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第113話 「何か今――て聞こえなかった?」

 マスターの腕に抱かれたクマちゃんは、いつかの彼の言葉通り、願い事を告げた。


「クマちゃーん」と。



 悩み多き酒場の冒険者達は、クマちゃんのもこもこ人生相談のおかげで、無事、幸せを手に入れることができた。

 彼らの中には涙を流し、クマちゃんの(とりこ)になってしまった者達もいた。


「クマちゃん……ありがとぉ……お手々、撫でても良い?」

「クマちゃんの肉球見てたら、悩みなんてなくなったよ……もう一回、見ても良い?」

「また、お願いしますクマちゃん……あの、ちょっとだけ肉球触らせて下さい!」

「クマちゃん……あの、握手して下さい」


 彼らはそういって、お手々の先まで魅力的なクマちゃんに詰め寄った。

 心優しいクマちゃんは、そんな彼らにそっと、もこもこハートを渡した。

 すると、彼らは当然のように興奮し、雄叫びをあげた。が、すぐにやってきた森の魔王様が、最高に愛らしいもこもこを連れ去ってしまった。


 ――クマちゃんの本日の業務は、ここで終了である。



 もこもこを連れたルーク達は、そのまま部屋へ戻ろうと思っていた。

 しかし、綺麗好きなもこもこは、お仕事で乱れた(かもしれない)毛並みが気になったらしい。

 よく考えずとも風呂に入りすぎな彼らだったが、懲りずにふたたび露天風呂へと向かった。


「星空を眺めながらクマちゃんと入るお風呂も素敵だね」と派手な男は言った。

 森の魔王は色気の強い声で、「ああ」と短い相槌を打った。


 湯気の立つ温泉に、ぴちゃん、と水滴が落ち、ゆったりと、心地よい時間が流れた。


 そんなふうに、ふたりが穏やかに愛らしいもこもこを甘やかしているあいだ、「皮膚はげそう」と余計なことを言った金髪だけが、死角から氷の礫を受け、穏やかではない時間を過ごしていた。



「じゃあ部屋戻って寝る準備しよー」


 と、冷え切った体を露天風呂で温めた男は言った。

 ルークの着替え中、まだ湿っているもこもこを抱えた彼はご満悦であった。


 抱えられたもこもこも、クマちゃん専用高級石鹸の香りに包まれ、ご機嫌のようだ。

 湯上りのクマちゃんが、ふんふんふんふん……と湿ったお鼻を鳴らす。

 幼く愛らしい声で、「クマちゃん、クマちゃん」と、彼に返事をする


『クマちゃん、マスター』と。


 なんと、忙しいもこもこは、この期に及んでまだやることがあるらしい。


「……クマちゃんそれ明日にした方がいいと思うんだけど」


 さぁ今から寝よう、という時にまでマスターに会いたくない。

 リオは、別に今でなくても――というニュアンスでもこもこに言った。


 しかし、彼のはっきりしない言葉はもこもこには通用しなかった。

 本当に断りたい時は『クマちゃん、駄目ですよ』と言う必要があるのだ。


 リオの言葉から『クマちゃんそれ――いいと思う』を聞き取った心優しきもこもこは、深く頷き、金髪に良いお返事をした。


「クマちゃん、クマちゃん」


 幼く愛らしい声で。


『リオちゃん、マスター』と。


「えぇ……」


 高性能なもこもこの耳にはいったい何が届いたのか。

 なにも知らないリオの口から、肯定的ではないかすれ声が漏れた。


 このもこもこは何故、明日にした方が良いと言った彼を誘うのか。

 しかしリオは見てしまったのだ。

 腕の中から彼を見上げる、湿っぽいもこもこの、何も考えてなさそうな、そして彼が断るとは微塵も思っていないであろう、曇りなき、つぶらな瞳を。


 ――可愛いクマちゃんの可愛いお誘いを断ることは出来ない。

 風呂から出たばかりのリオは、ふたたび仕事場へ戻ることになった。



 猫顔なクマ太陽が、可愛い声でニャーと鳴いている。


 森に冒険者が居なくなったせいで、湖に戻ってきたようだ。

 彼らは夜の花畑でくつろぐ者達のさざめきと、クマ太陽のニャーを聞きながら、クマちゃんがふわふわに乾くのをのんびりと待っていた。


 森の魔王のような、端正な容貌の男の膝には、もこもこした生き物が仰向けで寝転がっていた。もこもこは肉球ひとつ動かさず、されるがまま、じっとしている。

 そんな堕落したクマちゃんを、彼が魔法で起こした適温の風が、そよそよと、優しく包み込む。

 クマちゃん専用ブラシを持ったルークの大きな手が、ぐんにゃりとしたもこもこの上で、スッと動いた。

 真っ白な被毛の輝きは、彼がそうするたびに増していった。


 スッスッスッ――。と、規則的に専用ブラシが動く。

 チャッチャッチャッ――。と、もこもこの舌も同時に動いた。


 目撃者リオは言った。


「いやクマちゃん何もしてないでしょ」と。


 しかしその瞬間、シュッ――! とどこからともなく氷が飛んでくる。

 リオは流れるような動きで「冷たっ!」とそれを掴むと、何事もなかったかのように花畑に放った。


 自分で毛繕いをしているつもりになっているもこもこの舌の動きについて言及することは、絶対にしてはならないことなのである。



 四人と一匹とお兄さんとゴリラちゃんは、立入禁止区画を抜け、奥の部屋に到着した。もこもこの希望通り、マスターに会いにきたのだ。


 部屋に到着したクマちゃんが、ルークの腕の中からマスターの方へと、短いお手々を伸ばしている。

 その愛らしい仕草に気付くと、マスターは仕事をすぐに中断した。


「ん? どうした? 何かあったのか?」


 彼は椅子から立ち上がると、優しくもこもこを受け取った。


「お前はもう寝る時間だろ」


 渋い男はそう言って、もこもこを擽るように撫でながら「ふわふわだな」と甘やかすように笑った。


「偽物のマスターじゃん」


 リオはかすれ気味の声で余計なことを言った。

 そしてついでのように「何かクマちゃんマスターに話あるらしいよ」と本題を伝える。


「……欲しい物でもあるのか?」


 大人なマスターはクソガキの言葉をさらっと流した。

 腕の中の手触りがよすぎるもこもこを撫でながら、優しく尋ねる。


 ほぼ同時に、自由に羽ばたく鳥のような男が、許可なく天井の赤ちゃん用オルゴールを鳴らす。「おや、マスター。オルゴールが止まっているね」と。



 ――生粋の赤ちゃんなクマちゃんは、もこもこした手の先をくわえ、つぶらな瞳で天井を見上げていた。

 素敵な赤ちゃん用オルゴールとマスターの優しい手が、もこもこした赤子を心地好い眠りへと(いざな)う。


 しかし、もこもこは見事、誘惑に打ち勝った。

 ハッとしたように肉球をペロペロし、心を落ち着ける。


 クマちゃんは幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言った。

『クマちゃん、あれ欲しい』と。

   

 クマちゃんはマスターに優しく撫でてもらいながら、ずっと考えていたのだ。


『お前が何か必要になったら――』という約束のことを。

 生徒会長と文通をすることになったクマちゃんが必要になったのは、お手紙を書くためのあれである。


 便箋と封筒。


 しかしクマちゃんには書きたいことがたくさんあった。

 そうなると、便箋もたくさん必要になる。

 クマちゃんはつぶらな瞳をうるうるさせた。

 マスターはクマちゃんのお願いを聞いてくれるだろうか、と。



 幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言われたマスターは、「ん? 何が欲しいんだ?」と甘い口調で聞き返した。もこもこがお願いしやすいように。


「マスターその声どうやって出してんの?」と金髪がふたたび余計なことを言ったが、これも当然流された。


 マスターの腕の中のクマちゃんは、両手の肉球をもこもこの口元に当てていた。

 幼く愛らしい声が「クマちゃん、クマちゃん」と言う。


『クマちゃん、お手紙の欲しい』と。


 それを聞いてようやく、リオはクマちゃんの行動の意味を理解した。だからマスターに会いたかったのか、と。


 そして「あー、クマちゃん文通するんだっけ。あの監禁――」と納得している途中で、不自然に言葉を切った。


 ルークから鋭すぎる視線を向けられたためだ。

 ――赤ちゃんクマちゃんのもこもこしたお耳に入れるには、不適切な発言であると判断されたらしい。


 マスターは器用に片眉を上げると、独り言のように呟いた。

 

「文通? ああ……学園がどうとか言ってたアレか……」


 午前中に起こったクマちゃん入学事件と謎の学園での出来事については、少しだけルーク達から聞いていた。

『監禁』という穏やかではない言葉が気になるが、本当に危険な人物ならルークが近付けないだろう。


「便箋が欲しいのか。どのくらいあればいい?」とマスターは尋ねた。 


 もこもこが、腕の中で彼を見上げている。肉球が付いたもこもこの両手をもふっとした口元に当てる仕草に、彼の頬が思わず緩んだ。


 可愛い可愛いクマちゃんは言った。

 いつもと同じように、幼く愛らしい声で。


「クマちゃん、クマちゃん」


『便箋、百万』と。


 

 一瞬妙な間をあけて、マスターは「……ん? ああ、『百枚』な」と答えた。


「クマちゃん、クマちゃん」と愛くるしいもこもこがしつこく繰り返す。

 腕の中から可愛い声が聞こえる。


 ――百万、百万――百万、百万――。


「何か今百万て聞こえなかった?」とリオはウィルに尋ねた。


 ――百万、百万――百万、百万――。


 訊かれたウィルは「リオ、百万通も手紙を書いたらクマちゃんの肉球が痛くなってしまうよ」とファンタジックな発言をするリオを冷めた目で見た。


 室内に響く、もこもこの無限『百万』コール。


 天井の赤ちゃん用オルゴールと共に「クマちゃーん」と『ひゃくまーん』が交互に聞こえている。


 マスターは優しくクマちゃんを撫でると、「すぐに持ってくるから待ってろ」と言って、もこもこをルークの腕の中へ戻した。


 このときクマちゃんは、まるでカーテンから離れない猫のように、マスターの白いシャツにニョキッと出した爪を立て、抵抗を示していた。

 が、残念ながら癒す力しか持たないもこもこの爪の先は丸かった。

 クマちゃん最大の攻撃はシャツの上をスルリと滑り、もこもこは何の問題もなくルークの腕の中におさまってしまった。


 マスターはそのまま、ギルド職員達のいる隣の部屋へと消えた。


「…………」


 森の魔王のような男は「クマちゃーん」と響くそれに応えず、愛らしいもこもこの頭を長い指で擽った。


 お兄さんは、もこもこがこねる駄々に何故か慣れた態度であった。

 彼は冷静で威厳のある主婦のように、腕を組んだまま、静かに瞳を閉じていた。


 室内には変わらず「クマちゃーん」が響いている。


『ひゃくまーん』が。


 クマちゃんのスポンサーである男は、もこもこの願いを叶えられない自分を不甲斐なく思い「――すまない」と苦し気に呟いた。

 ――冬の支配者が文房具屋を支配する日も遠くない。



 ひとまず鳴きやんだクマちゃんは、小さな黒い湿った鼻の上に皺を寄せ、一心不乱にピンク色の肉球をかじっていた。


「クマちゃんまた肉球かじってるし」


 リオはルークの腕の中にいるもこもこのお手々を撫でた。

 しかしクマちゃんはご機嫌があまりよろしくないらしい。


 可愛いもこもこに〈きらいなにおいを嗅いだ時の猫の顔〉を向けられ若干傷付いた彼は、不貞腐れた表情で呟いた。

 

「クマちゃんマジでその顔やめて」


 その直後、隣の部屋からマスターが戻って来た。


「――悪いな。今日はこれしか無かった」と小さなパンを一つしか買えなかった父親のようなことを言いながら。


 渋い声の彼は、愛らしいもこもこをあやすように何度も撫でると、若干己の首をしめるような、ついでに他の人間も巻き込むような約束をした。


「明日買って来させるから、昼を過ぎたら、また取りに来い」と。



『明日買って――』という素晴らしい誓いを聞いたクマちゃんのもこもこの耳が、ピクリと動いた。

 もこもこした口元からスッと、赤みの増した肉球が放れる。

 同時に小さな黒い湿った鼻の上の皺も消え、いつも通り、愛らしい顔に戻っていた。


 大人しい猫のようなもこもこは、まるで最初からそうであったかのように、ルークの腕の中でゆっくりと頷いた。


 ――どうやら分割払いも可、のようだ。



 粘り強いにもほどがある交渉の結果、便箋五十枚、封筒二十枚という、どう考えても只人の手には余る物品を入手したクマちゃんは、ルーク達と共に、騒ぐことなく静かに立入禁止区画を後にした。

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