エピローグ
夜と昼が幾度も巡りました。
バーラムの影が滅びたあと、アル・アモルがふたたび現れることはありませんでした。いまや未曾有の危機は去り、荒野には陽の光が戻りました。それでもアモルダートは黒く変じたまま、元の姿にはなりませんでした。硫黄とアモルの黒い結晶に覆われた市街は、ここで湧き出したおぞましい災厄の記憶を、遠く後世にまで伝えるでしょう。
〈病人街〉にある黒い大きな立方体は、かつて〈魔宮〉の入口として使われていましたが、もぐる者のなくなったあとも、碑として残されることが決まりました。
その一面には、金文字で次のような言葉が刻まれています。
〈かつてこの地には賑やかな街があった。災厄が湧き出したとき、大勢の民が死に、多くの戦士たちが斃れた。彼らが味わった悲しみを忘れないよう、ここに碑を残す〉
また別の一面には、次のような言葉が刻まれています。
〈かつてこの地にはバーラムという者がいた。彼は長らく秘されていたものを見出し、街を造り、夢に呑まれ、災厄を招く門となった。しかし彼を責めることができるのは、己の夢と欲望を意のままにできる者だけである〉
また別の一面には、次のような言葉が刻まれています。
〈かつてこの地にはエルという者がいた。彼女は放浪し、王となり、罪を犯し、のちにそれを償った。この碑が風で削られ、砂になる日が来ようとも、エルの名が再び忘れ去られることはない〉
*
さて、タルナールたちがアル・アモルと戦っていたとき、アモルダートの北で繰り広げられていた戦いについても、その顛末を語っておかなければなりません。
準備万端でウシャルファを発った一万三千の軍勢。彼らを待ち受けていたのは、一万に及ぶ夜の獣たちでした。睨みあう間もあらばこそ、両軍は真正面から衝突します。手始めに数千本の矢が降り注いだかと思えば、騎兵の槍が煌めき、歩兵が手にした剣や槌矛が唸りをあげました。
馬のいななき、勇ましい鬨の声、炸裂する魔術、身の毛もよだつ咆哮。流れ出した血潮は池となり、敵味方の屍が木の葉の如く層を成しました。それは死の御使いさえも眉をひそめるような、凄惨極まりない光景でありました。
戦闘は苛烈を極めました。しかしながら、兵士たちは決して退きませんでした。頑強に陣形を維持し、無限とも思える獣を相手に、一丸となって立ち向かいました。指揮官たちは部隊の先頭に立ち、危険を冒しながらも味方を鼓舞しました。
やがてタルナールたちの手によってアル・アモルが滅びると、状況に劇的な変化がありました。それまで統制の取れていた獣たちが、突如として算を乱し、あるいは不自然な麻痺に陥ったのです。人間側はこれを好機として猛烈に攻めかかり、ついには夜の獣を全滅に追いやったのでした。
勝利を収めた兵士たちですが、そのほとんどが満身創痍、疲労困憊の有様でした。しかしルアフが飛んでくるのを見て、エルをはじめとしたごく少数の部隊が、タルナールたちの救援に向かいました。残った者たちもじきに気力を奮い起こし、死者や負傷者の収容に当たりました。
最終的に、会戦での死者は三千五百を数えました。自分の脚で帰路につけるほどの余力があった者はごく少数で、多くはあとから来た部隊に回収されて、なんとかウシャルファまで戻ることになりました。
戦場に残された獣たちの骸からは、大量のアモル石が採れました。先だってウシャルファに押し寄せた獣の分と合わせれば、これまでにアモルダートからもたらされた量の、実に十倍はあろうかというほどになりました。
これにより、アモル銀やアモル鋼の価格は急落しました。元々は金の何倍という値で取引されていた品物が、いまやずっと安価で購えるようになったのです。とはいえ、アモル銀の美しさや、アモル鋼の強靭さが損なわれたわけではありません。最終的には銀と同程度まで価値が下落したあたりで、ひとまず安定と相成りました。
シャルカンは採れたアモルを公平に三等分し、被害のあったウシャルファの街、ケッセルのジェディア姫、シーカのキンク・ギルザルトに分け与えました。もちろん、アモルの精錬や冶金の方法も公開されました。ただしアモルダートに残った黒い結晶だけは、錬金術師や鍛冶師たちがどんなに知恵を絞っても、精錬はおろか粉砕することもできませんでした。
ジェディアとキンクの両名はシャルカンと幾度か会談を持ち、相互が平和的な関係を続けるための段取りを長々と話しあったようです。それでも半月ほどすると、彼女らはそれぞれの手勢を率いて、自国への帰路につきました。
その数日後、シャルカンもまた首都へと帰っていきました。寛いだ様子で駱駝に乗る守護者の傍には、大臣であるアズバァイルのほか、マヌーカの姿もありました。彼女はカリーム太子暗殺の罪を赦され、ふたたび宮仕えの身になったのです。そしてマヌーカ、もといザク=ワクのうしろには、ハアルとアミナの姿もありました。
ジャフディはというと、早々に次の稼業を見つけました。彼は物好きな旅人たちを相手に、ウシャルファからアモルダートまでの案内人をはじめたのです。災厄を間近で見た数少ないひとりとして、当時の情景を迫真の口調で語り、たっぷりと銀貨をせしめようという腹積もりなのでしょう。
こうして人々は新しい生活へと移り、あるいは元の暮らしへと戻っていきました。
いまだ傷の癒えない者も、ゆっくりと、少しずつ、日常を思い出しつつありました。
*
そして、戦いからひと月が経ちました。
前日、明け方近くまで起きていたタルナールは、午前も遅い時間に目を覚ましました。窓の外からは幼子の甲高い声と、犬の吠え声がやかましく響いてきています。
何度もあくびをしながら一階の酒場におり、もはやすっかり馴染みの味となった店主の煮込みを食べてから、タルナールはリュートを携えて外へと出ていきました。
街はまだ復興の途上ですが、人々の表情は、もうすっかり落ち着いておりました。どんな狂騒も、災厄も、過ぎてしまえば静かなものです。いや、あるいはこれこそが、人間という種族が持つ強さなのかもしれません。
タルナールが北に足を向けたとき、少し離れた場所からこちらを窺う、小柄な人影が目に入りました。身に纏う亜麻色の長衣には覆いがついていて、顔を窺うことはできません。しかしタルナールには、それが誰だかすぐに分かりました。
「お出かけですか?」
「エルか。相変わらず、みんなが君を捜してるぞ」
「そうでしょうね。申し訳ないですが、私が大勢の前に出ることは――」
「うん、分かってる。君が静かに暮らすのを邪魔する権利は、誰にもない」
エルは〈病人街〉で倒れ伏すタルナールたちを治療し、兵士たちに引き渡したあとで、いつのまにか姿を消していました。
その七日後、ふらりと酒場に現れたエルは、しばらく〈魔宮〉の奥底にある石彫都市で暮らすことにした、と語りました。彼女はトゥーキーたちの隣人として、彼らの生活を便利にするため、出しゃばり過ぎない程度に世話を焼くつもりのようでした。
それからまた長い間、エルは姿を消していました。しかしは居場所は分かっておりましたので、タルナールが彼女の心配をすることはありませんでした。
「約束は忘れてないよ」
晴天の下、ウシャルファの入り組んだ街路を歩きながら、タルナールは言いました。
約束とは言わずもがな、エルが七百年前にザラッドと繰り広げた冒険や、古ダバラッド建国の逸話などを、人々に伝えるための物語を作るというものです。
「僕たちの話は大体形になったから、そろそろエルのためにまとまった時間が取れると思う。場所はどこにしようか? 連れて行ってくれるなら、トゥーキーたちのところでもいい」
「あなたが楽な場所で」と、エルは言いました。「なにせ量が多いものですから。七日七晩で語り尽くせれば早い方でしょう」
彼女の遍歴からすれば、あながち冗談とも思えません。これは相当に覚悟しておかなければ、とタルナールは苦笑しました。内容をまとめる作業でさらにひと月。あるいはより長い時間がかかるかもしれません。もうしばらくの間、ウシャルファに腰を据える必要がありそうです。
もっと先の話をしておくと、タルナールはしっかりとこの仕事をやり遂げました。それは〈エルの遍歴〉という名前の物語として残っています。しかしいかんせん長大な叙事詩ですので、物語の内容について、いまは詳しく触れずにおきましょう。
とにかく、エルはタルナールが約束を覚えていたことに満足した様子で、近いうちまた迎えに来る、と言いました。
「それはともかく、ラーシュたちの調子はどうですか?」
話題を転じて、彼女は尋ねます。
「いまはもう、すっかり元気だ」
アル・アモルの触腕に襲われ、声なき絶叫を受けて墜落したタルナールたちは、全員が傷を負いました。しかし幸いにして――ネイネイが腕を折った以外は――深手というほどのものはありませんでした。
より心配されたのは、見えない傷。すなわち幻覚によって生じた心の傷です。あの夢か現かも分からない黒い街の中で、タルナールは腕の力と声を奪われました。そして恩人であり師であるナジャハの姿を目にし、意図せぬこととはいえ、彼女を殺しました。
おそらくアル・アモルは、相手がもっとも頼りにしているもの、もっとも大切に想っている人物を壊してみせることで、敵対者の意思を弱め、魂を奪おうとしたのでしょう。
ラーシュ、ネイネイ、エトゥは多くを語りませんでしたが、彼らもまたタルナールと同じようなやり方で苦しめられ、意思を手放してしまう寸前だったようです。
幻覚から解放されたあとも、タルナールたちが立ち直るには少し時間がかかりました。それでもアル・アモルが滅びたおかげか、三日ほどすればぐっすりと眠れるようになり、十日ほどでほとんど元通り過ごせるようになりました。
一方のトゥーキーたちは、肉体的にも精神的にもずっと軽症でした。アル・アモルと同じ世界からやってきた彼らは、人間より強い耐性を持っていたのかもしれません。ルアフもきょうだいたちも、アモルダートから帰還した翌々日には、ウシャルファの周辺を元気に飛び回っておりました。
ふと頭上に気配を感じて、タルナールは空を仰ぎます。
「おーい!」
建物の屋根より遥かに高い場所で、風を切るルアフに跨ったネイネイが、大きく手を振っているのが見えました。ふたりはゆっくりと高度をさげてきて、タルナールの隣にふわりと着地しました。
「どこ行くの?」
「孤児院の子どもたちのところに」
タルナールは答えます。
「ネイネイ、腕の具合はどうですか」
「元通りだよ。なんの問題もなし」
ネイネイはルアフの背をおりてから、折った方の腕をぐいぐいと曲げ伸ばしました。
酒場の二階で心身の傷を癒す間に、ネイネイは今後の身の振り方について、ひとつの決断をしていました。彼女はルアフときょうだいたちに、この広い世界を案内してやることにしたのです。
ルアフたちはアル・アモルの一件において、老レヴィッドが期待したような役割を見事に果たしてみせました。しかしタルナールたちの手助けは実のところ、彼らにとってほんの端緒に過ぎません。疲れを知らない鮮やかな四対の翼は、まだまだ無限の大空に飽いてはいないのです。
前途に待ち受けるはめくるめく大冒険。とはいえトゥーキーたちはこの世界を知らず、この世界もまたトゥーキーなる生物を知りません。無用な危険を避けるためには、案内してやる者が不可欠です。
そこで名乗りをあげたのが、ほかならぬネイネイでした。世間知という点でやや不安はあるものの、万物に力を与える彼女の魔術は、どんな場所でもトゥーキーたちの助けとなるでしょう。もしかすると一年あと、タルナールは人跡未踏の地を見聞した彼女らの、不可思議に満ちた土産話を聞くことになるのかもしれません。
しかしさしあたって、ネイネイは故郷のムジルタまで行き、使命の達成を師に報告がてら、助言を受けるつもりのようでした。
さて、ふたりを加えてさらに歩いていくと、店先で商品を物色しているラーシュの姿が見えました。
「よう。揃ってどうしたんだ?」
彼は店主に銀貨を払い、いくつか保存の利く食料を受け取ると、それを手にしたまま一行に加わりました。
「子どもたちのところに」と、タルナールは言いました。「そろそろ発つのか?」
「あまりぼんやりしててもな」と、ラーシュは答えます。「二、三日中には」
ラーシュもまたネイネイと同様、旅の身となることを決めていました。
彼の話によれば、一度はダバラッド側から仕官の誘いがあったそうです。しかしかなりの好待遇を提示されたにも関わらず、ラーシュはそれを丁重に断りました。居城を出奔して改めて分かったが、自分は士官や指揮官などという柄ではない、というのが彼の言い分でした。
また別の話として、ラーシュはシャルカンにひとつの提案をしました。ふたたび国家に危機が訪れたときのため、ザーランディルを保管しておいてくれないか、と。流浪の剣士には過ぎた業物。ザラッドの権威と役割を継ぐ守護者こそ、ザーランディルを帯びるに相応しい。ラーシュはそのように言いました。
しかし、シャルカンはこれを固辞します。ザラッドはエルとともに長らく旅の身であった。流浪の剣士こそ、ザーランディルを帯びるに相応しい者である。数百年のち、もしアル・アモルが復活するようなことになったとしても、剣はふたたび持ち手を見出し、必要なときに現れるだろう、と。
どちらの言い分にも理がありました。しかし、最終的にはシャルカンの意が尊重されました。
「一度シーカに戻って、そこから北の地峡を渡ってみようと思う」
馴染んだ柄に手をかけながら、ラーシュは当面の予定を口にします。
「昔々にシーカ人の祖先たちがやってきた土地だ。言葉が通じるのかもよく分からないが、まあ、なんとかなるだろう」
「面白そうな計画だ。帰ってきたら、是非とも話を聴かせてくれ」
「ああ、もちろん。約束する」と、ラーシュは笑いながら言いました。
こうして五人になった一行は、やがて北の防壁までやってきます。大きく開け放たれた門のあたりでは、ダバラッド諸都市から訪れた旅人や隊商が列を成しておりました。ウシャルファから出発する人々も、近くで道が空くのを待っています。
タルナールたちは彼らの間をすり抜けて、防壁の外に出ていきました。用水路が引かれたナツメヤシ林の手前で左に折れ、そのまましばらく歩いていくと、簡素な灰色煉瓦を積んだ建物が見えてきます。それは災厄の前から建っていたものではありません。ごく最近、孤児院の子どもたちのために普請された新しい家でした。
家の周りでは、ルアフのきょうだいたちや人間に化けたドゥーザンニャードが、元気一杯に走り回る子どもたちと戯れています。建物の傍ではエトゥとサーニャが互いに寄り添いながら、彼らの様子を眺めておりました。
エトゥはウシャルファに残り、子どもたちの面倒を見続ける道を選びました。アル・アモルが滅び、〈魔宮〉が封鎖されたことで、エトゥの願った静かな暮らしが、ゆっくりと戻りつつありました。
塞がらない傷、埋まらない欠落は確かにあります。しかしそれらを嘆き続けるより、新しく芽吹く希望を守る。それがエトゥの新しい目的となったのです。
……ところで、ドゥーザンニャードはどうするつもりなのでしょう?
それは誰にも分かりません。気ままで神出鬼没な彼女の行く先は、至天より来たるものたちでさえ知ることはできないのです。ドゥーザンニャードはこれからも思うままに振舞うでしょう。なにかとんでもない間違いを犯して、ふたたび壺にでも封じられない限りは。
孤児院の周りで遊んでいた子どもたちが来客に気づき、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきます。彼らは新顔のエルを見つけると、腕に絡みついたり髪を引っ張ったりして、荒っぽく歓迎の意を示しました。物語はできたのか? とタルナールにせっつく子どももいます。
そんな彼らをあしらいながら、タルナールはエトゥに尋ねました。
「レンヤさんは?」
「中にいる」
「物語ができたんだ。さっそくみんなに聴かせよう」
「子どもたちが喜ぶな。実は、おれも楽しみにしていた」
エトゥは笑顔でそう言うと、あたりに散っていた全員を呼び集めます。タルナールはサーニャに招かれるまま、真新しい孤児院の中に入りました。
孤児院はアモルダートにあったものと同じくらい広さで、トゥーキーたちやドゥーザンニャードを含めた全員が入ると、すっかり満杯になりました。
この場所がはじまりです。この小さな孤児院で紡がれた物語は、やがて諸都市を巡り、大陸の隅にまで行き渡り、いつか海の向こうにまで届くでしょう。
師であり恩人であるナジャハの耳にも、きっと。
部屋の中央に座ったタルナールは、ぽろんぽろんとリュートを爪弾きながら、やや改まった口調で前置きを述べはじめます。
「さて、これからお話ししますのは、壮大さと霊妙さを兼ね備えた摩訶不思議な物語。心浮き立つ冒険、歴史に隠された秘密、魔術と幻想、それらすべてを織り込みながら、幾夜にも渡って語られる長大な物語です。とはいえ、肩ひじを張る必要はありません。身体の力を抜き、日常の手綱を緩めてお聴きください」
タルナールは言葉を切って、子どもたちの顔を見回します。
「それではお話をはじめましょう。〈千夜の魔宮の物語〉――」