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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第三十夜 火焔 -6-

 廃砦がシーカの騎馬隊に襲われた際、戦闘らしい戦闘はおこなわれませんでした。両者の兵力差があまりに歴然としていたために、十人程度しかいなかったアモルダート兵たちは、混乱の中で逃げ出すほかなかったのです。

 

 しかし今度は違います。戦うために集まった者たちが、戦う準備をして相手を待つのです。武器を交わさずに終わることはないでしょう。血を流さずに終わることはないでしょう。アモルダートが享受してきた繁栄。その裏側に隠れていた熱が、危険な炎となるときがやってきたのです。


 ラーシュ率いる鉱夫たちが陣地を構築し終わってから丸一日。〈魔宮〉の奥に潜んでいた斥候たちが、ついにシーカ兵の姿を捉えました。ランタンを手にした軽装の四人組が、陣地から二刻ほどの場所にいたというのです。


 斥候の報告で、陣地の鉱夫たちは一気に浮足立ちました。食事を中断して身支度をはじめたり、無為に弩砲の周りうろついたりする者をおりました。


 酒場の喧嘩や夜の獣との戦闘には慣れていても、やはり鉱夫は鉱夫です。戦がはじまる前の心構えという点では、兵士に比べて脆弱と言わざるを得ません。


 しかし目撃された兵士たちもまた斥候であるらしいこと、したがって本隊はまだ遠いであろうことをラーシュが伝えると、落ちつかなげな雰囲気はそのうちになりを潜めました。


「うまくいくかな?」


 そんな中、ネイネイが陣地の前方までやってきて、タルナールに声をかけました。彼女の役割は主に負傷者の手当ですが、もしこの場所で戦いがはじまり、敵味方が入り乱れるような状況となれば、役割分担などあってないようなものです。


「大丈夫だよ」と、タルナールはネイネイをなだめました。「僕たちが立てた作戦と、ラーシュを信じよう」


〈魔宮〉の中においては伝令も容易ではありませんから、奥の方でなにが起こっているのかをすぐに知ることはできません。しかしシーカ兵の目撃情報があった以上、もはや散発的であれ、戦いが発生しているものと考えなければなりませんでした。


〈魔宮〉に血が流れています。人が人を傷つけて流れる赤い血が。


「エトゥたちには決して深追いするなと伝えてある。殺す必要もない。まだ助かる負傷者を連れて帰るために、元気な兵士を使うからだ」と、ラーシュが洞窟の奥を見遣りながら言いました。「シーカ兵たちは、そのうち、少人数での探索がうまくいかないことに焦れる。そしてなるべくわかりやすい道を通って、大人数で俺たちのところまでやってくる」


〈魔宮〉の構造に明るい鉱夫たちは、どこからでも現れます。いつ襲われるか分からない状況で兵士たちの士気は落ち、苛立ちを募らせるはず。早晩、彼らは慎重さを捨てるでしょう。多少の危険を冒してでも、強引に進んでやろうと決意するでしょう。ラーシュはそれを待っているのでした。


 鉱夫たちが陣を敷き、斥候を放ってから二日と半日が過ぎたとき、息を切らした伝令が、まとまった人数の部隊が接近してきていることを告げました。


 切り詰めた槍を持ち、鉄兜と朱の大楯で身を固めた重装歩兵が五十。かつてラマルエルナの西部を席巻した、獰猛な戦士たちを彷彿とさせる姿でやってきたというのです。


「全員、自分の武器と役割を再確認しろ。いつでも戦えるように準備しておけ」と、ラーシュは鉱夫たちに命じました。


 洞窟樹とランタンの灯りが照らす空間の中で、じっとりと時間が過ぎていきます。戦闘に加わらない人足たちは撤収し、ネイネイはすぐに負傷者の手当ができるよう、薬や道具を用意します。


 鉱夫たちは慣れない弩を手に取り、弩砲に取りつき、積み重ねた木箱や鉱物油の入った樽を点検します。ささいな物音に耳を澄ませては、いまにも敵がやってくるのではないか、と〈魔宮〉の奥に目を凝らします。


 タルナールもラーシュの傍らに立ち、落ち着かない気持ちでそのときを待ちます。どうせ避けられないのなら早く終わればいい、などと考えながら。


 少しして、感覚の鋭い鉱夫の一部が、大勢の近づいてくる気配があると口々に囁きはじめました。そのうちタルナールの耳にも、武具のこすれあう音、長靴が小石を踏みつける音が届いてきました。


 やがて全員の目線の先、洞窟樹のかすかな光に照らされた〈魔宮〉の道を、整然と進むシーカ兵たちの姿が見えてきました。彼らは静かに、しかし確固たる足取りでやってきます。短槍を捧げ持ち、半身を隠すように大楯を構え、歴戦の凄みを放ちながらやってきます。


「弩を構えろ。弩砲の狙いをつけろ。まだ撃つな」と、ラーシュが落ち着いた、しかし厳然とした声で命じました。がちゃがちゃと鉱夫たちが動く横で、タルナールも弩を手にします。


 シーカ兵たちも隊長の命令一下、いったん歩みを止めました。槍の穂先がゆっくりとおろされ、こちらを狙います。


 そして勇ましいラッパが、前進のラッパが吹き鳴らされました。


 シーカ兵たちは決して逸りません。走りません。歩調をあわせ、長靴を踏み鳴らし、大楯を壁のように並べて進んできます。


 いまやその距離は八十歩。


「弩砲、撃て」と、ラーシュが命じました。


 ネイネイのまじないで鋭くなった太矢が、二台の弩砲から放たれます。薄闇を突き抜け、シーカ兵たちの第一列に命中した強力な嚆矢は、大楯を易々と貫いて第三列までの兵士を串刺しにしました。


 敵にわずかな動揺が走ります。しかしさすがは練度の高い尖兵たち。列の抜けた部分は、すぐさま別の者によって埋められました。


 前進がわずかに速まります。もう弩砲を装填する猶予はありません。


 やがてその距離は六十歩。


「弩、撃て!」と、ラーシュが命令をくだします。


 ひゅんひゅんと音を立て、陣地から幾本もの矢が放たれます。それらは敵の大楯に突き刺さり、あるいは鉄兜を掠めて列の背後へと消えていきます。


 与えた損害は……残念ながら軽微。直接命中しさえすれば板金鎧さえ貫通する弩の矢ですが、その手前に構えられた大楯によって、ほとんどが防がれてしまっておりました。


 しかし少し考えれば当然のこと、弩の斉射程度で攻略できるなら、ずっと昔にシーカの重装歩兵と対峙したダバラッドやムジルタの弓兵も、さほど苦戦はしなかったでしょうから。


 いよいよ距離は三十歩。もはや互いに目鼻が判別できるほどになったとき、再びラッパが吹き鳴らされ、シーカ兵は突進の姿勢に移りました。


「全員、さがれ!」


 ラーシュの命令とともに、鉱夫たちは持ち場を離れ、最前線を放棄して後退しはじめました。それを見たシーカ兵たちは詰まれた木箱を崩し、樽を蹴倒し、逃げる鉱夫たちを追撃しようと勢いづきます。


 このとき、熱狂の中で妙なにおいに気づいた兵士は果たして何人いたでしょうか。たとえそれが充分な数であったとしても、彼らはもはや引き返せない場所まで踏み込んでしまっておりました。


 立ちどまったラーシュが命じ、剣を抜いて振り返ります。


「いまだ、撃て」


 陣地の後方に控えていたのは、火矢をつがえた射手が四人。彼らが狙うのは、いましがたシーカ兵たちに蹴倒された樽です。そこからはわずかに褐色を帯びた透明な鉱物油が、どくどくと流れ出しておりました。


 次の瞬間、放たれた火矢が樽に命中し、鉱物油が激しく燃えあがりました。


 これはアモルの生産が滞り、暇を持て余していた精錬所の錬金術師たちを動員して、突貫で作らせた特別製の油でした。油そのものだけでなく、蒸発して空気に混じった油にまで燃えあがり、あたりを炎に包むという恐ろしい代物です。


 日常の用途にはまず必要のないものですが、いくつかの籠城戦では、これを壺に入れて敵兵の上に落としたという記録が残っております。


 やや黒ずんだ、濃い色の火焔が洞窟の天井まで吹きあがります。五十人いた敵兵のうち、中ほどの十人は全身を焼かれてのたうちまわり、前方の二十人と後方の二十人は炎の壁で分断されました。鉱物油を踏んだ者の足元は燃えあがり、腿や腰までを高温の舌に苛まれました。


 かつて冷たい沈黙が横たわっていた〈魔宮〉に、灼熱と怒号が渦巻きます。


 さらにそれを吹き飛ばすようにして、ラーシュの咆哮が響きます。前衛のシーカ兵二十人。狼狽し、負傷し、それでもなお鉱夫たちを蹴散らすのに充分な精兵たちに向かって、ザーランディルを構えた無双の剣士が挑みます。


 タルナールもまた立ちどまり、ラーシュの後ろ姿を目にしました。熱風になびく彼の赤い頭髪は、敵にとっては鉱物油のそれよりも危険に燃え盛る、もうひとつの火焔でありました。


 そして白兵戦がはじまります。


 きらめくザーランディルの刃は、構えなおされた楯の隙間を縫い、掲げられた槍の柄を断ち、鎧の鋼さえ易々と穿って、あっという間にふたりを斬り伏せます。さらに三人目、四人目と、ラーシュは己を揉み潰そうとする兵士たちの間をすり抜けて、確実に手傷を与えていきました。


 聡い者は既に気づいていたはずですが、どんなに鈍い者でも、もはや思い出さずにはいられなかったでしょう。在野にありうべからざるこの剣筋を、半年前にルーオン城を出奔した、ラーシュ・ギルザルトという人物を。


 シーカ兵の間に恐れが広がります。それは味方にとって反攻の好機でありました。


 タルナールは槍を手に取り、鉱夫たちを鼓舞し、敵を追い詰めるべく声をあげます。


「ラーシュに加勢しろ! 敵を押し戻せ!」


 そもそもはじめの撤退からして作戦のうち。あらかじめ用意してあった曲刀や槌矛を拾いあげた鉱夫たちが、喊声とともにシーカ兵たちへ殺到しました。


 背後の炎はいまだ燃え尽きず、後衛とは分断されたまま。目前には瞬く間に十人近くを斬り伏せた赤髪の剣士と、それに加勢しに駆けつけた三十人のあらくれ者たち。


 十余人のシーカ兵たちは数を半分に減らすまで果敢に抵抗しましたが、やがて敗北を悟りました。ある者は傷の痛みに呻きつつ、ある者は悔しげに跪きながら、武器を捨てて降参を叫びます。


 途中、炎の壁の向こうから五、六人のシーカ兵が飛び出してきました。重い楯を捨て、火傷を覚悟で仲間を救おうとした勇敢な彼らですが、そのときにはもうアモルダート側の優勢が決定しておりました。


 増援はあえなく炎の中に押し戻され、あるいはそれぞれ四人以上の鉱夫に囲まれ、すぐさま打ち倒されてしまいました。


 やがて、ラッパが短く三度吹き鳴らされました。隊長が撤退の判断をくだしたのです。シーカ兵たちは炎に巻かれたり傷を負ったりした味方を回収することもできず、すごすごと逃げ去らねばなりませんでした。


〈魔宮〉に勝鬨が響きます。アモルダートの鉱夫たちが、あのシーカの重装歩兵を相手に勝利したのです。


「ラーシュ、やった、すごいぞ――」と、タルナールが彼を振り返ったとき、そこには身じろぎひとつせず、うつ伏せに横たわるラーシュの姿がありました。

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