顔めっちゃやばいことになってっから」

 

 黒縁眼鏡をかけた金髪の暴言に『もともとこういう顔だと言っているだろう! 失礼なヤツだな!』と返す余裕もない。


 台車からお手々を離したクマちゃんはヨチヨチと移動し、ピンク色の肉球をリカルドにス――と見せてきた。


「なんと愛らしい……! 子猫がみずから肉球を……!」


「めっちゃ可愛いでしょ俺の子。それたぶん『どうぞ』って意味」


「あ~、もしかすると少し、いや……大分甘いかもしれんが、体にはいいはずだ」


 感動で震えるリカルドに、リオとマスターがさりげなく圧をかける。

『早く飲んでくんない?』『残すなよ』と。


 リカルドはくっと顔を顰め、震えるもこもこに悪だくみをする悪党のような笑みを見せた。


「ちょうど喉が渇いていたところだ」


「クマちゃーん」


 新人アルバイターがそのただならぬ笑顔に恐怖を覚え、一声鳴く。

 喜びと恐れを聴き分けられぬリカルドは、それすらも愛らしいと感じた。


 まさに悪役といった様子でくくっと喉を鳴らし、リカルドが小さなマグカップに手をかける。


「随分白いな……」


 冷えたマグカップに、真っ白な液体が入っている。

 仕事柄、怪しげな酒を盛られることもある男は、クセでさりげなく匂いを嗅いでしまった。


(見た目の通り中身も牛乳か……子猫らしくて大変よろしい)


 視線を下げると、お目目をうるうるさせたもこもこが、リカルドが牛乳を飲むときを口を開けたまま待っている。


 彼はもう一度目を細め、ニコッと微笑んだつもりでハッと冷笑を送った。


「クマちゃーん」


 新人アルバイターがふたたび恐怖で愛らしい声を漏らす。

 トトトと早まるもこもこの鼓動。


 リカルドは心地よい子猫の美声を聴きながら、小さなマグカップをぐいっと傾けた。

 普段の用心深い彼であれば、他人の入れたものを一気飲みするなど考えられないことであった。

 しかしこの時リカルドは、彼のために牛乳を運んでくれた小さなもこもこを悲しませたくないと、強く思ってしまったのだ。


 そうして人相の悪い美形に顕著な変化が起こる。


 白いというより青いという域まで達していた顔色は、健康的な肌色へ。

 目の下にあった濃いクマが、はじめからなかったかのように綺麗になくなる。

 血色の悪い唇にも血が通い、本来の色を取り戻す。


 心なしかパサついていた髪に、はっきりと艶があらわれた。

 充血気味だった白目も、毎日健康に過ごしている若者のように青白く変化した。

 

 灰色と紺色を混ぜ合わせた瞳が書類の睨みすぎによるドライアイから解放され、綺麗に光を反射する。


 髪と同色の長いまつ毛が、ぱさりと上下に動いた。


 そこにいたのは顔色が悪すぎて周囲から心配される美形ではなかった。

 なんと三十代後半と思しき人相の悪い美形商業ギルドマスターは、実は二十代後半の人相の悪い超美形商業ギルドマスターだったのだ。


「やばい。おっちゃんがおっちゃんじゃなくなった」


「……そういえばこいつはこんな顔だったか……。あの状態を見慣れ過ぎて、もともとの姿を忘れていたが……これだと本人というより親戚だと思われる可能性のほうが高いな。……商業ギルドで騒がれそうな気がするんだが」


「ぐっ……甘い……!!」


 未だ己の変化に気付かぬリカルドが、マグカップを小型の台車に戻しながら喉を押さえる。普段飲み物に砂糖を入れぬ彼にとって想像だにしない甘さだったようだ。


 しかし甘いものは美味しいものだと思っているクマちゃんは、お客様に褒められたと素直に解釈した。


「クマちゃ……」

『甘いちゃ……』


 新人アルバイターはお腹の前でお行儀よく猫手を合わせ、姿勢を正したまま深く頷いた。

 良かったでちゅ……と。


 そこで(早く可愛らしい生き物に感謝を伝えねば)と口元から手を離したリカルドが、ようやく己の変化に気付く。


「妙だな……何故頭痛が消えているんだ……。黙っていても痛かった肩と、下を向くだけで感じていた首の激痛はどこへいった……」


 彼は突然ザッ――! と席を立った。


「腰も痛くない……! これはどういうことだ?! 目の痛みもまったくなくなっているぞ……!」


 リカルドは自身の軽くなった体を見下ろし、動揺で震える両手へ視線を移した。

 まさか……死んだのでは? と。


「手は透けていないようだが……」 

 

「牛乳飲んで手が透けるほうがおかしいでしょ。おっちゃん欲張りすぎじゃね?」


「リカルド。お前が休めないと思う気持ちは理解できるが、そこまで体調が悪いときはきちんと医者へ行け」

  

「クマちゃ……!」


 新人アルバイタークマちゃんは、マスターの言葉でハッと表情を変えた。

 お飲み物の次はお医者ちゃんを必要としているらしい。


 うむ。クマちゃん先生の出番である。


「クマちゃ……」

『おまかせちゃ……』

  

 クマちゃん先生はキリリとした顔で肉球を見せた。


 どうぞ、そちらへお座りくだちゃい……。


「ああ、すまない……。何故か突然体の調子が良くなったせいで礼儀を欠いた行動をとってしまった。見なかったことにしていただけるとありがたい」


「へー。じゃあこっちのもぜんぶ見なかったことにしてくれるとありがたいんだけど」


「あ~、こいつの言い方は本当にどうかと思うが、まぁ、そうだな……。これからお前の身に何が起こっても口外しないでいてくれると助かる」


「私の身に……? これ以上何が……」


 突然体調が良くなったことで激しく動揺している男は、己の外見が別人のように素晴らしくなってしまったことに気付かぬまま、ぷるぷるヨチヨチと寄ってきたもこもこに、動物好きの人間らしい仕草で手の平を見せた。


 リカルドの指先に、クマちゃん先生の肉球がふわ……とかけられる。


(なんと、子猫が私の手に愛らしい肉球を……! あたたかい……! ふわふわな産毛が、私の指先に……!)


 彼の混乱を知らぬもこもこの湿った鼻先が、ふんふんふんふん、と彼の手に――。



 かようにして、小さなマグカップいっぱいの牛乳を飲んだだけで劇的な変化を遂げた商業ギルドマスターリカルドは『すべての体調不良が一発で治る奇跡の牛乳』の謎に迫る前に、子猫にそっくりな医師のもこもこ診察を受けることになってしまったのだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 400話おめでとうございます。 高い質と更新頻度を保つのは大変なことで、それを維持されてるのはスゴイと毎回感動しております。 なによりクマちゃんがカワイイ!400話になってもずっとカワイイ…
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