第二夜 魔宮の街 -2-
穴の底におり立ってみると、白い天幕の下にさまざまな商品が並ぶ市場でした。吊られた羊の肉、干したナツメヤシ、熟した西瓜、大麦の焼き菓子、麝香や龍涎香などの香料、松炭と獣脂で造られた化粧品。
それに加えて、ロープやランタン、つるはしなどといった、おそらく〈魔宮〉の内部で使われるのであろう道具も、あちらこちらで売られているのが見えました。
そこは穴の上から見た様子よりもずっと混雑しておりました。これではマヌーカを捜すのもひと苦労です。誰か彼女の居所を知っている人はいるだろうかと、タルナールは偶然近くにいた、白いターバンの男に声をかけてみます。
「すみません、マヌーカという女性を知りませんか」
丁寧に声をかけたつもりでしたが、無視されてしまいました。お次は、娼婦に取り巻かれた成金風の老人に尋ねてみます。
「聞きたいことがあるのですが」
老人は視線さえくれずに通り過ぎてしまいました。これは相手選びが悪かったかもしれません。
「失礼、少し話を」
タルナールが三回目に声をかけたのは、目の粗い籠を抱え、フードを被った若者でした。振り向いた彼の姿をよく見てみれば、その髪も、肌も、雪のような白色です。分厚い化粧をした男娼ではなく、どうやら元々そういう容貌のようでした。
「マヌーカという人を捜しているんですが」と、タルナールは切り出します。
しかし聞いているのかいないのか、若者はぷいと背を向けてしまいました。
いくらよそ者だからといって、これはあまりに不親切ではないか。タルナールが憤り、この場で民衆の非情を嘆く歌でも吟じてやろうかなどと考えていると、若者が再び振り向きました。そして目と表情だけをわずかに動かして、自分についてこいと促します。
なるほど、彼は極端に物静かな性格か、そもそも口が利けないのだな。タルナールはそう合点して、静かに歩き出した若者のあとについていきます。
市場を抜け、陵墓に似た黒い建物の横を通り過ぎ、ふたりは〈病人街〉の北端までやってきました。そこにあったのは、ゆるく湾曲した穴の内壁に沿ってそびえ立つ、大きな集合住宅のような建物です。縦にも横にも長く伸びた灰色煉瓦の外壁には、ざっと五十以上の窓がついておりました。
「ここは?」と、タルナールは若者に尋ねますが、彼は答えません。黙ったまま木の扉を押し開け、建物の中に入っていきます。タルナールはため息をついてから、それに続きました。
屋内は薄暗く、天井は低く、どことなく洞窟か地下牢にも似ていました。入ってすぐの場所は広間になっていて、多くの男たちが筵に座り、くつろいだ様子で飲み食いをしていました。味の濃い煮豆やぱりぱりに焼いた鶏肉の旨そうなにおいが、タルナールの鼻先にまで漂ってきます。
白肌の若者が広間を横切って奥に向かう間、飲み食いをしている男たちが、無遠慮な視線をタルナールに投げかけます。
ただの客か、新しい鉱夫か、あるいは海千山千のしたたか者だろうか、それとも世間知らずのカモだろうか? とはいえそんな品定めも、根無し草であるタルナールにとってはいつものことでした。
広間の奥には小さなかまどがあって、そこではひとりの女が腰をおろし、なにやら怪しげな薬を調合しているところでした。白肌の若者は女に近づくと、籠から薬草のようなものを取り出して手渡し、そのまま広間の一角に座り込みました。
タルナールは彼らの様子を眺めながら、しばらく入口付近で佇んでいましたが、いつまでも遠慮していたところで埒が明かないと悟り、自らも広間を横切って女に声をかけました。
「そこのご婦人、僕はマヌーカという女性を捜しているんですが、もしや?」と、尋ねてみます。
「ええ。マヌーカとはわたくしのことでございます」と、女性は薬を調合する手をとめずに答えました。彼女は口元に面紗を垂らし、細かい刺繍の施された黒い衣を纏っていました。
黒曜石のような瞳の中には、わずかに虹色の輝きが見て取れます。腕と脚は細く長く、立ちあがったときの背丈はタルナールを越えるほどと思われました。
肌はダバラッド人特有の滑らかな褐色をしています。年齢についてはよく分かりませんでしたが、声や仕草には並々ならぬ妖艶さがありました。
「僕はタルナールといいます。バーラムの館から来ました。〈魔宮〉にもぐりたいと言ったら、マヌーカを訪ねろと」
「〈魔宮〉に潜る方は大抵ここで寝起きされます」と、マヌーカは言いました。「あなたが望むなら部屋をご用意いたしますし、食事もお出しします。もちろん代金はいただきますが」
どうやらこの建物は宿であり、鉱夫たちの拠点となっているようです。
「楽器を演られるのでしょうか?」と、タルナールが持っているリュートに目をつけたマヌーカが言いました。
「ええ。この場所には歌を作るために来たんです。もちろん冷やかしではなく、実際にアモル石を採る仕事もします」と、タルナールは言いました。
「冷やかしだろうと遊び半分だろうと、わたくしは一向に構いません。決まりを守り、ほかの方と仲良くしてくださるならば」
黒い面紗の向こうで、マヌーカの口が薄い笑みを作ります。
「なんにせよ、まずはどなたとお仕事をするか、吟味して決めることをお勧めいたします。浅い層で小さなアモル石を採るというのならば別ですが、それだと物語としてはあまりに単調でございましょう」
なるほど仲間、とタルナールは広間を見回しました。〈魔宮〉はこれまで旅してきた土地とはかなり違った場所のようでしたし、夜の獣への対処という問題もあります。ひとりでうろうろしていれば、早晩困った事態に陥ることは間違いありません。
しかしどのような仲間を、どうやって見つければよいだろう。タルナールはひとりで仕事をすることが常でしたので、どうにも要領が分かりません。あまり下品な人間とはつるみたくありませんし、かといってお高くとまった名士気取りも苦手です。
タルナールが思案しておりますと、おもむろにこちらへ近づいてくる者がありました。
「見ない顔だなあ、綺麗なお嬢さん。娼婦なら〈魔宮〉に潜るより、男相手に腰を振ってた方がいいんじゃないのかい?」
声をかけてきたのは、筋張った身体つきの小柄な男でした。顔立ちは純粋なダバラッド人のようですが、肌は病人のように青白い色をしています。表情には、新参者に対するあからさまな侮りと敵意が浮かんでいました。
とりあえず突っかかってみて、自分の方が上の存在だと教えるのは、盛り場のごろつきがよくやる手口です。さきほどまで筵に座って飲食をしていた男たちも、好奇の視線を向けて成りゆきを見守っています。おそらくはこの界隈でしばしば開催される、意地の悪い娯楽なのでしょう。
もちろん、タルナールはあしらい方を心得ています。
「困ったな。〈魔宮〉に潜ると、目が悪くなるのか」と、男を半ば無視するようにして呟きます。「それとも頭が悪くなるのかな。可哀そうに」
野次馬たちがクスクスと笑います。今度の新顔は、少なくとも臆病者じゃないようだ、と。
「俺をこけにするとはいい度胸じゃねえか」と、小柄な男が大声で威嚇しました。その顔が怒りで土気色に変じます。
「この街では阿呆をからかうのにも度胸がいるのか? 知らなかった、許してくれ」と、タルナールはさらに挑発します。いったん反撃をすると決めたなら、相手を負かすまでやらなければなりません。
「てめえ――」と、男は感情のままに殴りかかってきます。「そのにやけ顔を焚火に突っ込んで、黒焦げにしてやるぜ」
タルナールはその脇を潜り抜け、繰り出される拳を躱しながら、なおも挑発を続けました。
「アンタ、踊り子か? なかなか上手だよ。どんな人間にだって、ひとつぐらいはいいところがあるな」
男はかなり長い時間酒を飲んでいたらしく、いまひとつ足元が覚束ない様子です。そのうち筵の端に爪先をひっかけ、盛大に転がってしまいました。周囲でまた笑い声が起こります。
しかしこのあたりで野次馬も、新顔を調子づかせるのはよくないと判断したようです。屈強な男がふたり、立ちあがってパキパキと拳を鳴らしました。
酔っ払いひとりが相手ならともかく、これは少々分の悪い勝負です。とはいえ、いまさら頭をさげるくらいなら、最初から言い返したりなどしません。二、三発殴られたうえで、生意気なところを見せておくのが落としどころか。
タルナールがそう思いはじめたとき、野次馬の輪に割り込みながら、声をあげる男がいました。
「おい、三人がかりなんて恥ずかしくないのか」
助け舟を出してくれた男は、どうもダバラッドの人間ではないようでした。盛んな炎を思わせる赤い髪、澄んだ淡い青の瞳は、西方にあるシーカという国に住む人々の特徴です。
赤髪の男はずんずんと歩み寄ってきて、タルナールの右腕に拳を軽く当てました。これは『お前の右側を楯で守ってやる』という意味を持つ、シーカの戦士が使う古式の挨拶です。
「さあ、来い。卑怯者ども」と、赤髪の男は言いました。