第1話 クマちゃんそれ転生しちゃったんじゃないの?
眠りからクマちゃ……と覚めた生き物は、迷子の猫のような顔で、辺りを見回した。
すると、すぐそばに真っ白でハッとするほど可愛らしい、クマのぬいぐるみがあった。
白くて可愛い。
とても気になる。
生き物は、ふわふわなそれに近付いてみた。
何故か、ぬいぐるみがヨチヨチと歩き、こちらへ向かってくる。
いや、違う。
超一流の猫並みに足音がしないあんよがヨチ……と止まる。
フンフン……とお鼻を鳴らす。
濡れた部分にひやりと空気があたる。
最高に健康な猫のようなそれに、はっと口を開けた。
ふわふわな被毛で、やけにもこもこしている口を。
そして理解する。
これは、鏡だ、と。
大変だ。白くてもこもこしている。
生き物は動揺を隠し、震える肉球を舐めた。
猫そのものといったお手々を添えた口元から、まさか動物の鳴き声、もしや赤ちゃん? といった、愛らしい声が漏れる。
「クマちゃん……」
だが動揺するもこもこには聞こえなかった。
自分はこんなに、可愛らしく、もこもこしていただろうか。
生き物改めもこもこは、うむ、と考えこんだ。
昨日までの白さと、ふわふわについて。
目をキリッと吊り上げ、鼻の上にきゅっとシワを寄せる。
己の記憶を引き出そうと、減りゆく注意資源を過度に浪費する。
しかし、何一つ思い出せそうにない。
過去の自分を可及的速やかに諦め、じっと鏡を見る。
中毛種の猫のごとく美しい毛並み。
ふわふわなお耳の丸さが、クマのぬいぐるみっぽさを醸している。
身長は分からない。
頭身は、二・五頭身くらいに見える。
黒いビー玉のような、ツヤツヤうるうるな瞳。
ピチョッと濡れた、黒い小さなお鼻。
口の長さは、猫と同じくらいだろうか。
若干頭がおおきいような。
いや、よく見ると最高のバランスで、総合的に可愛らしい。
性別は――、わからなくても問題ない。
もこもこが、自分の美貌に満足していたときだった。
目の前の鏡の一部が、不思議な力と共に弱々しくゆらめいた。
ふわり。
ぬいぐるみの頭上に〈クマちゃんLv.1〉という文字が、『ご一読ください』とでもいうかのように浮かび上がってくる。
ドキッとして丸い手先をぎゅ、とかむ。
体が、もこもこもこもこと震え、瞳がうるむ。
緊張でふたたび鼻が鳴る。
むずむずし、クシャミがプシッと頭を揺らす。
ドキドキが少し薄れる。
もこもこは心の中で、クマちゃん、と呟いた。
ハッと、口元に肉球を添え、クマちゃん……、と。
もこもこ改めクマちゃんは、可愛い自分にぴったりの名前に納得し、うむ、と深く頷いた。
名前の横の小さな数字は、クマちゃんの琴線にはふれなかった。
知らない場所の匂いが気になるクマちゃんが、室内の探索を始める。
つぶらな瞳に、白を基調とした落ち着きのある部屋の様子が映る。
もこもこな体にぴったりの、大きさも高さも丁度いい木製の家具。
木枠にガラスが塡められた、自然でお洒落なテーブル。
その上に置かれている、意味ありげに、三つ並んだ鉢植え。
しかし、クマちゃんは植物には詳しくなかった。
窓から外を見ようとしたが、窓の外に絡んでいる蔦と葉が邪魔でよく見えない。
そうすると、だんだん隙間からかすかに見える、木の実や花が気になってくる。
一度何かが気になると、それしか見えなくなってしまうクマちゃんは、室内を調べようと思ったことなど忘れ、猫手でむに……とドアを開いた。
温度の高い肉球が、真鍮でほんのり冷まされ、すぐに戻る。
湿ったお鼻に、濃密な緑の香りがふわっと届く。
優しい風が吹き、心地好い葉擦れの音が、ふわふわな耳をくすぐる。
家の外には木漏れ日が美しい、穏やかな森が広がっていた。
お外の匂いがもこもこの煩悩を刺激する。
クマちゃんはハッとした。
素晴らしいことを思いついたのだ。
そうだ、おいしい木の実を探そう。
◇
ドアの隙間をぬるりとすり抜けたもこもこは、さっそく素晴らしい計画を実行するため、安全確認せずにクマちゃ……と家を出た。
その時。
ドアに填まった細長い何かが、まるで何かが起こる前兆のように、キラリと光った。
短いあんよがヨチヨチ……と草を踏む。
もこもこの背に、カッ! と光が当たり、逆光となる。
刹那、誰かの白い家が、音も立てずに消えた。
おいしい木の実の発見数、ゼロ。
消えた家、一戸。
素晴らしい計画が、早くも暗礁に乗り上げる。
しかし、直後事件に巻き込まれてしまった憐れなクマちゃんが、背後で起きた家屋消失事件に気付くことはなかった。