第三夜 魔宮の街 -3-
盛りあがってまいりました。楽しくなってまいりました。小柄な男に味方する屈強なふたりも、赤髪の男も、鉱夫たちの中ではそれなりの腕自慢と思われているようでした。きっかけとなったタルナールの喧嘩は、もうほとんどついでのようになっています。
「野郎、思い知らせてやる」
しかし小柄な男にとっては、水に流すことのできない喧嘩なのでしょう。ふらふらと立ちあがり、ふたたび拳を構えます。
熱狂する輪の中で、ふたりと三人が闘います。蹴飛ばされた水差しからぶどう酒が零れ、ひっくり返った皿から炊いた米がまき散らされます。広間の中は興奮の坩堝。日ごろの鬱憤にひとたび火がつけば、容易に消しとめられるものではありません。
小柄な男が飛び掛かってきます。
タルナールはその突進を躱しざま、男に足をひっかけて転倒させます。今度は親切に立ってくるのを待つような真似はしません。素早く腕を取って背後に回りこみ、肩の関節をひねりあげます。
酒精の酔いも男の意地も、激しい痛みには勝てません。さきほどまでの威勢はどこへやら、男の口から悲鳴が漏れます。
「痛い、痛い、降参だ! 俺が悪かった!」
もし相手が野盗であれば、このまま骨の一本でも折ってやるのですが、酒場の喧嘩でそこまでの所業は憚られます。タルナールは男の肩を解放し、輪の中心に向き直りました。
赤髪の男はふたりを引き受けて中々の健闘、というよりむしろ優勢に立ち回り、すでにひとりをやっつけておりました。残るひとりが振り回す剛腕も、敏捷な動きで危なげなく避けています。
このまま任せても、赤髪の男は勝つだろうと思われました。とはいえ、手持無沙汰もあまり格好がつきません。タルナールは勢いづいている屈強な男の背後から、その膝を抱きかかえるように組みつきます。
がつん、と頭をうえで音がして、赤髪の男が強烈な一撃を見舞ったのが分かりました。抱えた膝の主がぐったりとして、床に崩れ落ちます。
野次馬たちが歓声を、あるいは怒声をあげました。場の興奮が高まるあまり、見境のない乱闘に発展しそうな気配でした。
そのとき、部屋の隅でチリンと鈴が鳴ります。
「お行儀よくなさいませ」
静かな、しかし不思議によく通る声でマヌーカが言いますと、まるでそれが抗いがたい命令であるかのように、広間の男たちはいっせいに騒ぎをやめました。暴力と熱狂は途端になりをひそめ、気まずい空気に取って代わります。
やがて誰からともなく、あたりに散らばった料理の残骸や割れた皿を片づけたり、倒れた男たちを介抱したり、宿の上階に引きあげたりしはじめました。
なるほど荒くれた鉱夫たちも、マヌーカの言葉には従うのだな、とタルナールは感心します。
「よう、とんだ歓迎になって悪かったな」
ひと通り場が落ち着いたあとで、赤髪の男が声をかけてきました。
「ありがとう、助かったよ」と、タルナールは礼を言います。もし加勢がなければ、いまごろは顔に青あざのひとつやふたつはできていたことでしょう。
「気にするな。ひとりに三人でかかっていくのが気に喰わなかっただけだ。俺はラーシュ。ラーシュ・ギルザルト」
タルナールも自らの名を口にし、腕を差し出して握手を求めました。彼の生国であるケッセルでは、このように挨拶するのです。
「よろしく、タル」と、ラーシュが手を握り返します。あまりの力強さに、タルナールの指がぼきぼきと音を立てました。
「ここだと落ち着かないから、外で話をしよう。おおい、ネイネイ、エトゥ。ちょっと出かけよう」
声をかけられて、部屋の隅にいた人影がふたつ、立ちあがってこちらに寄ってきます。片方は肌の浅黒い小柄な男、もう片方は若い女でした。タルナールは彼らとともに、宿を出ていくラーシュについていきます。
アモルダートには夕刻が近づいておりました。
穴の底にある〈病人街〉では陽が差さなくなるのも早く、すでに西側の半分ほどが暗がりに覆われています。昼間の稼業に精を出す人々の中には、そろそろ店じまいという者もいるようです。
ラーシュの率いる一行は、〈病人街〉の東側、夜に活気づく人々が集う、小さな盛り場まで歩いていきました。あたりではきわどい格好をした娼婦が客を誘い、堅気ではなさそうな男たちが密談を交わし、くすんだ色の天幕からは麻薬のにおいが漂います。
そんなねっとりと怪しげな一角ではありましたが、ラーシュが選んだのは比較的まともそうな酒場でした。タルナールはほっとしつつ店の中へと入り、埃っぽい筵の上に腰をおろします。
奴隷が持ってきた水差しのぶどう酒を杯に注ぎ、それをちびちびと傾けながら、タルナールはこの街には今日はじめてやってきたこと、長い間吟遊詩人として各地を旅してきたこと、〈魔宮〉で見たものを歌にしたいと考えていることなどを、目の前の三人に話しました。
「さっきは僕も少し調子に乗り過ぎた。それにしてもあのマヌーカっていう女性は、なかなか人望があるみたいだね」
「まあ、面倒を起こしたら街にいられなくなるから、そのあたりは弁えてるんだろう。それはそうと、まだふたりを紹介してなかったな」と、ラーシュはまず女の方を示します。「こっちはネイネイ」
両手で杯を持った女は、ぺこりと小さく頭をさげます。
「ネイネイはムジルタから来たんだ」
ムジルタという名前自体はご存知の方も多いでしょう。念のため申しておきますと、それは大陸の南西部に位置する森林地帯を指す言葉です。
そこには鮮やかな青い顔をした猿、人間に似た声で鳴く鳥、極彩色の蝶々、蛇のように蔦をくねらせる木、強い薬効や毒を持つ草やキノコといったものが豊富に存在し、不可思議な力を操る魔術師が大勢住むと伝えられます。
そんなムジルタからやってきたというネイネイの肌は大理石のように白く、対照的に髪は烏羽のような黒でした。ただしその中にはひと房だけ、輝く銀色の毛が混じっています。
瞳は美しいエメラルド色。頭につけた冠形の繊細な銀細工と、変わった意匠の杖も相まって、いかにも魔術師然とした雰囲気を醸しています。
「ええと、これは……」
タルが杖を見ていることに気づいたネイネイが、まごつきながらもそれを軽く掲げてみせます。真っ直ぐな樫の柄には、小さな鳥かごのような金属の飾りが取りつけられておりました。その中にあるのはどうやら灰水晶の原石です。
「ここで使うと目立つから……説明はまた今度で……」と、ネイネイは目を伏せてしまいました。どうやら人見知りをする性質のようです。
「エトゥも自己紹介しろよ、ほら」
促された男は、タルナールの目をまっすぐに見つめます。
ラーシュやネイネイに比べると、エトゥは比較的年嵩のようでした。小柄で、地味ながら彫りの深い顔立ちをしています。
よくよく見れば純粋なダバラッド人ではなく、ここから近い地域に住む、カルガと呼ばれる山岳民族の血が入っているようでした。その出自を示すためか、彼はダバラッドの男ならば必ず生やしている髭を、綺麗に剃りあげておりました。
「おれはこのあたりの村で狩人をやってた」と、エトゥは言います。
「エトゥには野生的な勘があって、道には絶対に迷わない。弓の扱いも一流だし、頼りになるよ」と、ラーシュが褒めます。
タルナールが聞くところによると、三人にははっきりとした役割分担があるようでした。エトゥが斥候として危険を察知し、ラーシュが前に立って敵に対処し、ネイネイが魔術でそれを助ける、といった具合です。
「いい仲間がいて羨ましいな」と、タルナールは率直な感想を述べました。
「ふふん。それについて提案なんだが、タル」と、ラーシュが言います。「明日、俺たちと〈魔宮〉に潜ってみないか」
なるほど。わざわざ場所を変えたのはこの提案のためだったか、とタルナールは合点します。話としては少々唐突な気がしないでもありませんが、仲間をどうやって探そうか当てがない以上、乗ってみるのも悪くない手でしょう。
「いいのか? 確かに酔っ払いのひとりやふたりはあしらえるけど、僕は戦士でも魔術師でも狩人でもない」と、謙遜しつつも、ついつい前のめりになります。
「職業なんてどうでもいい。いや、どうでもよくはないが、吟遊詩人なら、俺たちの歌を作ってくれよ。これから活躍してみせるつもりだから」
ラーシュは嬉々とした表情で言いましたが、そのあと、少し冷静になってつけ加えます。
「まあ実際的な話をすると、ダバラッド人は商売っけの強いのが多くてね。異国人は異国人同士で固まった方が、なにかとナメられにくいのさ。いいだろネイネイ。エトゥもいいよな?」
「まあ……ラーシュが言うなら」と、ネイネイは同意します。
「構わない」と、エトゥも異存はないようでした。
そのやりとりを見るに、ラーシュは随分と信頼されているようです。さきほどタルナールに助太刀してくれたことといい、優れた人柄の持ち主なのでしょう。
「ありがとう、ラーシュ。正直に言うと、ひとりで不安だったんだ。よろしく頼む」
タルナールは三人に向かって杯を掲げ、いざというときはそれぞれの楯となることを約束しました。そして酒場で遅くまで盃を酌み交わし、リュートをかき鳴らし、〈魔宮〉の街アモルダートではじめての夜を、打ち解けた気持ちで過ごしたのでした。




