第六十一夜 災禍の呼び声 -9-
それからまもなく。赤茶けた荒野の地平線上、不穏な群の存在を示す砂煙が膨らみはじめます。それはエイブヤードから吹きおろす南風によって運ばれ、広がり、やがてアモルダート市街の輪郭をすっかり覆い隠してしまいました。
ダバラッド軍は速度を緩め、敵を待ち構えるための陣形を整えます。数十の小集団から三つの大きな横隊へ。流石に守護者麾下の精鋭だけあって、統制は実に見事でありました。ひとたび号令がかかると、敵を包囲し鏖殺するための鷹の翼が完成するまで、ほとんど時間はかかりませんでした。
アモルダートの近郊の戦い。味方の中央本隊を構成するのは、まずダバラッドが誇る巨人隊が二百名。それぞれが槌矛を存分に振るえるだけの間隔を保ち、四列の横隊で最前衛を守ります。
その背後には弓兵二百名。彼らはたとえ敵に肉薄されたときでも、腰に帯びた曲刀で戦いを続けることができます。
これら四百名の側面に配置されているのが、駱駝騎兵の中でも選りすぐられた百名ずつの部隊。彼らは戦いの終盤で敵が崩れはじめたときに、槍を使った突撃でとどめを刺す役割を果たします。
そして左翼と右翼を構成するのが、それぞれ五百名の駱駝騎兵からなる部隊です。彼らは敵との距離に応じて柔軟に戦い、軽装甲を活かした足の速さで敵を翻弄しつつ、弱ったとみれば突撃に転じる手筈です。
マヌーカが傍らの兵士からそのような説明を受けているうちに、ようやく砂煙の中からぼんやりと、敵が見えるようになってきました。同時にあの特有の悪臭もまた、風に乗って届いてきます。
密集した三百の群。黒々としたおぞましき群。それはまるで薄暗いムジルタの森林の、腐りゆく倒木を覆う粘菌のように、個の集まりとも、それ全体がひとつとも思えるような、湿った不気味さを感じさせる姿でありました。
守護者の周囲を固める者たち、戦士の中の戦士である彼らでさえ、目を見開き固唾を呑んで、防具で固めた身体をさらに強張らせました。駱駝たちも騎手の緊迫と流れくる悪臭を感じ取り、手綱を振りほどくように首を振ったり、激しくいなないたりしはじめました。
マヌーカの背にも、冷たい汗が流れます。
敵が八百歩の距離に近づいたとき、号令のラッパが勢いよく吹き鳴らされました。中央から両翼へ、末端へ。熱風のような騎手たちの喊声とともに陣形が動き、鷹が羽ばたきをはじめます。
昂奮が恐れを塗りつぶし、疾さが戸惑いを置き去ります。
「見ておるがよい、マヌーカ」と、シャルカンがやおら声を張りあげました。
彼は急に護衛たちから離れ、中央本隊の前まで突出しました。アモル鋼の曲刀を抜いて左右に走り回り、兵士たちを勇壮に叱咤します。それに呼応して、丸太のような腕が、巨大な槌矛の頭が、何度も何度も突きあげられました。
次にラッパが吹き鳴らされると、弓兵たちが曲射の構えを取りました。
いよいよ、戦端の開かれるときです。
風切り音とともに、薄い灰色の空を無数の矢が飛翔します。それは大きな放物線を描き、五百歩以上も離れた黒い群にふりそそぎました。マヌーカがそれを見届けている間にも、熟練の射手たちは次を番え、間断なく矢を放っていきます。
そしてまもなく、両翼の駱駝騎兵たちも敵を間合いに捉えました。こちらは弓兵に比べると近距離で、しかしなお二百歩以上の遠くから、雨あられと矢を送り込みます。
シーカ重装歩兵の楯でもなければ、まず防ぐことのできない攻撃です。もし相対しているのが凡百の集団ならば、これだけで勝負は決したかもしれません。
しかし、いま向かってきているのは人間の軍勢ではなく、また尋常の獣でもありません。それらは身の危険を顧みず、逃げることも立ちどまることも、足を緩めることすらせず、ひたすらに鷹のはらわたを食い破り、頭を潰そうと突進してきます。
殺戮の熱狂が全軍を包みつつある中、アズバァイルがぽつりと呟きました。
「不気味な獣だ。恐れを知らぬ兵士のように動く」
「その心は? 大臣閣下」と、マヌーカは駱駝を寄せて尋ねました。
「分からん。しかしあれらは、ただ狂暴なだけの群ではないな」
どうやらこの洞察に富んだ大臣は、夜の獣の姿や行動自体を不気味に感じるのではなく、これだけの群がなぜ作られたのか、どのような意思によって突き動かされているのか、思いを巡らせているようでした。
「マヌーカよ。バーラムの手記に書かれていたという――」
アズバァイルが言いかけたとき、兵士たちを鼓舞しに出ていたシャルカンが、ようやく戻ってまいりました。
「おい、なにをぼやっとしておる。敵がやってくるぞ。マヌーカ、武器は持っておるのか?」と、シャルカンは上気した顔で言いました。
「短剣でしたら。いざとなれば魔術もございますので」
「それでは足りぬ。長物を貸してやろう」
シャルカンはどこからか予備の槍を持ってこさせ、マヌーカに押しつけました。それから彼は正面に向き直り、砂色に煙る景色の中、迫る獣の群を不遜に睨みました。
「見ておるがよい、マヌーカ」と、シャルカンはふたたび言いました。
彼の目が向く二百歩先には夜の獣。幾本もの矢を背に突き立て、腐汁のごとき体液をまき散らしながら、なお勢いを緩めず前進する群。しかし数はすでに半分ほどまで減じておりました。それらが通過してきたあたりでは、満身に傷を受けて落伍した獣と、槍に持ち替えた両翼の騎兵が入り乱れ、混戦の様相を呈しておりました。
正面からの衝突まであと百歩。巨人隊が異形の敵にも臆する様子なく、野太い喊声で空気を震わせます。その背後に控える弓兵たちも抜刀し、討ち漏らしに備えます。マヌーカは駱駝の手綱と槍の両方を抱えるように持ったまま、いざというときのため、頭の中で何度も呪文を繰り返しました。
やがて黒い群の先頭と、最初に振りおろされた槌矛の頭が、鈍い音を立てて激しくぶつかります!
マヌーカは息を呑みました。重装騎兵の突撃に匹敵する突進。いくら精鋭とはいえ、ろくな楯も長槍も持たない四列の歩兵が受ければ――
「とまったぞ!」と、シャルカンが声をあげました。
重い槌矛が、筋肉で鎧われた巨躯が、恐れを知らぬ心が、幾千の矢に晒されながらもやむことのなかった進撃を阻みました。
それぞれ四、五人に囲まれた夜の獣たちは、脚を折られ、背骨を砕かれ、頭を潰され、次々にとどめを刺されていきました。わずかにすり抜けてきた数匹も、マヌーカたちのところまでは遠く及ばず、控えていた弓兵たちによって斬り刻まれ、絶命していきました。
おびただしい量の血が流れ、むせかえるほどの悪臭がたちのぼります。マヌーカは面紗のうえから鼻を抑えつつ、戦いの推移を見守りました。
においは長く残りましたが、砂煙はやがて晴れました。激しい戦闘がおこなわれた場所には、夜の獣の骸が累々とし、それはまるで大地にできた病巣のように見えました。
敵は文字通りに全滅。味方の被害はマヌーカが想像したより遥かに少なかったものの、思わぬ反撃を受けた人馬の死体が、二十ばかり転がる結果となりました。
それでもひとまずは輝かしい成果と言っていいでしょう。アモルダートを覆った災禍を、たとえその一部分であれ、人間の手で滅ぼすことができたのですから。




