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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第五十四夜 災禍の呼び声 -2-

 それは衝動のままに綴られたような荒く汚らしい文字でした。彼が書いたほかの書簡、あるいは手記前半の文字と比べても、混乱や動揺の度合いが顕著でした。彼はどのような心持でこの意味不明な言葉を記したのか? マヌーカはさらに頁をめくっていきます。


 彼女は現在から過去へとさかのぼるように手記を読みましたが、ここでは分かりやすいよう、古い内容から示していくことにしましょう。


『ウシャルファの古老より忘れられた遺跡の存在を知り、荒野を彷徨すること七日。我、ついにそれの入口に立つ。飢えと渇きを忘れ、暗がりへと踏み込むに、黒紫色の砂礫あり。ひと掴み持ち帰る』


『カリヴィラにて、錬金術師より目利きの結果を聞く。曰く、アモルに相違なしとのこと。我、〈唯一なる者の宮〉を発見せり。昂ぶる心を抑え、錬金術師に固く口止めす』


〈唯一なる者の宮〉


 これこそが〈魔宮〉のもとの呼び名。


 どこかで聞いたことがある? もちろん、そうでしょう。


 ご存じの通り、「唯一の名にかけて」「唯一なる者の名にかけて」あるいは一番丁寧な形ですと「唯一なる者の御名にかけて」。ダバラッドでよく耳にする言い回しです。厳粛な約束、誠意ある祈り、真剣な決意、あるいは単に強調のため、しばしば人はこの言葉を口にします。


 由来を気にしながら使っている人は多くないでしょう。しかし改めて考えれば謎めいた言葉です。


唯一なる者。遥か昔にこの世界を去った神の名なのか? それとも歴史がはじまってから偉業を成した人間の名なのか? 名そのものが称えられないのはなぜなのでしょう? 忘れ去られてしまったのか、もしかすると禁じられているのか。


 しかし、ここまで私の語りを聴いてきたみなさんならば、もうお分かりのことかと思います。かの高貴なる妖霊ドゥーザンニャードが口にした名を、鮮やかな羽のあるトゥーキーたちが夢に見た存在の名を、きっと覚えておいでかと思います。


 そう。〈唯一なる者〉とはすなわちエルトラ王のこと。


 そもそもエルトラという名前自体が、唯一なる者の意を備えているのです。随分と古い尊称であるゆえ、すぐにそうとは分かりませんが。


 唯一なるエル(エルトラ)。それこそ、あの日常的でありながら、どこか謎めいた言い回しが、紛れもなく指し示す人物なのです。


 しかしみなさんはこうも思うことでしょう。遥か古代の存在でありながら、いまなお人々の言葉にその影を残しているそのエルトラ王が、広く歴史として知られていないのは、いったいどうしてなのか? 


 答えはもちろん、この物語の中で明かされます。しかし残念ながら、いまではありません。


 ひとまず、手記の内容に戻りましょう。


『立ち入った先はアモルの宝庫なれど、宮の本体はいまだ見えず。狂暴な獣の多数あり、探索容易ならざることを悟る』


 夜の獣に遭遇して危険を感じたバーラムは、自力での探索を中断し、ほかの人間を使ってアモルを採るようになります。彼は慎重に取引を増やし、得た財を使って街を造りはじめました。


 アモルダートができていく過程の記述はそれなりに興味深いものでしたが、いまの状況にはさほど関係なかろうと思い、マヌーカはそれを流し読む程度にとどめました。


 しかしアモルダートの黎明期にひとつだけ、変わった記述がありました。


『我、宮よりの声を聞く。されどその声、唯一なる者にあらず』


 これ以降も、バーラムはたびたび声を聞きます。彼はいつしか、それをアル・アモルと呼ぶようになりました。


 アル・アモル。エルトラという名の厳かな響きに比べ、どこか不吉さを帯びています。アモルという言葉は、現在もっぱらアモル石を指すものとしてしか使われておりませんが、その語源を辿れば、もともとは既知の外、自分たちが知る領域ではない場所を示す言葉でした。


 したがって、アル・アモルをもし現代風に呼ぶならば、〈異界よりのもの〉とでもなりましょうか。


 声がその名前を自称したのか、バーラムが声に名づけたのかは定かでありません。なぜなら、バーラムは声がなにを言ったかということについて、まったく記していなかったからです。


 もしかすると普通の人間が出す声や言葉といったものと、アル・アモルがバーラムに投げかけたものはかなり違っていて、文字にしようと思っても、することができなかったのかもしれません。


 しかしどのような形であれ、アル・アモルの声を繰り返し聞くことで、バーラムは〈魔宮〉に心を囚われていきます。


 豪奢な宝飾品も、柔らかな毛織物も、カリヴィラよりやってきた月のような美姫も、もはや彼を真に楽しませることはなくなりました。バーラムによって買い入れられたそれらの贅沢品は、彼の真意を覆い隠すものとして使われていたに過ぎなかったのです。


 彼の本当の関心は、ずっと〈魔宮〉そのものに向けられ続けてきたのです。アル・アモルの声に従い、〈魔宮〉を究めることに。


 しかし、そこは生来に持つ優れた器量ゆえでしょうか。バーラムは慎重にことを運びました。決して無茶はせず、自分の手から〈魔宮〉が離れぬよう気を配り、アモルダートを大きくしていきます。


 凡百の鉱夫たちが目先の利益に心奪われるのを苛立たしく思いつつ、しかし己のみが知る真実は明かさぬまま、バーラムは〈魔宮〉が孕む悪意や困難に打ち勝てる勇士を、辛抱強く待ち望みます。


 やがて、それはやってきました。


『いにしえの魔剣を携え、無類の技量と軒高なる意気を備えし若武者、来たり』


 アモルダートへやってきたラーシュのことを、バーラムはそのように評しておりました。


 ラーシュの人柄や彼の所業については、マヌーカもよく知るところです。彼はほかの鉱夫たちとはひと味違いました。


 目先の金銭にこだわらず、勇敢でありながら立ち回りは堅実で、道義を重んじ、誰からも一目置かれる存在でした。彼はアモルダートについてから間もなく、腕の確かな狩人と、おあつらえ向きの使命を携えた魔術師とともに、〈魔宮〉へと挑むようになります。


 強大な夜の獣に襲われてなおたじろぐことなく、それを斃す算段を練りはじめます。足止めを食らったのもそう長いことではなく、吟遊詩人タルナールを仲間に入れた彼らは、ついに難敵ブルズゥルグを打倒し、さらに〈魔宮〉深部へと到達します。


 彼らが調子よく探索を進めていくことは、果たしてバーラムの思惑に叶っていたのでしょうか? あるいはアル・アモルの思惑に? 


 おそらく、叶っていたはずです。見込み違いがあるとすれば、事態の進行があまりに速すぎたこと。


 バーラムはできることならば、ラーシュたちを懐柔し、抱き込み、秘密の野望を共有するつもりだったでしょう。場合によっては、彼らもまたアル・アモルの声を聞くようになっていたかもしれません。


 しかしそうなる前に、増産された富が諸勢力の介入を招いてしまいました。そしてバーラムが対応に忙殺されている間にも、ラーシュたちは〈魔宮〉の奥へ奥へと進んでいきました。


『アル・アモルが我を呼ぶ』


 そして、バーラムは呼ばれたのです。あるいは、ずっと呼ばれ続けていたのかもしれません。とにかくその呼び声は、もはやバーラムの正気が受けとめきれないほど、大きく強いものだったのでしょう。


 ゆえに、バーラムは消えました。


 しかし、いったいどこへ? なんのために?


「あのう……バーラムさまはそのう……ご乱心なされてしまったのでしょうか? 確かに最近、少し気難しい様子ではありましたが。私、それほどのこととは思いませんで……」


 ひと通り覗き見ていたアミナが、上目遣いで言いました。


「乱心……そうかもしれません」と、マヌーカは手記に目を落としたまま言いました。「しかし、わたくしが診たことのある癲狂(てんきょう)とは少し違うようです」


 近くにいるアミナが、バーラムの異常にはっきりとは気づかなかったのも、彼を侵食していた狂気が、尋常のものではなかったからでしょう。


「この館の中で、アモルダートの運営を最もよく把握している者は誰ですか?」と、マヌーカは尋ねました。


「それがそのう……バーラムさまはほとんどの仕事をひとりでやっておられましたので……。私も書類の整理くらいならお手伝いしたことはありますが……」


「……困りましたね」


 マヌーカは手記を閉じ、顔に手を当てて瞑目しました。


 現在の懸念はふたつあります。


 ひとつは、バーラムが失踪し、おそらくもう戻ってはこないだろうということ。


 彼の心はもはや〈魔宮〉に呑まれ、もしふたたび人々の前に姿を現したとしても、それはおそらくアモルダートの主としてではなく、単なる狂人か、あるいはもっとおぞましい存在としてに違いありません。


 いささか可哀そうではありますが、これはバーラムがアル・アモルの声を聞いたときから、避けられない宿命だったのでしょう。


 そして彼が戻ってこないとなれば、すぐにアモルの取引は滞り、兵士たちは統制を失うでしょう。急いで後釜を見つけたとしても、失踪の事実自体を長く隠しておくことはできません。


 それが諸勢力の耳に入れば、せっかく均衡しかけていた情勢はまた元の混乱状態、いえ、おそらくより過激な状態へと滑り落ちていくでしょう。


 懸念のもうひとつは、アル・アモルの動向に関すること。


 マヌーカも魔術師のはしくれですから、〈魔宮〉がただ貴重な鉱石の採れる穴だと思っていたわけではありません。古いだけの遺跡だと思っていたわけでもありません。そこに大いなる魔術が眠っているであろうことは、ネイネイの考えを聞くまでもなく予測しておりました。


 とはいえその正体については見当がついていませんでしたし、本当のところを言えば、大した関心もありませんでした。


 しかしここにきて、マヌーカは自分がなにか恐ろしい出来事の渦中にあるのではないか、自分はこれから〈魔宮〉の孕む秘密に直面しなければならないのではないか、と強く感じました。


 手記に登場した、不吉な名の存在を知ったことによって。


 アル・アモル。異界よりのもの。夜の獣の親玉か、あるいはもっと桁外れの存在か。なんにせよ、人々に益をもたらす慈悲深い存在でないのは確かです。


 それはいま、〈魔宮〉を巡る事態をどのように眺めているのでしょうか。バーラムを完全な傀儡とし、いったいなにをするつもりなのでしょうか。


 アモルダートの運営と、アル・アモルへの警戒。喫緊なのはどちらか。いま対処すべきなのはどちらか。


 マヌーカが手記に手を置いたまま、しばし考え込んでおりますと、部屋の外、急ぐように廊下を進んでくる足音がありました。


 直後、入室の許可も求めず、姿を現した者がひとり。


 白い髪と白い肌を持つ若者。マヌーカの忠実たる腹心、ハアルです。


 この者については、少し説明を加えておく必要があるでしょう。


 マヌーカがハアルとはじめて出会ったのは、彼女がアモルダートの噂を聞いて、そこに向かう途上のことでした。


 とある辺境の街、富裕な女商人がマヌーカを罠にかけようとして失敗し、無残な死体を晒したあとで、彼女に所有されていた奴隷のひとりが、マヌーカに同行を願い出たのがきっかけでした。


 マヌーカははじめそれを断りました。しかし若者に行くあてがなく、また決意が強固であるのを見て取ると、結局は道連れを許可しました。


 ハアルは周囲からほとんど喋れないように思われておりますが、実は違います。女商人に長年虐待されたせいか、大きな声を出すこと、長く話すことはできませんが、囁き程度の声で、短い内容を伝えるだけなら、あまり不便はないのです。


 会話の不得意を除けば、ハアルは嘘をつかず、怠けず、また頭もそれなりに回る人間でしたので、マヌーカも彼を信用のおける部下として、長らく手伝いをさせてきたのです。


 さて、そんなハアルがいきなり部屋に入ってきたところでした。


「どうしました、ハアル」


 常ならぬ様子に悪い予感を抱きつつ、マヌーカは尋ねます。つかつかと歩み寄ってきたハアルの口元に耳を近づけますと、彼はこのように囁きました。


「夜の獣が地上に現れました。人々を襲っています」


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