第四夜 鋼鉄の針 -1-
夜が去り、朝が訪れます。マヌーカによって割り当てられた簡素な部屋で、タルナールは目を覚ましました。ぐっと伸びをして寝がえりを打ち、身体を起こして顔をこすります。
寝床の敷物はややほこりっぽく、ところどころ破けたりほつれたりしていましたが、野宿に慣れた身からすれば、充分に快適な部類と言えました。
タルナールはひとつ大きなあくびをしてから寝床を離れ、二階の奥まった場所にある部屋から、一階の酒場へとおりていきます。今日は〈魔宮〉にもぐるという話だったが、さてどうなるか。心の中では期待と不安が半々といったところです。
すでに陽はのぼり、〈病人街〉も活動をはじめておりました。商人が客を呼び込む声。振りおろされる金槌の音。パンを焼いたり米を炊いたりするにおい。そう広くない穴の底に色々なものが密集する〈病人街〉では、感じられる気配も多彩です。
「おはようございます、詩人どの」と、一階の酒場、いち早くタルナールに気づいたマヌーカが言いました。「剣士どのはあちらにおられますよ」
彼女が示す先にはラーシュたち三人が座り、なにごとかを話しあっています。タルナールは奴隷に朝食を持ってきてもらうよう頼んでから、まだ少しぼんやりした頭で、彼らのやりとりに加わりました。
どうやら三人は、今日の予定を立てていたようです。
「タル、魔宮にもぐるための装備は用意してあるか?」
寝ぐせのついた髪をぼりぼりとかきながら、ラーシュが尋ねます。
「いや、なにせ昨日ついたばかりだから。そもそもなにが必要なのかも分かってない」と、タルナールは正直に答えました。「つるはしとランタンがあればいいのかな」
「昔はそれも役に立った」と、エトゥが言います。彼の声は低く、抑揚に乏しいものでしたが、どこか素朴な温かみも感じさせました。
「〈魔宮〉は広い。最奥には誰も到達したことがないし、どんな場所かも分かってない。少なくとも、二日や三日で踏破することは不可能だ。だから必要なのは十分な食料と水、寝具になるマント。それに武器」
「夜の獣か」と、タルナールが応じると、エトゥは重々しく頷きました。
常ならざる獣や魔物といったたぐいのものは、物語につきものです。巨象を運んで飛ぶ怪鳥、獅子の身体に人間の顔を持つ獣、翼を持つ巨大な蛇、子供や死体を攫っていく屍食鬼、美姫をつけ狙う鬼神などなど。
いまでこそ実際に見たという者はほとんど麻薬の使用者に限られますが、千年も前の昔には、決して珍しい存在ではありませんでした。時代がくだるにつれそれらの魔物も、神々や妖精たちと同様、世界の果てへ去っていってしまったのです。
なにはともあれ、〈魔宮〉の中に危険な獣がいるならば、鋭い武器のひとつやふたつ、用意しておくのは当然でしょう。タルナールは旅の供として丈夫な杖を持っていましたが、これでは明らかに殺傷力が足りません。
「〈魔宮〉に潜るなら、特に奥の方まで進む人間なら、必ず身を守るための武器を持つ。例えばおれは弓、ラーシュは剣、ネイネイは杖と短剣。タルもなにか持たないといけない。武器は〈病人街〉であまり売ってない。だからアモルダートの市街まで買いに行こう。目利きはラーシュに任せればいい」と、エトゥは提案します。
タルナールとしては、特に異存もありません。朝は少しばかり三人の時間を借りて、装備の調達をすることになりそうです。
朝食は大麦のパン、ヤギのチーズ、干したナツメヤシ、それから蜂蜜を入れて甘くした茶です。それらを胃袋に収め、手早く身づくろいを済ませてから、タルナールたちは宿を出て街へと繰り出しました。
*
〈病人街〉から這い出した一行は、アモルダート市街の東側、種々の商店が立ち並ぶ賑やかな区画までやってきておりました。
あたりには多種多様な人々がせわしなく行き交います。アモルダートはダバラッドの辺縁に位置し、西方のシーカ、東南のケッセル、〈世界の根〉エイブヤード山脈を挟んでムジルタ、とさまざまな国の境から近い距離にあるため、必然、アモル石の生み出す富を目当てに、それらの国々から人が入り込んでくるわけです。
ケッセルの立派な乗用馬が通り過ぎ、シーカ産のエール樽を運ぶ人足が道を開けろと怒鳴ります。錬金術師の工房から妙な色の煙が漏れ、神秘的な木片で占いをするカルガの民が客を待っています。異国の文化が混じりあって織りなされる色や香りが、しきりにタルナールを誘惑しました。
しかしいまは目的がありますので、寄り道は我慢しなければなりません。タルナールはラーシュの確かな足取りに従って通りを歩き、やがて武具を扱う地味な構えの店へと辿り着きました。
店の中に入ってみれば、物々しい商品たちがタルナールを迎えます。まだ早い時間ではありましたが、すでにちらほらと客の姿がありました。〈魔宮〉に潜る人間だけではなく、隊商の人間やその護衛にも、結構な武具の需要があるのでしょう。
「どれがいい?」と、ラーシュが尋ねます。
棚に並べられたり、壁に掛けられたりしているのは、精妙な反りを持つ鋼の曲刀、いかにも破壊力のありそうな槌矛、波打つ刃の短剣などなど。
品揃えが豊富なのは結構ですが、ろくに武器を使ったことのないタルナールにとっては、どのように武器を選べばいいのか分かりません。そもそも、夜の獣の大まかな姿さえ知らないのです。
「よう、ラーシュの旦那。なにか入用かね」
そのとき、武器屋の店主が声をかけてきました。はげ頭に汗を光らせ、いかつい顔を火照らせています。ついさっきまで仕事をしていたのでしょう。身体の左右で筋肉のつき方が違うのは、熱心な鍛冶である証です。
「また旦那の剣を見せてくれよ」
請われたラーシュは腰に挿した剣をすらりと抜き、目の前の作業台に横たえました。店主はほう、とため息をつき、まるで絶世の美女を前にでもしたかのように、まじまじと剣を眺めました。
ラーシュが武器として使っているそれは、歩兵が使う小剣と、騎兵が使う長剣の、ちょうど間ぐらいの刀身を持つ、反りのない両刃の直剣でした。
刃の幅は付け根でもタルナールの親指と同じ程度の幅しかなく、厚みも普通の半分ほどしかありません。刃の表面は曇りひとつなく、薄暗い店内で月光のようなきらめきを放っておりました。
「アモル鋼でできた特別製さ」と、ラーシュが囁きました。
彼の言うことが本当ならば、高価どころではない品です。良質なアモル鋼で造られた剣のためなら、小さな城のひとつやふたつ、差し出す領主だって少なくはないでしょう。
「でも、ここで鍛えたものじゃない。実家から拝借してきたものなんだ。床下にずっと埋もれてたから、随分と古いものらしい。正式な銘かどうかは分からないけど、ザーランディルと呼ばれていたみたいだ」
アモルダートで再発見されるまで、アモル鋼の製法は失われた技術でしたから、床下に長らく埋もれていたというザーランディルは、遥か大昔の遺物であるに違いありません。それを踏まえて見てみると、なにやら魔性の魅力があるようにも思えてきます。
「すごいなあ」
「おいおい兄ちゃん、もっと驚いてくれなきゃ張りあいがねえぜ」と、店主が口を挟みます。タルナールとしては充分驚異を感じていたつもりなのですが、どうやら鍛冶屋として講釈を垂れたくて仕方がないらしく、こちらの様子もおかまいなしに、ザーランディルの素晴らしさを語りはじめました。
「まず刀身を見てみな。普通の鋼でこんな細く作ったら、あっという間に曲がるか折れるかしちまう。切れ味だって一級品だ。おっと迂闊に触るなよ。指が落ちるぜ。
それから手に持ってみな。……軽いだろ? アモル鋼ってのは普通の鋼よりも目方が軽いのよ。その分勢いよく振り回せるってもんだ。でもな兄ちゃん、軽い武器がいい武器ってわけじゃねえんだ。
そこに偃月刀がかかってるだろ? こいつの刃は肉厚だが、別に鋼が悪いからじゃねえ。重さで叩き斬る武器なのさ。撃ちあったりするときにも、重さがあると押し返し易いしな。
いいか兄ちゃん、軽くて鋭い武器ってのは使い手を選ぶんだ。きっと昔にこの剣を持ってた人間は、相当の使い手だったに違いねえぜ。それに――」
「分かった、分かった。ご主人、教えてくれてありがとう」と、タルは店主を遮ります。このまま放っておけば、陽が暮れるまで喋り倒しそうな勢いでした。「でも今日は僕の武器を探しに来たんだよ。そんなに立派なものじゃなくていいんだけど」
「そうかい」話の腰を折られた店主は、すとんと興味をなくした様子。素人の武器など適当に選んでおけ、と言わんばかりです。
「刀剣はもちろん色々あるが、ウチには槌矛、投げ矢、弩、大鎌だって置いてあるぜ。安いモンなら銀貨二枚から。上を見りゃあキリがない。気になるのがあれば、手に取ってみな」
タルナールは店主に言われた通り、矯めつ眇めつ、いろいろな武器を試していきました。まだ見ぬ夜の獣を思い浮かべ、叩き斬り、突き刺し、殴りつける空想を膨らませます。獣の身体は大きいか小さいか、硬いか柔いか、猫のように敏捷か、亀のように鈍重か。
「タルの体つきからすると、これが使いやすそうだ。少し長いから、切り詰めてもらおう」
最終的にラーシュが見繕ったのは、タルナールの背丈より少し長いくらいの槍でした。いままで旅の供であった杖と似たような形ですから、扱いづらいということはなさそうです。
「うん。これなら大丈夫そうだ」と、タルナールは槍を手に取ります。柄の部分は樫を削って作られたもののようでした。
「人間と戦うなら長くてもいいんだが、〈魔宮〉の中だとひっかかるからな」
防具は軽い革製のものを選びました。金属が使われた重いものだと、長距離の移動で負担になるからです。
「あとは食料と水を準備だな。それが終わったら、いよいよ〈魔宮〉にもぐる」
柄を短くした槍と革の胴衣を手に入れたタルナールは、ずっしりと重いそれらを荷物に加え、今度は保存食や日用品を扱う店へと向かうことにしました。