第05話 幻惑の犬・犬塚信乃!
「貴様! 村雨をどうするつもりだ!!」
気色ばむ山下に、犬塚信乃は笑みを浮かべたまま艶めかしい口調で答える。
「盗賊にそれを聞いてどうするのよ? おバカさんねぇ」
「きっ貴様ぁ!!」
侮辱と受け止めた山下が発作的に発砲した銃弾を、鞭を回転させて弾いた犬塚は、犬川に向かって釘を刺す。
「犬川! 中池は殺すな! これは命令よ!」
「チッ、うっせぇな、分かってんよ! でもよぉ、中池以外ならいいんだろ?」
犬川の視線が山下を捉え、恐怖が張り付いた山下の顔が絶望に歪む。
「ま、待て、話せば分かる」
「へっ、俺はケダモノなんだろう? ケダモノと話すのか?」
「あ、あれは殿が言った事だ!」
「知った事かっ!」
血に飢えた獣の様な咆哮と共に山下に襲い掛かった犬川の爪が、寸前で音を立てて阻まれた。
虚を突かれて飛びのいた犬川の前に、数人の黒ずくめの男達が音もなく現れ、抜刀して構えている。
「おぉっ、半蔵! 来ておったのか!」
「はっ、殿! お怪我はございませぬか?」
「おぉよ! 半蔵! その者どもひっ捕らえい!!」
「はっ!!」
思わぬ援軍に生気を取り戻した中池の号令で、黒ずくめの集団が犬川を取り囲む。
犬塚の方に目をやると、そちらも数人の黒ずくめの男に取り囲まれていた。
「犬塚ぁ、こいつらもやっちまっていいんだろ?」
「待て、犬川、こいつらは服部組よ、しかも半蔵まで出張っているとなれば一筋縄ではいかないわ、今日の所はひとまずお預けね」
目の前の刃も気にせずに呑気ともいえる会話をする二人に、半蔵が苛立ちの言葉を投げる。
「うぬら、逃げ切れると思うておるのか?」
「お前ら、捕らえられると思ってるのか?」
バカにしたような犬川の返答に、半蔵が一歩間を詰めた瞬間。
「あっ!」
何かに気付いた半蔵が慌てて鼻と口を手で覆って犬川の前から飛びのき、犬塚の方を睨みつける。
半蔵の視線の先では、犬塚がゆっくりと頭上で鞭を回転させ、それと共に知事室がシャネルの№5の様な麝香の香りで満たされていく。
(いい香り……)
みどりは、桃源郷に迷い込んだかの様な感覚に襲われたが、すぐさまガラスの割れる轟音に目を覚ます。
音のした方を見ると、いつの間にか犬塚信乃と犬川壮助が窓枠の上に立ち、こちらに不敵な笑みを浮かべていた。
もちろん、犬塚の手には宝刀・村雨が握られたままだ。
(幻惑の犬……)
犬塚の通り名を思い出し戦慄するみどりなどお構いなしに、二人はおどけたように敬礼すると、嘲笑う様な言葉を残して窓の外へ姿を消した。
「じゃあな、殿さん」
その場に居た者たちは、しばらくの間呆気に取られてたちすくんでいたが、山下が思い出した様に声を上げる。
「あっ! 彼奴ら、村雨を!」
慌てふためく山下に中池が声をかける。
「良いのじゃ、山下、そう言えばそなたには申しておらんかったのぉ」
「はい?」
「あそこに飾っておった村雨は偽物じゃ、本物は猫塚信乃が護っておる! 彼奴ら、偽物を嬉しそうに持って行きおったわ」
命乞いの醜態などなかった様に荒ぶる中池に、半蔵が声をかけた。
「殿……」
「おぉ、半蔵、よくぞ来てくれた! 彼奴らよもやここにまで侵入してくるとは思わなんだぞ、服部組は諜報局の全人員をわらわと猫塚の警護に充てるのじゃ!」
「殿……、実はその事でお耳に入れたき事が」
半蔵は、部外者感を丸出しにへたり込んでいるみどりに目を向けて口ごもる。
「そ奴はもはや当事者じゃ、気にするでない、申してみよ」
「はっ! 実は猫塚信乃めが出奔致してござる」
「な、な、なんじゃと!?」
中池は力なくその場に崩れ落ちた。
次回・消えた宝刀・村雨!