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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第八夜 鋼鉄の針 -5-

 使い倒したリュートはもうボロボロで、ある日ついに壊れてしまいました。もう弾くことはできません。音を出すことはできません。修理もまったく不可能です。焚きつけにするより仕方がありません。


 しかしそのころには、タルナールの指先に小さな技芸の欠片が宿り、歌には聞く者の心を震わす響きが、ひと房ふた房混じるようになっておりました。


 新しいリュートを買うのは、以前より難しくありませんでした。タルナールはこのころ、盛り場……ありていに言えば娼婦街ですが、そこで歌って小遣いを稼ぐ、ということを覚えていたのです。


 タルナールはそれなりに顔立ちの整った方でしたから、羽振りのよい酔客や娼婦にも受けがよく、ときには銅貨でなく、ぴかぴかの銀貨が投げられることもありました。


 そしてナジャハと再会するときがやってきます。


 イルムリムでは市の開かれる日でした。タルナールはまだ新しいリュートを携え、家のある薄暗い路地から、市街の中心へ向かいます。


 華やかな通りに並ぶ各国の彩り、におい、人々のさざめき。いまのタルナールであれば、決して手の届かない商品ばかりではありません。それでも以前に比べると、タルナールは贅沢にあまり興味を持たなくなっておりましたし、今日はそもそも買い物をしにきたのではありませんでした。


 いつものような酒場や売春宿などではなく、人の集まる広場で歌を披露してみよう。タルナールはそう計画して、この市の日を待っていたのです。


 二年という練習期間を考えると、リュートも歌も驚くほどの速さで上達していました。とはいえまだ熟練にはほど遠く、どんなに頑張っても余興以上のものではありません。それでも、とにかく色々な人に聞かせることが重要だ、とタルナールは考えていました。


 ヘタクソと罵られるかもしれない。微笑ましい真似事だと笑われるかもしれない。酔客相手ならそれも耐えられるが、素面の客にそうされたらどんな気持ちになるだろう。


 しかしもし、もしも、拍手のひとつでも貰えたら、感嘆のため息ひとつ聞くことができたなら、僕は新しい一歩を踏み出せるに違いない。


 そのような意気込みを持って、タルナールは市に紛れ込み、演奏をはじめるのによさそうな場所を探しておりました。


 そして歌声を聞くのです。二年前と同じあの歌声を。


 忘れるはずがありません。聞き間違えるはずがありません。タルナールはハッとしてあたりを見回します。


 いました。光沢のある深紅のローブまで、二年前と同じです。ナジャハは広場の片隅で、リュートを爪弾きながら、今日はどんな歌を披露しようか考えながら、いくつかの冒頭を口ずさんでいるところでした。


 まったくの偶然。思いがけない再会に戸惑い、タルナールはしばしの間、ナジャハの近くで立ち尽くしておりました。彼女はそれを客が来たのだと勘違いし、にこりと微笑みかけてから、おもむろに演奏をはじめます。


 僕です。あのときの子どもです。あなたの歌に感動して、僕も楽器を、歌を練習しました。あのときはお金を払えないのが恥ずかしくて、つい逃げてしまいました。でも僕はあなたの歌がもう一度聴きたかった。あなたの美しい歌が、豊かな物語が、僕を辛い現実から連れ出してくれたのです――


 本当ならばあれこれと並べたてながら縋りつきたかったところ、タルナールはなんとか我慢しました。歌っている吟遊詩人を邪魔するなどという無粋はしたくありません。歌が終わってから今度こそ対価を支払い、堂々と話しかければよいのです。


 タルナールはその場に腰をおろし、リュートを傍らに置き、二年前と変わらぬ音楽に耳を澄ませました。


 かつてと同じ幻想は訪れませんでしたが、それはおそらくタルナールがただの聞き手ではなく、歌い手として、語り手としての耳を得たからでしょう。ナジャハの歌はタルナールにとって、もはや浸るべき夢ではなく、手本とすべき理想となっておりました。


 音階の、歌の、物語の欠片ひとつ取りこぼさないよう、タルナールはいっときも集中を切らすことなく、身じろぎすらせず、およそ一刻に渡ってその場に留まり続けました。


 やがて歌は終わります。最後まで聞いていた客は敷かれた布に銅貨を投げ、また別の刺激を求めて市へと戻っていきます。


「見た目が随分違っていたので、はじめは分かりませんでしたが」と、ナジャハは長いまつ毛の下から、オリーブ色の瞳でタルナールを見つめます。「弾いているうちに思い出しました。あなた、二年前もここにいましたね」


「そうです」と、タルナールは立ちあがって答えました。この深紅の衣の吟遊詩人は、自分のことを覚えていたのです。嬉しさと恥ずかしさがないまぜになり、中々言葉が出てきません。「僕は……歌を練習して……」


 ナジャハははじめてタルナールの声を聞きました。改めてその姿をまじまじと見ました。傍らに置かれたリュートを見ました。手にできたタコを見ました。かつて自分の歌を熱心に聴いた少年が、どのような二年間を送ってきたのかを想像しました。そしていま、どんな気持ちでここに立っているのかを理解しました。


「僕に歌を教えてください」と、タルナールは言いました。「もっとうまくなりたいんです」


 正直なところ、人に教えられるようなものなどなにもない、とナジャハは思っておりました。しかし目の前にいる少年が、どんな気持ちでそれを口にしているのか分かってしまった以上、首を横に振ることなどできはしませんでした。


「分かりました。私でよければ教えましょう。あなた、名前は?」


「タルナール」


「そうですか。私はナジャハです」


       *


 ナジャハは市が終わればまた次の街へと行くつもりでしたが、タルナールに歌を教えると約束した以上、さっさといなくなってしまうわけにはいきませんでした。


 辻で歌い、酒場で歌い、領主の館の裏手で歌うとき、タルナールをいつも特等の場所に居させ、空いた時間や仕事の終わりに、その日に歌わなかった曲や、物語や、リュートの演奏技法や、艶やかな声の出し方などを教えました。


 タルナールの技術は完全に我流から成り立っていたので、まずはそれを根気よくに矯正することからはじめなければなりませんでした。


 しかしやる気は充分以上のものがありましたし、才能だけ見てもまずまずのもので、エメラルドやルビーの原石とまではいかなくとも、良質な鋼のような、さまざまに変化し成長しうる可能性を持っていました。


 タルナールにとっては夢のような時間でした。ナジャハにとってもまた特別な時間でした。旅を日常とする吟遊詩人の生活。ひと所に留まり、誰かと落ち着いた関係を築くなどということは、絶えてなかったものですから。


 ひと月の間に、ナジャハが教えた歌は七十と七。聴かせた物語は長いものが十。短いものは百に迫るでしょうか。もちろんタルナールはすべてを習得したわけではありませんが、なにせ時間が限られていましたから、ひとまずナジャハは自らが持っているものを、残らずタルナールに与えました。


 その中にはダバラッドやケッセルで既に知られているものもありましたし、ナジャハ自身が作ったものもありました。


 夜となく昼となく、ふたりはある意味で、恋人たちよりも濃密な時間を過ごしました。タルナールは食事の時間も眠る時間も惜しみ、ナジャハも可能な限りその熱意に応えました。


 それでも、やがて別れのときがやってきます。


 旅立っていくナジャハを、タルナールは街はずれまで送りました。


「さようなら、ナジャハ」と、タルナールは言います。不思議と悲しくはありませんでした。旅の吟遊詩人が、自分のためにひと月も留まってくれたのです。これ以上を望んではバチが当たるでしょう。


 それに、タルナールは歌を受け取りました。物語を受け取りました。技術を受け取りました。ナジャハの魂と呼べるものを受け取ったのですから、寂しくはありません。


「さようなら、タルナール」と、ナジャハは言いました。彼女の気持ちは? これは言わずにおきましょう。人生ではじめての弟子と別れる乙女の内心。平静を装ってはいますが……、おお、ちょっと口には出せません。


「あなたも分かってはいるでしょうが、私も旅の身の上」と、ナジャハはなるべく師匠然とした態度を保ちます。「再びこの街を訪れるのはいつになるか。あるいは、ずっと先になるかもしれません」


 タルナールは重々しく頷きました。


「あと八年……いえ、六年も経てば、あなたは旅に出られるほどの年頃になる。そうすれば私たちはすれちがって、二度と会わないかもしれません」


 語尾が少し震えます。ああ、ナジャハ、頑張って。


「けれどあなたが吟遊詩人となり、優れた歌や物語を作ったならば、それはきっと私に届き、あなたの上達と息災を告げるでしょう。私はそれを爪弾きながら、かつて共に過ごした時間を思い返すでしょう」


「僕はきっと、あなたに届くような歌や物語を作ってみせます」と、タルナールは言います。殊勝な弟子です。彼は必ずやりおおせるでしょう。


「楽しみにしていますよ、タルナール」


 目頭を熱くしながら、ナジャハはいよいよ背を向け、北へ伸びる街道を歩きはじめました。


「きっと作ってみせます」


 背後でタルナールの声が響きます。しかしナジャハはイルムリムの街が遠くなるまで、ただの一度も振り返りませんでした。それが非情ゆえでないのは、いちいち言わずともお分かりでしょう。


 さて、少々語りに力が入ってしまいました。


 この別れから六年のち、タルナールは吟遊詩人として各地を歩き、見分を広めようと決心します。


 それまでにも歌で金を稼ぐようにはなっていましたが、同じような場所、同じような客が相手でしたので、さすがに飽きが出てきていました。もう少し刺激を得なければ、ナジャハに届くような歌も物語も作れません。


 そのころには、ふたりのきょうだいも働けるようになっていましたし、父親も絶望から立ち直り、小規模ではあるがまた商売をはじめようか、という心持になりつつありました。ですので、働き手がひとりぐらい減っても、それほど困ったことにはならないはずでした。


 母親は別離を大層悲しみましたが、タルナールは自らの腕前を持って、彼女を納得させます。この技術と声音があれば、音楽で身を立てていくことができる。タルナールの実力は既に、聴く者の誰もが認めるところとなっておりました。


 そしてタルナールは故郷を離れます。ケッセルの村を、町を、都市を、砦を回り、歌や物語を披露します。娯楽の少ない辺境に行くほど歓迎されました。腕の良い吟遊詩人がいるという噂が広まり、領主の館に招かれることもありました。


 もちろん危険なこともありました。水量の増した河で溺れかけたり、野盗に襲われたり、領主の娘に見染められて関係がこじれたり……。


 それでもなんとか四年の間、タルナールは各地を旅しながら自らの腕を磨き、その場所で知られている歌を集めました。別の吟遊詩人と出会ったときに、知っている歌や物語を教えあうこともありました。


 そうして自信と経験を身につけたタルナールは、いよいよ国境(くにざかい)を越えて、ダバラッドへと足を踏み入れることにしました。文明のゆりかごダバラッド。遥かなる昔から詩人たちが逍遥し、歌と物語を紡ぎだしてきた本場です。


 七日七晩旅をして、はじめて辿り着いたダバラッド。仕事をはじめたタルナールが驚いたのは、要求される水準の高さもさることながら、現に知られ、今も作られている歌の多さ、物語の厚さです。


 この乾燥した地で織りなされるものの、なんと豊潤なことか! タルナールはいままで自分の誇ってきたものなど、児戯に等しかったのだと思い知らされます。


 しかし打ちひしがれてはいられません。これらの中で抜き出てこそ、ナジャハに届くものを作ることができるのです。


 幸いにして、タルナールは叩けば砕ける宝石でなく、鍛えられて粘りを増す鋼鉄でありました。日々を生き残り、切磋琢磨するうちに、ダバラッドでも充分に通用する実力を身につけていきます。


 そしてあるとき、〈魔宮〉の噂を聞くのです。それまで存在だけは知っていても、単なる鉱山だとしか考えていなかった〈魔宮〉。しかしそこはどうやら、夜の獣なる怪物が出没し、いまだ多くの謎が埋もれた混沌の地であるらしいのです。


 はなはだ真偽の怪しい噂でした。しかしタルナールの直感は囁きます。いよいよだ。いよいよ自らの名を世間に知らしめるような、壮大な叙事詩を作るときだ。そこには誰も聞いたことのない物語の、きらめく原石が眠っているに違いない。


 タルナールがダバラッド首都カリヴィラを出立したのは、噂を聞いてから一刻と経たない、呆れるほどに明るい満月の夜のことでした。

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