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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第四十一夜 蛇と大君 -8-

 涼しく乾いた風が吹きおろすエイブヤードの山肌。眼下には駱駝のコブにも似た砂色の起伏が続き、所々を覆う低木の林がそれに申し訳程度の彩りを添えています。


 さらに低地へと目を遣れば礫の多い赤茶けた荒野が広がり、その只中にあるアモルダートの街が、道に迷って途方に暮れる旅人のような風情で、ぽつりと在るのを見ることができました。それよりも遠くのダバラッド諸都市は砂塵によって隠され、姿を望むことは叶いません。


 振り返って仰ぎ見れば、そこには長き星霜に削られ、峻厳な貌となった灰色の岩場が、まるで命ある者すべてを拒むかのように、氷雪の冠を頂く主を守っておりました。


 事実、エイブヤードのある高さからは植物も生えず、それどころか寒さと薄い空気のせいで、人は長く留まることすらできないのです。遥か昔、高峰に挑んだ魔術師や痴れ者たちの骸が、獣に食べられることも腐ることもなく、現在までそのまま氷漬けになっているという話もあります。


 とにもかくにも、時間をかけて〈魔宮〉の中を引き返したおかげで、一行は危険な地形の上に放り出されず済みました。エトゥがいれば迷うこともないでしょうし、なんとか帰還の目途を立てることができそうです。


 担架の上で安静にしていたおかげか、タルナールの体調も少しずつ回復し、いまでは荷物をほかの者に負ってもらいさえすれば、自力で移動することもできるようになっておりました。


 とはいえその歩みはまだゆっくりで、日没までに山をくだりきることは、どうにも難しいと判断せざるを得ませんでした。


「心配するな。食料にはまだ余裕があるし、外なら大きな焚火もできる。ここは高くて空気も澄んでるから、アモルダートより星が綺麗に見えるだろうな」と、ラーシュはタルナールを気遣うように言いました。


 そのように山中で野営する心づもりをしていた一行でしたが、運よく道中、三つ四つの家屋から成る、ごく小さな集落に行き当たりました。


 そこの住人はいきなりやってきたタルナールたちに驚きつつも、屈託のない素朴なねぎらいの態度を示し、ぜひ身体を休めていけ、と受け入れてくれました。


 家屋は大きな石を積んで作られ、隙間には苔が詰められておりました。中に入ってみると、壁や床は山羊の毛皮で覆われ、物資の乏しい中で山間の寒さを防ごうという、昔ながらの工夫が見て取れました。


「あんたは、このへんの人かね」


 一行を招き入れながら、老人がエトゥに向かって言いました。老人の顔に刻まれた無数の皺は、長く風雨に晒されてひび割れた岩を思わせました。


「少し前までは、麓の村で暮らしていた。いまはアモルダートにいる」と、エトゥは答えました。


「ああ、最近できたっていう街だね。息子から聞いたことがあるよ」


 どうやらこの一帯に住んでいるのはカルガ人の末裔たちで、平地にくだっていった大半の仲間たちとは違い、エイブヤードの山肌で昔ながらの暮らしを続けている人々のようでした。


 老人によれば、いま集落にいるのは二十人に満たないとのことですが、別に衰退しているというわけでもなく、普段からこれくらいの規模を維持し、婚姻や出産などで集落の人数がこれ以上に増えたときは、また別の集落を作るのが習慣となっている、という話でした。


 それはきっと、あまり豊かとはいえないエイブヤードの土地をうまく使っていくために生まれた、カルガ人たちの知恵なのでしょう。


「あんたらが上の方から急に来たもんだから、てっきりおろされたのかと思ったよ」


 そう言って老人は笑い、全員に乳酪(バター)入りの茶を振舞ってくれました。


「おろされた?」と、タルナールが言葉の意味を図りかねて尋ねます。


「ほかの土地の人は知らんか。昔からこういう話があってね」


 老人はそう言うと、谷間に吹く風のような、低く掠れた声で歌いはじめました。

 

 冷たい山の頂に

 星よりきざはしかかるとき

 天の子は地におろされて

 素足のままで山をくだる


 森の狼はそれを憐れみ

 銀の毛皮に子を憩わせて

 静かな闇の中、祈りをあげる


 風よ、かの者に智慧を与えよ

 土よ、宿命に耐える強さを与えよ

 水よ、清く優しき心を育てよ

 火よ、その道を明るく照らせ


 迷わないように、泣かないように

 いつか安らぎの見つかるように


「聞いたことのない歌だな」と、タルナールは言いました。「天の子というのは、どんな人物だか分かりますか」


「少なくとも、あんたらのことじゃあないだろう。靴を履いてるし、泣いてもいない」と、老人は冗談めかして答えました。


「我はその手の話をいくつか知っておるぞ」と、シャイタンが熱い茶をすすりながら言いました。


「出自の知れぬ流浪の子どもが、さまざまな苦難や冒険を繰り広げながら、覇者になったり英雄になったりしていく。大抵は高貴な異国の姫や美しい妖霊(ジンニーヤ)と恋に落ちて、めくるめく淫猥な場景が――」


 そういった俗っぽい物語のひとつであるかどうかはさておき、老人はその子どもについて、歌以上のことはなにも知りませんでした。仕方なくタルナールは内容を覚えるだけに留め、明日の帰路を元気に歩けるよう、以降はゆっくりと身体を休めることに決めました。


       *

 

 夜が去り、朝が訪れます。


 タルナールはあまりよく眠ることができませんでした。エイブヤードの夜の寒さは、砂漠のそれよりもずっと厳しいものだったからです。寝具で身体を包み、仲間たちと身を寄せあっていてもなお、石壁から沁みとおってくる冷気を遠ざけておくことは困難でした。


 タルナールは短い時間寝入っては寒さですぐに目を覚まし、また少し眠っては芯から冷えている自分の身体に気づくということを、明け方まで何度も繰り返しておりました。


 比較的元気の有り余っているラーシュとエトゥは陽がのぼる前に起き出し、家畜の世話を手伝いにいきました。ネイネイとマヌーカも少し遅れ、女たちとともにどこかへ仕事をしにいったようです。


 シャイタンはというと、出かけた仲間たちの寝具をひとり占めにして、ごろごろしながら朝食を待つ構えです。


 少々寝不足ではあるものの、タルナールの体調はもうほとんど元通りになっており、胸から肩にかけての傷も痛みはしますが、行動に差し支えるほどではなさそうでした。これならば、午前中の早い時間に集落を発ち、一日中歩くことができるでしょう。


 湯気をあげる乳酪(バター)入り茶のにおいに、ぼんやりとした頭で起きあがったタルナールは、ふと、蹄鉄をつけた馬の足音が近づいてくるのに気がつきました。


 昨日にこの集落を訪れたとき、馬の姿は見ませんでしたから、おそらくは外部からやって来たのでしょう。なにやら不穏な感じがします。


 まもなく、家の扉が乱暴に叩かれました。昨日もてなしてくれた老人が扉を開けると、そこには痩せた魔術師風の男がひとりと、武装した兵士が四人ばかり、出口を塞ぐように立っておりました。見たところ、全員がケッセルの人間であるようです。


 魔術師風の男は屋内を眺め回し、タルナールに目をとめると、わずかにはっとしたような顔をしました。彼はなにか言葉を発しかけましたが、それはシャイタンの声によって遮られました。


「なんじゃお主らは。無礼者め」


 起きあがった彼は、傍らに置いてあった曲刀を手繰り寄せようとします。


「やめろ、シャイタン。荒っぽいことはするな」と、タルナールは彼をとめました。訪問者たちがどのような存在であれ、世話になった人々を巻き込むわけにはいきません。


「賢明な判断だ」と、男は言いました。「おとなしくしていろ。そうすれば、捕まったお仲間が傷つくこともない」


 それはタルナールたちを従わせるための嘘かもしれません。しかし彼らが訓練を受けた兵士であれば、仲間の誰かを捕えてしまうことも難しくはないでしょう。


「僕たちはアモルダートの鉱夫だ。ここへは通りがかりに休ませてもらっていただけで、捕まるようないわれはない」


「鉱夫? お仲間のひとりは魔術師のようだが」と、男は言いました。


 疑いを晴らすためにすべての事情を説明するならば、当然、シャイタンの素性も明かしてしまうことになります。彼らがケッセルに属する兵士だとすれば、シャイタンは非常に価値のある捕虜となるでしょうから、そのまま連行されてしまうであろうことは疑いようもありません。


 それに、たとえ彼を差し出したとして、タルナールたちが厄介ごとから解放される保証もないのです。


「残念ながら、ここで出会ってしまったからには――」と、男はうしろの兵士たちを気にしながら言いました。「我が主の陣地まで連行させてもらう」


 男が命じると、傍らに立っていた兵士がずんずんと家に踏み込んできました。さらにそのうしろから別の三人が続き、タルナールたちを拘束しにかかりました。家人に狼藉を働かないのはよいのですが、その手つきはお世辞にも丁寧ではありません。


「我の刀に触れるのは許すが、雑に扱うでないぞ」と、シャイタンが尊大な態度を崩さず言いました。しかし彼も仲間のことが気にかかっているのか、思いのほかすんなりと兵士たちに従いました。


 そしてタルナールとシャイタンはうしろ手に縛られ、屋外へと引き立てられます。


「まあ、そう深刻な顔をするな、タルナール。我は何度も官憲に捕らえられたことがあるから分かるが、誤解が解ければすぐに解放される。心配せずともよい」


 本気なのか冗談なのか分からない慰めを聞きながら、タルナールがあたりを見回しますと、自分たちと同様に拘束されたマヌーカが、馬に乗せられているのを目にしました。


 しかしラーシュとネイネイ、エトゥの姿はありません。あの三人がむざむざと殺されたはずはありませんから、おそらくは兵士たちを躱し、どこかに隠れることができたのでしょう。


 とはいえ、いまこの場での救援は期待できそうにありません。まもなくタルナールは馬上に引きあげられ、世話になった集落の人々に礼を言うこともできないまま、山道を連行されていくことになりました。


 手綱を取る兵士と縄で繋がれ、タルナールは馬に揺られてエイブヤードの寒々しい山肌をくだります。無骨な皮鎧の肩越しに進行方向を見遣ると、やはり自分たちはケッセル軍の陣地に連れていかれるようだ、ということが分かりました。


 もしかするとこの兵士たちは、山岳地帯からアモルダートやシーカ軍に奇襲がかけるため、地形や経路を調べていたのかもしれません。だとすればその行動を目撃されるのは都合が悪いに違いなく、怪しい者は誰であれ捕らえておこうとするのは仕方のないことです。


 しかし、タルナールにはひとつ気がかりがありました。あの魔術師らしき男が、どうもこちらを知っているような様子だったことです。シャイタンの正体を看破したならばもう少し大きな反応を示すはずですから、タルナールの方に見覚えがあるのでしょう。


 もしかすると、自分とジェディア姫の因縁に関係あることだろうか? タルナールはまさかと思いつつも、これからかなりまずい事態になるのではないかという予感を、なかなか拭うことができないでおりました。

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