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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第七夜 鋼鉄の針 -4-

 草原の国ケッセルは大陸の東方に位置し、さらに東方から侵略を試みる騎馬民族との争いが絶えぬ地です。しかしケッセルの人々も数百年前にこの地へと移り、土着の民と交わった騎馬民族の末裔だと伝えられています。


 各地に散らばる数十人の領主たちが、兵隊を差配する権利と民草から税を徴収する権利を持ち、首都に住まうひとりの王に仕えます。当代の王は賢明で慈悲深く、肥沃な土地は安定した天候にも恵まれ、政情はまずまず安定していると聞いております。


 タルナールはケッセルの中央部、実に十万もの人々が住むイルムリムという都市で生を受けました。ダバラッドの大都市にこそ及ばないものの、イルムリムは交易で栄えた豊かな街であり、その市場には常々、各地から運びこまれたさまざまな食べ物や装飾品が溢れておりました。


 タルナールの父はもともと羽振りのよい商人で、若いときにダバラッドからやってきた妻をめとりました。ふたりは仲睦まじく暮らし、次々と三人の子を設けました。その末っ子がタルナールというわけです。


 タルナールの父は善良な人間でしたが、反面、人を疑うことが苦手で、さらには少々間の抜けたところがありました。仲間に恵まれているうちは商売もうまくいっていたのですが、あるときその性格が災いして、うっかり信用した悪い取引相手に、商品や財産のほとんどを持ち逃げされてしまったのです。


 ああ、それまでなにひとつ不自由のなかった生活が、一転して貧窮に陥ります。そのとき、タルナールはまだ物心がつくかつかないかの年ごろでした。


 ですから、タルナール自身が覚えている幼少期は、大いに陰のあるものでした。人間不信に陥った父が酒を飲んでくだをまいたり、母が近隣に食料の無心に行ったり、薄暗いあばら家の中できょうだいがため息をついたり、とそういう類の思い出しかないのです。


 貧窮の中でも楽しく生きる者は大勢いますが、タルナールは残念ながら鬱々とした気分で日々の暮らしを送りました。いつも腹をすかせておりましたし、同年代の子どもたちは、財産を取られた間抜けの息子としてタルナールをからかいます。


 父も母も好きでそうしているわけではなかったでしょうが、タルナールにとってもつまらぬ生活でした。やさぐれておりました。手伝いをして駄賃を貰うほどの大きさにもなっていませんでしたから、時間を持て余しておりました。


 かといって家にいれば飲んだくれの父に絡まれましたから、ほとんどの時間、屋外でぶらぶらと過ごしておりました。


 転機が訪れたのは八歳のときです。


 その日は街の広場で市が開かれておりました。普段であれば、店でものを買う金もなく、仕事にありつけるわけでもなく、うろうろしていれば泥棒と思われかねませんでしたから、あまり近づこうとは思わない場所でした。


 しかしこのときはほんの気まぐれによって、あるいは日常に飽いた心がそうさせたのか、タルナールは市へと足を向けたのです。


 細粒の混じった御影石が敷き詰められた広場は、商人や客でごったがえしておりました。色鮮やかな織物や宝飾品、珍しい果物、香辛料を効かせた焼肉、つつつ、と視線を彷徨わせるだけで、各地を旅したような気持ちになれるくらいでした。


 しかし買う金が少しもないとなれば、楽しみは半減です。案の定、タルナールは早くもくさくさした気持ちが湧いてきて、少しも歩かないうちに、いつもの貧しく汚らしい路地へ戻ろうかと思いはじめました。


 歌声が聞こえてきたのはそんな折です。


 聞きなれない声でした。路地の子どもが出す耳障りな声ではありませんでした。滑らかで伸びるように、それでいて弾けるように軽やかな、聞いているだけで心が浮き立つような声でした。


 これまで目にしたことのある吟遊詩人が出していた、媚を売るような、猥雑な感じのする声ともまったく違っておりました。


 歌声に導かれ、タルナールは広場を歩きます。天幕をいくつか通り過ぎ、人ごみの間を縫ってそれを求めます。やがて広場の片隅の、人通りもまばらな空隙に、彼女の姿を見つけました。


 こうして、タルナールはナジャハと出会います。


 ナジャハは鮮やかな深紅のローブを纏っていました。布地は薄く光沢のあるものでしたが、長旅のせいか所々擦り切れておりました。長い黒髪はほんの少し縮れ、大きな瞳は若いオリーブを思わせました。


 滑らかな褐色の肌は、彼女がダバラッド人であることを示していました。絶世の美女というわけではありませんでしたが、どこか不思議な魅力を醸す女性でありました。この当時、齢は二十歳(はたち)を過ぎたくらいでしょうか。


 タルナールは彼女の容姿にも興味を持ちましたが、もっとも惹かれたのは、もちろんその歌に対してです。そのとき彼女が歌っていたのは、ケッセルではそれほど知られていない、しかしダバラッドではたいてい誰でも知っている、〈忠良なる騎士〉の物語でありました。


 非凡なる歌い手の声と、魅了された聞き手の組みあわせは、得も言われぬ幻想を生みます。タルナールの心が生み出した勇壮な騎士が、栗毛の駿馬を乗りこなし、荒廃した大地を駆けました。


 美髭をたくわえ、白銀の鎧に身を包んだ壮年の騎士か向かうは――見るもおぞましい邪竜。真っ黒な、六つの翼を持つ、大長虫のごとき邪竜です! 


 ああ、とタルナールが思わず嘆息したとき、ナジャハと目が合いました。彼女は美しい声で歌いながら、タルナールに微笑みかけます。そして薄汚い路地から出てきたこの少年を、再び幻想の世界へ誘うのです。


 歌は続きました。〈忠良なる騎士〉のほかにも、楽しげな祭の歌、酒の歌、めくるめく恋の歌、郷愁を誘うわらべ歌、扇情的な大人向けの歌もありました。客は入れ代わり立ち代わり、ほとんどは短い間聞くだけで、あとは小銭を投げて去っていきます。


 しかしタルナールは罠にかかったウサギのようにその場を動けず、とうとうナジャハが最後の曲を終えるまで、疲れも空腹も忘れて立ち尽くしていたのでした。


 幻想が去るころには客も帰っていき、やがてタルナールとナジャハだけが残りました。地面に広げられた布には投げ込まれた数十枚の銅貨が散らばり、鈍いきらめきを放っておりました。


 タルナールも銅貨を、できることなら銀貨を、もし持っていったならば金貨を差し出したいと思いました。しかし悲しいかな、このとき貧しい少年の懐には、陶器の欠片ひとつ入ってはいなかったのです。


 タルナールは恥ずかしくなりました。素晴らしい歌への対価を支払えないことが、泥棒をするよりもよっぽど罪深く思えたのです。


 実のところ、ナジャハは少年の貧しさが見た目から分かっていましたし、誰よりも熱心に聴き、幻想に酔うその姿だけで、充分報酬を受け取った気になっていたのですが。


 結果として、タルナールは逃げ出しました。漁師から魚を盗んだ猫がそうするように、旅人から財布を盗んだスリがそうするように、ナジャハが呼びとめようとするのも構わず、歌声の余韻を握りしめて逃げました。


 どこをどう走ったのかも覚えていません。タルナールはそれほどに動揺していました。息を弾ませて家にたどり着いたとき、両親やきょうだいはタルナールが本当に泥棒をしてきたのかと思ったほどです。


 彼がなにも持っていないのを見ると、大層訝しげな顔をし、事情を聞くに及んで、なんだそんなことかと呆れかえりました。


 タルナールとナジャハの出会いは、ざっとこんないきさつでありました。


 傍から見れば他愛無い出来事でしょう。しかしタルナールにとっては人生の大きな転機となりました。ナジャハの歌う声こそが、紡ぎ出される物語だけが、たとえいっときのことであれ、タルナールを鬱々とした生活から連れ出したのです。


 タルナールの生活は変わりました。まず、彼は楽器を手に入れようと考えます。しかしとにもかくにも金がありません。都合よく楽器が落ちていることなど期待できませんし、盗んだ楽器で奏でた音に美が宿るとも思えません。なんとかしてまっとうに金を稼ぐ必要がありました。


 タルナールはイルムリムの街を東奔西走します。広く活気のある街でしたから、必死になればどこかしらで仕事は見つかります。使い走りや店番、客の呼び込みや荷運び。父に習った読み書き計算は、このとき随分助けになりました。


 一日中駆けずり回り、土埃だらけになっても、銅貨数枚が手に入るかどうかでしたが、ほかにやりようがないのだから仕方ありません。銅貨二十枚で銀貨一枚、銀貨二十枚で金貨一枚。あるとき古物商の片隅で見つけた小さなリュートには、金貨二枚の値がついておりました。


 金を貯める間、タルナールは菓子ひとつ、シャーベット水のひと口すら買いませんでした。無駄遣いをしている余裕があれば、一日も早く楽器が欲しかったのです。


 親きょうだいからも隠し通しました。朝方出かけていくときなどは、いかにも新しい遊びを見つけたような、邪気のない顔を心掛けていました。


 三月(みつき)かけて、タルナールは壺一杯の銅貨を貯めます。


 古物商のもとへ走ったタルナール。店の片隅にあったリュートは――


 ありません! 売れてしまったのでしょうか?


「安心しな、ぼうず。ちゃんと取ってあるよ。そろそろ金が貯まるころあいだと思ってな」


 絶望するタルナールの顔を見て、老齢の店主が笑いました。


「お前さんが方々駆けずり回って金を稼いだのは知ってる。さぞ苦労しただろうな。でも、値引きはしねえぞ。おまけもつけねえ。いいな? これは意地悪でそうするんじゃねえんだ。お前さんが誰に憚ることなく、堂々とこれを手に入れたんだって、胸を張れるように敢えてそうするんだ。古びちゃいるが、これは中々の代物だからな。大切にするんだぞ。ところでぼうず、弾き方は知ってんのかい?」


 タルナールが首を横に振りましたので、店主はまた笑って、そう上手ではありませんでしたが、最低限の弾き方を披露しました。


 それからというもの、タルナールは片時もリュートを手放しませんでした。親きょうだいに本当のことを話しますと、父親はなぜそんな無駄遣いをと言って怒りましたが、母親はタルナールを庇ってくれました。


 本当はタルナールが楽器に焦がれていることも、そのために必死に金を貯めていることも知っていたからです。


 そういうわけで、タルナールは独学でリュートの練習に明け暮れます。家族にうるさがられてからは家の外で、子どもたちに邪魔されるので郊外へと場所を移し、朝から晩までリュートを爪弾き、拙い物語を歌いました。


 指先から血が流れ、喉が痛んでも一向に気になりませんでした。弦が切れてしまったときは、古物商に頼んで修理してもらいました。彼はタルナールの執念に感心して、格安でそれを引き受けてくれました。


 タルナールは来る日も来る日もリュートを弾き続けます。疲労も空腹もすっかり忘れ、幻想への扉を探し求めます。師も譜もない練習ははなはだ効率の悪いものでしたが、並々ならぬ情熱がそれを補います。


 指の皮は破れるたび分厚く、喉は痛めるたび強靭(つよ)く滑らかに、拙かった歌は次第に力を得、物語の芯は太くなっていきます。


 地下洞窟の氷柱石から水が滴るように。来る日も、来る日も。


 あっという間に二年が経ちました。

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