第二十二夜 根源を求めよ -3-
夜が去り、朝が訪れます。
探索の二日目。蜂蜜を入れた麦粥とヤギのチーズを腹に収め、マヌーカの飴を苦しみながら舐め、焚火の始末を済ませた一行は広間をあとにしました。ここにもまた入口とは別の穴があり、〈魔宮〉のさらに奥へと続いています。
「これはなんだ?」
ふいに、先頭のエトゥが穴の付近になにかを見つけ、声をあげました。
それは陽炎に似ていました。しかし〈魔宮〉の環境で陽炎が生じるとは思えませんし、これまでに見たこともありません。なんとも怪しげな現象です。
「どうする」と、エトゥはラーシュに判断を求めます。
それに触れずに穴を通ることはできそうにありませんでしたし、穴を通る以外に進む道はなさそうです。ネイネイが陽炎を調べてみましたが、ひとまず人体には無害、ということ以外は分かりませんでした。
結局、これもエーテルを汲みあげるための仕組みだろうと推測し、あまり気にせず進むことに決まりました。
この軽挙がのちに一行を困難な目に遭わせるのですが……、ひとまずは話を前に進めましょう。
薄闇を抱く雪花石膏の通路は相も変わらず曲がりくねっていましたが、昨日より少し広くなったように思えました。きつい傾斜はあまりなかったものの、全体として見れば、緩やかにくだっているのが分かりました。
木材に現れる節か、天球の星々にも似た配置でぼんやりと照る淡い光。ともすれば錯覚をもたらす細密な幾何学模様。はじめこそずっと見ていられるような気持ちになりましたが、延々と目にしていればさすがに飽きてきます。
変化の乏しい景色を眺めながら、タルナールは物思いに耽っておりました。ネイネイは〈世界の根〉の根源を求めている。広間の秘文字によれば、そこはおそらく門であり、その先に続くのは贖罪の道である。そこにはいったいなにが待っているのだろうか? 一行の目的を満足させるようなものはあるだろうか?
「また広い空間がある。……どうも、さっきの広間みたいな場所が一定の間隔であるらしい」と、エトゥが一旦足をとめて先を指さしました。タルナールが様子を窺うと、確かに通路の先が広い空間に繋がっているようです。
しかしそこで全員が鼻をひくつかせました。流れ出てくる血生臭い空気を感じたからです。
「なにかいるな」と、ラーシュがザーランディルを抜きました。ネイネイは灰水晶の杖を一層明るく光らせます。「俺とエトゥが先に行く。タルとネイネイは五歩遅れてついてきてくれ。念のためうしろの警戒も頼む」
一行が耳を澄ませながらゆっくり進んでいきますと、誰かのすすり泣くような声が聞こえてきました。生存者がいるようです。
「くそう、来るな、来るな……」と、どこかで聞いた覚えのある声が言いました。
同時に広間の中で、ぞろり、となにか巨大な陰が動きました。それはどうも生存者を威嚇しながら、攻撃の隙を伺っているように見えました。タルナールたちは存在を察知されないよう、足音を消して突入の機会を窺います。
「死体がある。それからあれは……ジャフディか」と、エトゥが言いました。広間の薄闇の中、消えかけの松明が踊っています。
「そこに誰かいるのか!」と、こちらに気づいたらしいジャフディの叫び声。「助けてくれ! こいつは伝説の邪竜だ!」
「少し待って、魔獣が通路に入って来るのを迎え撃つってのはどうだ?」と、ラーシュが半ば冗談めかして言いました。
「それは流石にジャフディが可哀そうだ。助けてやろう」と、タルナールは苦笑いで反対します。
「まあ、それでもいいさ。邪竜だか何だか知らないが、どのみち倒さないと進めない」
ジャフディにとってありがたいことに、ラーシュは突入を決めました。
そうして、一行は穴から中に躍り込みます。
広間は今朝出発した場所とほとんど同じ造りをしていましたが、様相はまったく異なっておりました。無残に食い散らかされた死体から赤黒い血が流れ出し、あるいは飛び散って床や壁を汚しています。
ついさっきおこなわれたらしい死闘の形跡。その中心に立ち、松明を振り回しているジャフディ。いま、彼の見開いた目が向く先は――
上です!
タルナールはそこにいる夜の獣の姿を見て、思わず背すじを寒くしました。鰐か蜥蜴に似た巨体が、六本の肢で穹窿に貼りついていたのです。
異様に大きい頭から短い尾までは、差し渡し三十歩ほどもあるでしょうか。ぬらぬらとした粘液に覆われた真っ赤な長い舌が、頭を砕かれた人間の死体を巻き取っています。
新たな敵を認めた獣は、舌に巻いていた肉を早々に呑み込み、新しい肉に興味を移しました。獣はその喉をごくりと蠕動させて、死体を臓腑に収めます。
「ジャフディ、どうしてこんなになるまで戦ったんだ?」
獣の動きに目を凝らしながら、タルナールは尋ねます。
「背中を見せた奴から襲われてったんだ。睨みあってれば、すぐには襲ってこねえ。俺は最後まで勇敢に立ち向かってた人間ってわけよ」
ジャフディはなるべく強気に振舞おうとしていたが、その声は細かく震えておりました。しかし目の前で仲間を全員殺され、自分もいままさに襲われようとしているのです。意志が萎えかけるのも無理からぬことでしょう。
大きな口を閉じたり開いたりしながら、獣は赤い眼でこちらの動きを監視しています。まずはその膠着を破るべく、エトゥが弓を構えました。
飛翔した矢がその首筋に突き立つと、獣は苦痛に身を震わせました。とはいえその巨体からすれば、針で刺されたほどにしか感じていないかもしれません。獣は天井を素早く這ってタルナールの真横へと移動し、その場所から長い舌を勢いよく伸ばしました。
「うわっ」
狙われたことに気づいたタルナールは、咄嗟に槍で防ごうとしました。しかし次の瞬間、真っ赤な舌が槍の柄を絡めとり、信じがたい力でそれを引っ張ったのです。手を放すのが遅れたタルナールは踏ん張り切れず、放り出されるような形で束の間宙を舞いました。
「タル!」
ネイネイの叫び声が広間に響きます。
「伸びる舌に気をつけろ!」と、ジャフディがいまさらな警告を飛ばしました。
背中から地面に叩きつけられたタルナールは、悶絶しながらもなんとか体勢を立て直しました。夜の獣が槍を吟味し、それを食べられないと判断する間に、タルナールは急いで四人と合流します。幸い、骨は折れていないようでした。
「矢はあまり効きそうにない。少しずつ弱らせることはできるが」と、エトゥが狙いをつけながら呟いたとき、彼の方に獣の舌先が向きました。
太い肉の柱が伸びてくる直前、その進路にラーシュが立ちはだかります。しかしザーランディルに斬り裂かれる直前、舌はいきなりその軌道を変えて、ラーシュの足に巻きつこうとします。
間一髪ラーシュが飛び退いた場所で、舌がバチンと音を立てました。
「間合いが長すぎる」と、ラーシュは息をつきました。「それに、いままでのとは少し違うな。慎重なヤツだ。危険なものがなにかも分かってる」
獣の舌がしゅるしゅると巻き戻り、次の一撃に備えます。
「ねぇ、エトゥ。あの獣、武器とか持ち物とかを狙ってくると思う?」
ふと、ネイネイが尋ねました。
「ジャフディの仲間と戦ったときに、それを学んだかもしれない。なにをする気だ?」と、エトゥが答えます。
「アイツの口を火傷させてやるの。自信はないけど……やってみる。ジャフディ、松明を寄越して。タル、杖持ってて」
そう言って、ネイネイはジャフディが手にしていた松明を引っ掴むと、それにまじないを施しました。消えかけていた炎が、また少し勢いを取り戻します。
「無茶するなよ、ネイネイ」と、タルナールは言いました。
「みんなだって無茶してるじゃない。私ばっかり安全でいるわけにはいかないの」と、ネイネイは強気に言いました。これは私の旅でもあるから、と彼女の瞳が語っているようにも見えました。
ネイネイが松明を手に一行から距離を取りますと、夜の獣の赤い眼が、孤立した獲物に向けられました。タルナールはいつでも彼女を助けられるよう、杖を握る手に力を込めました。
ひと呼吸の間を置いて、肉の柱の如き舌がネイネイに伸ばされます!
舌が狙ったのは燃える松明でなく、ほとんど無防備なネイネイの胴でした。抵抗の余地もなく、彼女の身体は獣の口に吸い込まれていきます!
〈は――爆ぜろ!〉
食べられる寸前、ネイネイがなんとか結びの言葉を吐き出すと、松明の炎がひときわ強く輝きます。それは彼女の身体とともに、彗星のように光と熱の軌跡を描きながら、獣の口へ飛び込んでいきました。
ばくん、と大顎が閉じられ、じゅうう、と肉の焼ける音がしました。獣が苦痛の叫びをあげ、四肢をばたつかせながら床に落ちます。次いで開かれた口からは、煙と悪臭がもうもうと吐き出されました。
ネイネイの狙い通り、まじないで盛んになった松明の炎が、獣の口を激しく焼き焦がしたのです。
「いまだ!」
ラーシュが駆けます。タルナールとエトゥもそれに続きます。ザーランディルが致命的な部位を断ち切る間に、ねばつく皮膚と粘液にまみれたネイネイを、なんとか助け出すことができました。
長衣と髪は一部が焦げていましたが、大火傷というほどのものはないようです。幸運なことに、牙も彼女の肉体を傷つけはしませんでした。
タルナールがネイネイを獣から引きはがし、その目と鼻を拭ってやると、彼女は安堵の息をつき、ぐったりと身体の力を抜きました。
「獣は?」と、ネイネイは尋ねます。
「心配ない。今、ラーシュとエトゥがとどめを刺してる」と、タルナールは答えました。
夜の獣は首を落とされてからも、かなり長い間身体をくねらせていましたが、もはやタルナールたちを襲ってくることはありませんでした。万が一のためにそれを見張りつつ、ネイネイが自身とジャフディの治療を済ませます。
倒れている鉱夫たちも確認しましたが、残念ながら息のある者はひとりもいませんでした。埋葬しようにも固い床を掘ることは難しく、骸は安置するより仕方がありません。
「畜生……、全員死んじまった。長い馴染みもいたんだ。気のいい奴等だった」
ジャフディは顔を叩き、髭をむしりながらしばらく泣いておりました。
「残念だよ、ジャフディ。僕らがもう少し早く来てればよかったんだけど」と、タルナールは慰めます。口の悪い男ですが、こんな境遇に置かれては哀れを催さずにおれません。
「ああ……、せめてアモル石は持って帰って、こいつらの家族とか女とかに分けてやんねえと」と、ジャフディは転がる骸から形見になるものと、探索の成果を回収しはじめました。
タルナールたちが獣の腹を切り裂いて嚢を探すと、以前討伐したブルズゥルクほどではないにせよ、かなり大きなアモル石が手に入りました。金貨にすれば百枚以上にはなるでしょう。獣にとどめを刺したのはタルナールたちですが、のちほどジャフディも自分たちの功労を主張しましたので、結局、彼には売価の四割を分配することになりました。
探索については、収穫から言っても残りの物資から考えても、このあたりで折り返すのがよさそうです。一行はしばしの休息を挟んだのち、入ってきたのと同じ穴から広間を出ていきました。




