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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第六十二夜 災禍の呼び声 -10-

 夜の獣との戦いを終え、隊列を組みなおしたダバラッドの軍勢は、ふたたびアモルダートを目指して動きはじめます。


 死者と重傷者が合わせて五十名、それを後送するための人員として百名、合わせて百五十名ほどが離脱したものの、残りはまだまだ高い士気を保っており、体力にも余裕があります。


 中には獣の腹からアモル石をほじくり出そうとする者もおりましたが、アズバァイルは骸を捨て置くよう厳しく命じ、進軍を急がせました。


 それからしばらくは平穏な時間が続きました。アモルダートが近づくにつれさらなる危険を予想していたマヌーカは、どこか拍子抜けしたような気になりました。


 遠く見える市街の辺縁には大小の獣がなおも蠢いておりましたが、それらは建物の陰やナツメヤシの畑に逃げ込むような動きを見せ、決して襲ってくるようなことはありませんでした。


 さきほどは夜の獣に対し、恐れを知らぬ兵士のよう、との評を与えたアズバァイルも、これには不可解そうに首を傾げます。ほかの者はもっと楽観的で、同胞が血祭りにあげられたのを見て、流石に恐怖を催したのだろう、などと口にします。


 あたりに散らばったのを狩るのは面倒だが、それは街を取り戻してから、おいおいやっていけばいいだろう、と。


 ともあれ軍勢はとまることなく、全体を四、五列の縦隊に変えて、なおも進み続けます。いちいち敵を追いかけるのは、きりがないのでやめました。シャルカンたちは咄嗟の事態に対応できるよう、列の先頭近くに身を置きます。


 市街の北に広がっている小さな田園地帯までやってくると、あたりには凄惨としか言いようのない光景が広がっておりました。風によって流れてくるにおいと、空を舞う死肉喰らいたちの姿で察してはいても、マヌーカはなお、ひどく心を痛めずにはいられませんでした。


 ナツメヤシの樹にもたれかかるたくさんの屍。小さな水路に沈む千切れた残骸。地面に染みた血。崩れた灰色煉瓦の壁に撒き散らされた飛沫(しぶき)。幾百の死。無慈悲な虐殺の痕跡。


 屍の中にはひとつならず、アモルダート兵のものも含まれておりました。おそらくは市民と同様避難の途中だったのでしょうが、もしかすると弱者を守るために戦って死んだのかもしれません。


 昨日マヌーカが手当てしてやった鍛冶屋の見立てによると、無事に逃げられたのは半分より少ないということでした。しかし実際目の当たりにしてみると、その言葉さえ楽観的に思えてきます。


 通りがかる者にとってのわずかな救いは、屍や肉塊がまだ腐乱してはいないことぐらいでしょうか。ですがこのまま野ざらしであれば、それも時間の問題なのですが。


「早く弔ってやらねばな」と、シャルカンが服の裾で口を抑えながら呟きました。


「まずは〈病人街〉の様子を見ましょう」と、アズバァイルが言いました。「しかるのちに、城館を押さえます。死者を弔うのはそのあとで」


「ああ。仕方あるまい。思うたより気の塞ぐ仕事になりそうじゃ」


 獣の群を破ってから意気揚々としていた兵士たちも、さすがに神妙な面持ちで手綱を握り、あるいは靴で屍を踏まぬよう気を配ります。俯きがちで歩みたいのはやまやまでしょうが、さすがに敵地ということで警戒を怠るわけにもいかず、必然あたりの景色をつぶさに見ることになるのが辛いところです。


 田園地帯をさらに進み、やがて軍勢は市街に入りました。建物が密集し死角の多い貧民街を避け、やや西寄りの経路で〈病人街〉を目指します。


 かつては馬や駱駝や騾馬、それらが曳く荷車、あるいは人々の靴が賑やかに行き交っていた大通り。しかしいまは風がひょうひょうと寂しげに鳴るだけです。夜の獣の姿さえありません。


 マヌーカが背筋を伸ばして通りの先を見遣れば、ぽっかりと開けた空間が目に入りました。ここまでくれば、〈病人街〉はもうすぐそこです。


 夜の獣が地上に現れたとき、まっさきにその害を被った〈病人街〉。狭い中に多くの人が集まり、なおかつ脱出路の少ない〈病人街〉。当時の混乱は想像を絶しますが、果たしていまはどうなっていることか。


 獣でぎゅう詰めになっている? あるいは食い荒らされた死体が散乱しているだけ? たとえ前者だったとしても、穴のうえから矢を射かければ、比較的楽に戦えるはずですが、どのみちあまり愉快な光景にはなりそうもありません。


 しかし〈病人街〉がある穴の縁に辿り着いたマヌーカが目にしたのは、まったく予想だにしない光景でした。


 差し渡し二百歩の穴のまわりを、数百騎が警戒しながら取り囲みます。ある者は不思議そうに首を傾げながら、ある者は弓を手にしたまま半ば途方に暮れ、かつて〈病人街〉であったその場所を眺めます。


「これは一体……?」と、シャルカンが呆気に取られて言いました。


 それはまるで大量に湧出した地下水が、〈病人街〉をすっかり浸してしまったような光景でした。


 穴の縁ぎりぎりの高さでゆらめく境界。表面は硫黄のにおいがする灰色の霞に覆われています。しかしマヌーカはすぐそれが水でないことを感じ取りました。その奥に見えるものも、〈病人街〉の残骸ではないことに気づきました。


「どう思う? マヌーカよ」と、シャルカンが尋ねました。


「しかとは分かりかねます。しかし、どうもわたくしには窓のように見えます」と、マヌーカは答えました。


「窓じゃと?」


「ええ。遠見の魔術では、水晶や硝子、水盤や磨いた金属などを使うのですが、それに見た目が似ているのです」


「もしこれが遠見とやらであれば、窓の向こうに見えているものはなんじゃ?」


「はて……」


 マヌーカは窓――揺らぐ境界の奥に目を凝らしました。いつのまにか口がからからに乾き、嫌な予感が首筋を這いまわります。


 見てはいけない。探してはいけない。誰かが耳のうしろで囁いたように思いましたが、マヌーカは目を離すことができませんでした。


 それは薄暗い場所でした。建物の中であるようにも見えました。黒っぽい壁に四方を塞がれた、空虚な広間のようでした。ぼんやりとした紫色の光が浮かんでいるほか、めぼしいものはまったくと言っていいほどありません。はっきりと見ることができれば、また分かることもあるのでしょうが。


「おい、あそこに人がおらんか?」と、不意にシャルカンが言いました。


 彼が指さす方に目を遣ると、確かに黒衣を纏った何者かが佇んでいます。人間のように見えますが、もしかすると屍食鬼(グール)や妖霊の類かもしれません。次の瞬間、黒衣の者が窓のこちら側を振り仰ぐようにして、その青ざめた顔をこちらに向けました。


「あれは……」と、マヌーカは思わず声をあげました。「バーラム?」


 離れているためはっきりと確認することはできませんが、まず間違いありません。アル・アモルなる魔性に呼ばれて姿を消した彼が、なぜあのような場所にいるでしょう。


 多少なりとも正気を保っているのでしょうか。意思の疎通は可能でしょうか。もし話ができれば、この異変の原因を探れるかもしれません。しかしそもそも、こちらの声は届くのでしょうか。


 マヌーカが考えをまとめかねていると、バーラムに動きがありました。


 それは言葉でした。こちらを向いたままの彼がほとんど身じろぎもせず、口元だけをわずかに動かしてなにやら言葉が発したのです。それはどのような仕組みによってか空間全体に反響し、まだバーラムの存在にまだ気づいていない者も含め、周囲のすべてを束の間呪縛しました。


 声がなにを伝えようとしているのか、マヌーカには分かりませんでした。もしかすると、理解できなくて幸運だったのかもしれません。なんにせよ、軍勢の到来を歓迎し、守護者(ダワール)言祝(ことほ)いでいるのでないことは明らかでした。


 やがて声はやみ、代わりにバーラムの口からどろりと黒い汚泥のようなものが這い出してきます。それと同時に、彼の足元で闇が凝りはじめました。なにか恐ろしいものが、常軌を逸した邪悪が、姿を見せようとしているのだということが分かりました。


 危険を感じ取ったのは、マヌーカ以外の者も同じでしょう。しかし兵卒は凍りついたように動かず、士官も自分の役目を忘れ、かつて〈病人街〉であった場所に映る景色を、呆けたように見つめているだけでした。


 どろり。


 いち早く呪縛から解けたのは、駱駝たちでした。先の戦いでもよく敵の圧力に耐えたこの獣たちがいっせいに狂乱の叫びをあげたとき、それに乗っている兵士たちもまた我に返りました。ある者は振り落とされ、ある者はなんとか御そうと試みつつ、みな一様に穴から距離を取りはじめます。


 どろり。どろり。


 バーラムの姿は黒い汚泥に覆われ、すっかり見えなくなってしまいました。そのぐちょぐちょしたものは明らかに意思を持って動き、急速に広がり、不気味に蠢きながら、なにか禍々しいひとつの姿を成そうとしておりました。


 それから、また別のものが現れました。これは薄暗い広間や青ざめたバーラム、黒い汚泥といったものより、もっと明確な存在でした。明確に危険な存在でありました。

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