第389話 まるで海の中。きらきらと美しい作業風景。それが可愛いワケ――。
現在クマちゃんは、せっせと肉球を動かしている。
うむ。今日もたくちゃん働いた皆ちゃんがゆっくりつかれる温泉を、急いで完成させるのである。
◇
青い砂糖砂地の上。あちこちに置かれた『貝殻風クマちゃんキャンディランプ』が、温泉の湯気を幻想的にふわふわと照らしている。
「クマちゃ……」
何でも知っている建築デザイナークマちゃんは、『あかりちゃ……』と仲間達に告げた。
クマちゃんが見本として『普通の温泉街にふさわしい菓子製のあかり』を空に浮かべます、という旨を『ちゃ』の多い喃語で。
いかにも余計なことを言いそうな男がスッと口を開きかけると、その背後で、カタログを振りかぶる空気の揺れを感じた。
――やや離れた場所では大鎌を持った男が冷気を漂わせている。
狙われていることを察したリオは、スッと口を閉じた。
ルークがクマちゃんを抱えたまま、カタログのページをぱらりとめくる。
ふんふん、ふんふん……。
建築デザイナークマちゃんが湿ったお鼻を鳴らす音がふんふんふんふんと闇夜に、匂いで何かを探す猫ちゃんのように響いた。
真っ白な子猫によく似たお手々がカタログから商品を厳選する。
深く頷いたクマちゃんは、清らかな肉球で目的の肉球ボタンをふに……と押した。
――クマちゃーん――。
――お買い上げちゃーん――。
曇りガラスのような、靄のかかったあかりが薄暗い夜空にふわりと浮かぶ。
丸いかさ。ひらひらゆれるリボンのような触手。
ふよん、ふよん、といまにも音が聞こえてきそうなその姿は、ゆらゆらと濃藍の海を漂うクラゲという風情だった。
見ているだけで海底気分を楽しめるステキなあかり。
商品名は『クマちゃんゼリーライトちゃん。ぷわぷわクラゲちゃん。モモ、ブドウ、ブルーハワイ』だ。
「めちゃくちゃ海っぽい」
リオはカタログを持ったまま腕組みをして、クラゲちゃんを見ながら頷いた。
商品名を見ても分からぬものが多いが、クマちゃんが選んだものに間違いはない。
色の名前は勘でいけるだろう。
「泳いでいるクラゲを見たのは初めてだけれど、とても可愛らしくみえるね」
「ああ」
ウィルの言葉にルークが相槌を打つ。それを横で聞いていた余計なことを言いがちな男リオは思った。
いまの『ああ』は『可愛らしいクラゲだね』に対する『ああ』ではない。
『泳いでいるクラゲが可愛いのは、可愛らしいクマちゃんが作った可愛らしい商品がいっぱい載っている素晴らしいカタログから、可愛いクマちゃんが可愛らしい肉球で――クマちゃーん――とお買い物をしてくれたおかげだね』に対する『ああ』である。
やはりこの世の可愛いのすべては『可愛いクマちゃん』と『可愛いクマちゃんの肉球』を中心に回っているのだ――。
言えばすぐさま無駄に色気のある『ああ』と一生に一度見られるかどうかというほど珍しい『常に無表情なルーク様の意味ありげで麗しく色気溢るる笑み』が拝めるに違いない非常にぶっ飛んだその論理を、リオが口にすることはなかった。
わざわざ確かめずとも彼の前でクマちゃんを褒めればどうなるかなど、はなから分かっているからである。
可愛いの権化クマちゃんはそのあとも肉球でふに……とカタログを使ってお買い物をした。
『クマちゃんゼリーライトちゃん。ぷわぷわメンダコちゃん。トマト』
『クマちゃんゼリーライトちゃん。スイスイウミガメちゃん。レモン、ミルク、メロン』
『クマちゃんゼリーライトちゃん。カラフル熱帯魚ちゃんセット。ソーダ、メロン、イチゴ、マンゴー、レモン、ナシ、モモ、オレンジ、ブルーハワイ、ブドウ』
『クマちゃんグミライトちゃん。クマノミちゃん。マンゴー、オレンジ、ミルク、ビターチョコ』
それらのアイテムはそれなりに長くなってきた『貝殻風メレンゲクッキーとミルクソーダの温泉ちゃん』でつくられた道やその周辺に「クマちゃ……」と浮かべられた。
そうしてやわらかな光を放ちながら、ぽよん……ぽよん……、スィー――スィー――、キラキラ――、キラキラ――と、まるでここが本物の海中であるかのように優雅に泳ぎ始めた。
あまりの美しさと現実感のなさに、果て無き海のなかで揺蕩う生き物達と共に泳ぐ夢を見ている気分になる。リオはふたたびぼーっとしながら足元でぱちゃぱちゃしているもこもこ妖精達へ視線をやった。
「めっちゃぱちゃぱちゃしてるし……」
「……永遠に眺めていられるほど美しい光景だね……。でも、クマちゃんばかり働かせるわけにはいかないからね。僕たちもこの場に見合うアイテムを探さないと」
「あ~……そうだな。さて……何から置くか」
大人達がサンゴのライトや湯に浮かべる真珠貝などでベビーブルーの温泉道を彩っている間に、何でも知っている建築デザイナークマちゃんは建物のほうに取り掛かっていた。
――クマちゃーん――。
――お買い上げちゃーん――。
と購入され、道沿いにぴたりと設置された建築物は、自国、他国、菓子の国、絵画、大人達がどの記憶をさらっても一度も見たことがないような、とにかく豪華絢爛で色鮮やかな姿だった。
ずらりと並ぶ朱塗りの柱に金の装飾。特徴的な青磁の屋根を見上げ、リオが瞬く。
「なにこれ」
『柱めっちゃ赤いじゃん……』と考えている間にも、足元からはぱちゃぱちゃと水音が聞こえ、あでやかな熱帯魚が目の前を横切る。
「……僕はここまで鮮やかな色合いの建物を見たのは初めてなのだけれど、赤い柱というのはこんなにも美しいものなんだね。他の冒険者達も感動するのではないかな」
ふんふん、ふんふん……。
「クマちゃーん」
『クマちゃんねりきり、クマちゃんらくがん、金箔クマちゃんようかんちゃんをふんだんに使用。和菓ちハウチュ』という超高級な商品の豪華さに、もこもこした建築デザイナーが喜びの歌声を響かせる。
そうして「クマちゃ、クマちゃ」と忙しそうに、長く連なる建物から湯の中へと『クマちゃんねりきり、金箔クマちゃんようかんちゃんをふんだんに使用。和菓ちたいこばしちゃん』をかけていった。
リオは薄目を開きパララララ――とカタログに目を通し、シュッ――! と早急に閉じた。
見たことも聞いたこともない食材だらけなだけでなく『金』の文字が見えたからだ。
『ふんだんに使用』が視界の端にチラついたが、『ぜんぶ気のせいだよね……』と『心の海底』へまとめてしずめた。
「クマちゃ、クマちゃ、クマちゃ、クマちゃ……」
『お部屋ちゃ、いっぱいちゃ、温泉ちゃ、設備ちゃ……』
それでは、この中にも温泉ちゃんをちゅくりましょう。お部屋がたくちゃんなので色々なお色の温泉ちゃんがちゅくれますね……。
「へー。色々やばいねぇ。でもさぁ、クマちゃんはぁ、そろそろ寝る時間じゃないかなぁ」
リオはクマちゃんのもこもこもこもこ動いているお口のもこもこっぷりを眺めつつ、明らかに赤ん坊の話を聞いていない大人のような態度で、『今日はもう寝ろ』と告げた。
――クマちゃーん――。
――お買い上げちゃーん――。
かすれた風のささやきは運悪く、愛らしい音声にかき消された。
「クマちゃ、クマちゃ、クマちゃ、クマちゃ、クマちゃ、クマちゃ……」
『温泉ちゃ、いっぱいちゃ、リラックチュちゃ、まったりちゃ、エチュテちゃ、妖精ちゃ……』
そうして、もこもこの『ちゃ』と『ちゅ』の多い温泉計画は美しくじわじわと進み、完成まであとどのくらいなのかも分からぬまま、大人達は終わりなき「クマちゃ」に耳を傾けるのであった。
――へー。凄いねぇ。でもさぁ、クマちゃんはぁ、そろそろ寝る時間じゃないかなぁ……――。
――クマちゃ、クマちゃ、クマちゃ、クマちゃ……――。