第九夜 鋼鉄の針 -6-
夜が去り、朝が訪れます。
はて、本当に? 長い身の上話と食事を終えてから、すぐに寝ついたのは覚えているのですが、陽射しも気温の変化もない洞窟の中では、どれくらいの時間眠ったのか、いまひとつよく分かりません。
すぐ近くでは、ネイネイが温泉に足を浸しながら、気持ちよさそうに目を閉じ、小さな声で歌を口ずさんでいました。
「鉱夫はどうやって時間を知るんだろう」
起き出してきたラーシュに、タルナールは尋ねてみます。
「浅い場所だと鐘を鳴らして知らせるんだけどな。このあたりまで来ると、腹具合で判断するしかない。時間の感覚が狂うせいで、外に戻ってもなかなか眠れなかったり、体調を崩したりするヤツは多いよ。
それだけじゃなくて、陽に当たらないから肌は白くなるし、光を浴びないから気分がふさぐってヤツもいる。だから〈病人街〉なんて名前がつくのさ。……そういえばタル、マヌーカから飴は貰ったのか?」
「飴?」と、タルナールは眉をひそめます。
「〈魔宮〉の空気で喉を傷めるヤツもいるから、予防に飴を舐めるんだ」
ラーシュは小袋から柘榴の実に似た丸い粒を取り出し、タルナールの掌に載せました。勧められるまま口に含んでみると、なんともひどい味です。屍食鬼の目玉をしゃぶらされている気分だ、とティルナールは感想を述べました。
「俺も最初はひどい味だと思ったが、そのうち慣れる。噛むなよ。噛むと味が濃くなるからな」と、ラーシュは面白そうに言いました。「なにが入っていたんだったかな。羚羊の血と、樟脳と、カモミールと、蜂蜜と……」
鼻の頭に汗をかきながら、タルナールは舌でせっせと飴を溶かします。到底慣れるとは思えない味ですが、喉を守るためには仕方ありません。ラーシュからもう三つほど飴を貰い、持ち物に加えておきます。
「さて、お口直しに朝飯といこう」
ナツメヤシとチーズの食事を済ませ、熱い温泉で顔を洗った四人は、荷物を整理して行動を開始します。今回の探索ではそこまで深入りせず、途中で折り返してからもう一夜を明かし、〈病人街〉へ戻る予定となっていました。
洞窟樹とネイネイの灯りで照らされた〈魔宮〉を、奥へ、奥へと進んでいきます。道は曲がりくねり、たびたび分岐していましたが、エトゥはわずかな手がかりや痕跡から、しっかりと現在位置を把握しているようでした。
「俺たちの目的は、〈魔宮〉の最奥を極めることだ」
腹具合から判断して正午ごろ、昼食を摂りながらラーシュが言いました。
「もっと奥の方はどうなってるんだ?」と、タルナールは尋ねます。〈魔宮〉などという名前がついているからには、ただの洞窟で終わるはずがありません。
「遺跡があるの」と、ネイネイが答えます。「ここはただの鉱山じゃない。夜の獣の巣ってだけでもない。いまは忘れ去られた何者かが、遥か昔にこの場所を作った。それが誰なのか、なんのためなのかはまだ分からないけれど」
「そういうことだ」と、ラーシュが引き継ぎます。「最奥はまだ遠い。色々と障害もあるしな。まあ、そのうち見ることになるさ……」
そして一行が昼食を終え、そろそろ〈病人街〉へ引き返そうかという地点まで進んだとき、前方にずっしりとわだかまる闇から、腐った肉のにおいが流れてきました。
「夜の獣と、それから死体」と、エトゥが低い声で呟きました。ネイネイがすんと鼻を鳴らし、不快そうに顔を歪めます。
ここで引き返すという選択肢も採れなくはありませんが、懐が温かいに越したことはありません。四人は各々の武器を構え、夜の獣と対峙すべく、足音を忍ばせながら慎重に前進します。動いている気配はふたつ。ぐちゃぐちゃ、ぴちゃぴちゃと咀嚼するような音がわずかに聞こえてきます。
やがて見えたのは、異様に腕の長い、大猿に似た毛むくじゃらの獣でした。
昨日遭遇した個体とは似ていない部分もありますが、この獣もまた、艶のない黒々とした体毛、いやらしく光る赤い目、そして地上の動物にあるまじき六本の手足を持っておりました。おそらく、それらは夜の獣すべてに共通する特徴なのでしょう。
二匹の大猿は、人間の遺体らしきものから腐った肉をむしりとり、がつがつと口に運んでいるところでした。
おお、伝承に棲まう屍食鬼より、なお厭わしいその姿!
一行がさらに近づいていくと、大猿たちはぴくりと動きをとめ、こちらに顔を向けたかと思うと、腐肉の挟まった牙を剥き出し、シュウウウ、という威嚇の声を漏らしました。
エトゥが素早く弓を引き絞りました。
そして正確な狙いとともに放たれた矢が、一匹の胴を貫きます。
射られた獣は甲高い叫び声をあげ、狂ったように身体を掻きむしりながら、身を翻して〈魔宮〉の奥へと逃げていきます。もう一匹も腐肉を手に持ったまま、やや名残惜しそうに死体を離れました。
「追うか」と、ラーシュが勢いこむのを、エトゥが制止します。
「待て。死体が気になる」
一行は周囲を警戒しつつ、ゆっくりと死体に近づきます。
果たしてそれは、腐敗し蛆の湧いた人間の遺体でした。冷涼な〈魔宮〉の環境を加味して考えると、死んでから六日か七日は経っているようです。
「ここの傷を見ろ」と、エトゥが死体の傍にしゃがみこみ、胸のあたりを指さします。そこには腐ったりむしられたりしたのとはまた別の、穴と言ってもいい大きな傷がありました。「さっきの獣がつけられる傷じゃない」
「昨日僕たちが狩った獣は? 立派な角があっただろう」と、タルナールは言いました。
「いや、高さも太さも足りない。よっぽど大きな個体なら別だが」と、エトゥは首を振りました。
そのとき、さきほどの大猿のものと思しき絶叫が、〈魔宮〉の奥から響いてきます。
「戻ってきたか?」と、ラーシュが長剣を手に死体を踏み越えます。
しかしなにか……なにかが変です。タルナールの胸を、言葉にできない不安がよぎりました。
次の瞬間、洞窟の地面が細かく振動し、小石がカタカタと音を立てはじめました。それと同調するように、爪で硬いものを削り取るような音も響いてきます。
「アイツだ」
タルナールの傍らに立つネイネイが、恐怖の滲んだ声で呟きました。
「アイツ?」と、タルナールは尋ねます。どうやら地震や落盤の類ではないようです。
「タル、説明はあとだ。走れ!」と、ラーシュが叫びます。そのただならぬ様子に、タルナールはさらなる問いを飲み込みました。踵を返し、死体を置き去り、今来たばかりの道を走ります。背後でふたたび獣の悲鳴が響きました。不穏な音と振動が急速に近づいてきます。
いったいなにがやってくるのか。タルナールは好奇心に駆られ、走りながら背後を振り返りました。
そこにいたのは巨大な夜の獣でした。タルナールはかつてダバラッドの辺境で目にした、犀という動物を思い出しました。しかし体躯はそれよりふた周りも大きく、顔つきは鼬に似ていて、うなじから背中にかけてが、無数の鋭い棘で覆われておりました。
その棘の一本一本まるで、残酷な領主が刑死者の見せしめに使う、長大な鉄串のようでした。六本ある肢のうち、前の二本には人間の腕よりも太い爪が生えており、獣はいま、その太い爪で地面をひっかくように走っているのです。
「このままだと捕まる」と、タルナールは喘ぐように言いました。ひとまず距離は詰められずにいますが、こちらの体力を考えると、そう長く逃げ続けることはできません。荷物をすべて捨てたところで、四半刻も稼げはしないでしょう。
「三人とも、先に行け」と、ラーシュが長剣の柄に手をかけながら、落ち着いた声で言います。「横穴に身を隠して、やり過ごすんだ」
「けど――」
あんなに巨大な獣を足止めするつもりでしょうか? タルナールは無茶を言うなと反対しかけましたが、エトゥがそれを制します。
「大丈夫だ。任せよう」
背後の獣を窺いつつ、ラーシュが速度を緩めます。タルナール、ネイネイ、エトゥはそのまま走り続け、充分に距離を稼いでから、横道の一つに飛び込みました。
そこはすぐ突き当たりになっていましたが、獣が入れない程度には狭く、三人が隠れられる程度には奥行きがありました。
荒い息を抑えながら、三人は硬い岩の地面に身を伏せます。獣の咆哮が響き、タルナールの鼓膜と地面を震わせました。次の瞬間にでもラーシュの悲鳴が聞こえてくるのではないかと思うと、気が気ではありません。
「奥にはあんな獣がいたのか」と、タルナールは途切れ途切れに言葉を吐き出します。
「アイツは特別だ。おれたちはブルズゥルクって呼んでる。ダバラッドの古い言葉で、鋼鉄の棘という意味だ」と、穴の外に音が漏れないよう、エトゥは声を潜めて言いました。「本当はもっと奥の方が縄張りなんだ。こんなところまでやってくるのは想定外だった。倒れてたヤツは、アイツを怒らせたのかもしれない」
「普段は深いところにいるとしても、ブルズゥルクがいるんじゃ、それ以上先に進めないじゃないか」と、タルナールは言いました。
「その通りだ。でもおれたちには考えが――」
言いかけたエトゥを制して、ネイネイが沈黙を促します。
獰猛な唸り声が近づいてきました。ブルズゥルクです。
たとえ身を隠していたとしても、臭いで感づかれるかもしれません。音に敏感かもしれません。動物の中には、温度で獲物を見つける種類のものもいると聞きます。
ひとたび場所を気取られれば、もう逃げることはできません。狭い穴の中、我慢比べのはじまりです。あるいは無理やりに掘り起こされ、ひとりずつ食べられてしまうのでしょうか。
タルナールが不穏な想像を膨らませている間に、ブルズゥルクが横穴のすぐそばまでやってきました。犠牲者の血や腐肉がこびりついた棘から、胸の悪くなるようなにおいが漂います。ブルズゥルクは短い首を巡らせ、背中の棘を震わせながら、あたりを嗅ぎ回りました。
タルナールは息を殺し、眼球の動きさえとめて、じっと巨獣の圧力に耐えます。
じっと、じっと。草葉に隠れるウサギのごとく。