第十九夜 さまよう狩人 -6-
丈の低い草を踏みしだき、駱駝と馬が荒れ地を駆けます。エイブヤードから吹き降ろす風が、一行の衣服を激しくはためかせました。
手綱を握るタルナールは激しい戦いを予感しつつ、頭の中でラーシュとの訓練で教えられたことを反芻します。すぐ背後にいるエトゥの吐息や身じろぎには、強い焦燥の気配がありました。
「あそこだ」
道のりも半分ほど来たと思われたとき、出し抜けにエトゥが言い、傍で馬を駆るラーシュにもそれを伝えます。タルナールが目を凝らしてみれば、地平線上に豆粒のような砦の影が見えました。
それから砦の手前にも、なにやら動くものがありました。どうやら駱駝に乗った誰かが向かってきているようです。数は三つ。一行との距離は急速に縮まっていきます。
「ヤツらだ。間違いない」と、エトゥが低い声で言いました。
相手もこちらの存在に気づいたようで、ほんの少し速度を緩めました。やがて互いに二百歩の距離まで近づきます。以前、孤児院に押し入ってきたふたりと、見覚えのないひとり。ごろつきたちは偃月刀を抜いて、明らかな交戦の意思を見せました。
「交渉の余地はなしだな」と、ラーシュが呟きます。彼のザーランディルはまだ鞘の中。「エトゥ、手伝いは要るか?」
「いいや」と、狩人はぞっとするほど低い声で言いました。
軽々と駱駝よりおり立ったエトゥは、手にした弓に矢をつがえ、ゆっくりと狙いを定めました。ごろつきたちが速度をあげ、武器を振り回して突撃に移ります。
その距離、百歩あまり。強靭な弓弦の音が響きます。
放たれた矢は風の影響を受けてわずかに曲がり、それでも目標を過たずにひとりの胸へと吸い込まれていきました。
タルナールが命中を確認するころには、すでに次の矢がつがえられておりました。
射撃。命中。ふたり目は首を貫かれて力なく駱駝から落ちます。
正確で無慈悲な二本の矢。あっという間に仲間を斃された最後のひとりは慌てて駱駝の脚をとめ、いま来た道を戻ろうします。しかしその怯えた表情が窺えるほどの近い距離で、狩人の弓から逃れることはできませんでした。
ひょう、と飛んだ矢が男の腰に突き立ちます。
「ラーシュ、タル、捕まえてくれ」と、エトゥが言いました。
彼の速射に見とれていたタルナールは、はっと我に返りました。駱駝の手綱を握り、鞍に突っ伏したごろつきを追いはじめます。ラーシュとふたりでその前に出て進路を塞ぐと、ごろつきは荒い息を吐きながら、偃月刀を投げ捨てて降参しました。
「こっちの彼女は魔術師だ。俺たちの質問に答えればまじないで傷を治してやる。答えなければ足を縛って、そのまま捨てていく」
ラーシュが抵抗の意思を失くしたごろつきを馬から引きずりおろし、地面に跪かせます。突き刺さった矢は脇腹の深い場所を貫いて、汚れた衣服の前後に血の染みを作っておりました。
そのうちエトゥが徒歩で追いついてきて、冷たい声で尋問をはじめます。
「孤児院の娘を攫ったな?」
生き残ったごろつきは孤児院に押し入ったひとりでしだ。その眼は驚愕と屈辱に揺れ、顔にはびっしょりと脂汗をかいています。
「ああ、攫った」と、ごろつきはがくがくと頷きます。
「あの砦にいるのか?」
「そうだ」
「仲間は何人だ?」
「……九人」
「本当か? おれたちは急いでる。少しでもごまかしがあれば、治療はなしだ。どのみち矢がはらわたを傷つけてるなら、手遅れかもしれないが」と、エトゥが目を細めました。
「違う、嘘はついてない! 砦にいるのは多くても九人だ、それからさっきの娘がひとり。頼む、治療してくれ」と、ごろつきは苦しげに顔を歪めながら言いました。
その言葉が真実かどうか確かめる術はありません。しかし必死な表情を見ると、嘘をついているようには思えませんでした。
「ネイネイ、治療してやってくれ。タル、こいつの足を縛ろう」と、エトゥが言いました。
「おい、逃がしてくれるんじゃなかったのか?」と、都合のいい思い込みをしていたごろつきが抗議の声をあげます。
「おれがいつそんなことを言った? お前は帰りに回収して、アモルダートの兵士に突き出す」
これ以上取引の余地がないのを悟ると、思慮の足らなそうなごろつきも、さすがに観念したようでした。タルナールたちは彼に最低限の治療を施し、逃げられないように拘束してから、ほかのごろつきの骸と一緒に転がしておきました。彼らが乗っていた駱駝は、いつのまにか逃げてしまっておりました。
目指す方向には、鮮やかな青天を支えるエイブヤードの峰々が見えます。一行は再び駱駝と馬に跨り、無法者たちのねぐらへと近づいていきました。
市場の奴隷商は古い砦があると言っていましたが、正確に言えばそれは砦の跡で、防壁や塔はそのほとんどが倒壊しておりました。乱杭歯のような凹凸を晒している部分はまだいい方で、完全に崩れた箇所では風化した石材が小山を成し、歴史の彼方に忘れ去られるのを待っているようでした。
一行がさらに近づいて砦全体の様子を窺っていると、防壁の影から山なりに矢が飛んできて、少し離れた地面に刺さりました。これ以上近づくな、という見張りからの警告です。
「お待ちかねみたいだ」
ラーシュがザーランディルを抜き放つと、その刃が陽光を受けて十字に光りました。
「作戦は? そのまま突っ込むのか」と、タルナールは尋ねました。正面から近づけば、さすがに無傷では済まないでしょう。
「馬と駱駝を楯にしながら近づこう。ネイネイはどうする? ここで待つか?」と、ラーシュは提案します。
「大丈夫。……私だって自分の身ぐらい守れるから」
そう言いながら、ネイネイは杖の頭部にまじないをかけます。より硬く、重く、ごろつきの頭を砕けるようにするためです。
「おれはこっそり背後に回り込もう」と、エトゥは防壁の方を睨みながら、呟くように言いました。直後、風に吹かれる彼の顔はほとんど景色と同化して、足元に落ちる影さえも一段と薄くなったように思えました。狩人が仕事をはじめようとしているのです。
タルナール自身も槍を握り直し、腹の底に気合を込めました。酒場の喧嘩には慣れていましたが、人間相手の本格的な戦闘はほとんど経験したことがありません。それでも仲間の存在は随分と心強く、十人だろうと二十人だろうと、相手取れそうな気がしてきました。
「僕も心の準備ができた。行こう」と、タルナールは言いました。
馬と駱駝の手綱を握り、弓の射線に身を晒さないよう、三人は注意深く進んでいきます。エトゥは一行から離れたあと、すぐ景色に紛れて見つけられなくなりました。
外側の防壁から三十歩の距離。最初の一本以降、矢は飛んできていませんでした。その代わり、偃月刀や槌矛で武装したごろつきが五人ばかり、防壁の影からぞろぞろと姿を現しました。敵と味方。互いに目鼻が分かるような距離での対峙です。
「弩がお前らを狙ってるぞ!」と、首領格らしき男がだみ声で叫びました。汚れたターバンの下にあるのは、髭に覆われた褐色の肌。狂暴そうな三白眼をカッと見開き、こちらを威嚇しています。
タルナールは馬体の陰からこっそりと顔を出し、伏兵の姿を確認しました。崩れかけた防壁の上に、弩でこちらを狙うごろつきがさらにふたり。
「あのシーカの女を取り戻しに来たんだろう。格好つけて死ぬのは馬鹿のやることだぜ。それともお前らも奴隷志願か?」と、首領が言います。四人の取り巻きがにやにやと笑い、これ見よがしに得物を振り回して見せました。「いますぐ回れ右すれば許してやる。大人しく帰って商売女でも相手にするんだな」
タルナールは彼らを愚か者だと思いました。金を稼ぐため、このような卑劣な手段を採ることに対してではありません。こちらを挑発するために吐く、面白みのない軽口に対してでもありません。あの練達の狩人を怒らせ、なお脅迫の余地があると考えていることに対して、愚かだと思ったのです。
果たして、彼らの死角から飛んできた矢が、弩を構えたひとりの後頭部に突き刺さりました。声もなく防壁から落ちた身体が立てた音で、ごろつきたちはようやく奇襲に気づきます。
それと同時に、ラーシュが吠えました。それは味方の臓腑さえ抉るような、気迫のこもった雄叫びでした。一度に二方向から攻めたてられた敵は明らかに浮足立ち、咄嗟に応戦の態勢を整えられないでおりました。
ラーシュが疾り、タルナールとネイネイもそれに続きます。飛んできたエトゥの矢が、二人目の射手を絶命させました。
「おおおおお!」
ザーランディルが振られるたび、ごろつきの腕が刎ね跳び、首が落ち、胴体が両断されます。
その恐るべき切れ味! さながら、刃でできたつむじ風です。触れる者はみな、瞬く間に切り刻まれ、血を噴き出させ、命を落としていきます。
タルナールはラーシュの背後を守るつもりでいましたが、正直その必要もなかったのではと思うほどに、圧倒的な剣技でありました。
しかし乱戦の中でひとりがラーシュの剣をすり抜け、昂奮と殺意に濡れた眼を光らせながら、タルナールに迫ります。咄嗟に短槍で相手の肩を突き刺すも、既に振りあげられていた偃月刀の刃はとまりません。
そのとき、タルナールのすぐ横で振り抜かれたネイネイの杖が偃月刀を防ぎ、そのまま弾き飛ばしました。援護を得たタルナールは再び短槍を振りかざし、目の前にある胸板を勢いよく貫きます。相手を押しのけるようにして穂先を引き抜くと、飛び散った鮮烈な赤色が地面を汚しました。
気づけば、ラーシュは残る相手すべてを斬り伏せておりました。
短い戦闘が終わりました。血のにおいが束の間漂い、すぐに風で流されていきました。
タルナールは動いている敵がいないのを確認すると、瓦礫を乗り越えて砦の内側に入っていきました。エトゥが周囲を警戒しつつ、慎重な足取りでこちらに向かってくるのが見えます。
「ひとり、仕留め損ねた」
そう言うと、エトゥは砦の一部を示しました。そこはかつて塔だったらしく、まだ壁が十分残っていて、誰かを捕まえておくのに適した場所のように見えました。
合流した一行は、残党とサーニャの姿を探してゆっくりと塔に歩み寄りました。瓦礫が取り除かれた入口の陰からタルが中を窺うと、そこには手足を縄で縛られたサーニャの姿がありました。
「サーニャ」
エトゥが誰よりも早く駆け寄り、彼女の無事を確かめます。サーニャははじめ気丈に振舞っていましたが、拘束を解かれて気が緩んだのか、やがてぼろぼろと涙を流しはじめました。
しかし見たところ、それほど手ひどい扱いは受けていないようです。半ば腹いせの所業であるとはいえ、奴隷商として最低限の規範は備えていたということでしょう。
「もうひとりいたんだが、見てないか?」サーニャに胸を貸し、彼女が落ち着くのを待ってエトゥが尋ねます。
「あそこに入口があるんです」と、サーニャは言いました。「地下室か、洞窟みたいな……」
残党たったひとりでなにができるとも思えませんが、野放しにするのも気持ちが悪いものです。エトゥとサーニャをその場に残し、タルナール、ラーシュ、ネイネイで確認してみることにしました。
サーニャが示した場所には、ぽっかりと穴が空いておりました。人ひとりが十分通れる大きさがあり、かなり奥の方まで続いているようです。顔を近づけてみれば、ひんやりとした空気が漏れ出してきていました。
ネイネイの杖に光を灯してもらい、それを突き出しながら穴の中を探っていきます。地下空間はまず起伏の大きい岩の通路になっており、それを少し進むと縦抗に繋がっておりました。
そこには最近設置されたらしい縄梯子まであります。生き残ったごろつきは、これをおりていったに違いありません。
「ねぇ、これって硫黄のにおいじゃない?」と、ネイネイが鼻を鳴らして言いました。「もしかするとこの下は……」
そのとき、岩壁に掴まっていたらしい小さな生き物が、ぱっとこちらに跳びかかってきました。
「うわっ!」と、ネイネイが杖を振り回すと、その生き物は地面に叩きつけられてべしゃりと潰れました。蝙蝠だろうかと確認してみますと、どうやら違うようです。
「タル、これ、夜の獣だ」と、ラーシュは死体を摘みあげ、光にかざします。確かにそれは黒色の体毛、赤い眼、六本の脚を持つ、異形の姿をしておりました。
「つまり、この穴は〈魔宮〉に繋がってるのか」と、タルは縦抗の縁から顔を出し、くんくんとにおいを嗅ぎます。それは確かに硫黄の臭気を孕む、底知れない〈魔宮〉の空気でありました。
*
ともすれば悲惨な結末もあり得た一件でしたが、最終的にはサーニャを無事に連れ戻すことができ、不埒な奴隷商とその手下たち――おそらくは〈魔宮〉での盗掘にも手を染めていた者たちも、そのほとんどを討伐することができました。
はじめ非協力な態度だったアモルダートの兵士たちは、廃砦に〈魔宮〉への入口があると知った途端に掌を返しました。バーラムは盗掘者の討伐と、彼らが蓄えた財宝の対価、それから新たな入口発見の報償として、タルナールたちに金貨五十枚を与えました。
そして今回の出来事は、〈魔宮〉探索をさらに過熱させました。
〈病人街〉にある入口から、以前にタルナールたちがブルズゥルクと対決した場所まで、これまではほとんど丸二日の時間がかかっていました。足場が悪く、起伏があり、道も入り組んだ洞窟を、夜の獣と戦いながら、徒歩で進まなければならなかったからです。
しかし今回発見された入口は、それとほぼ同じような地点まで、半日の距離で到達できることが分かりました。これは大型の獣を狙う鉱夫たちにとって、特にありがたい変化でした。
鉱夫たちが潤えば、孤児院のサーニャや子どもたちにも多少の恩恵があるでしょう。
ごろつきたちのような存在は確かに恐怖です。しかしアモルダートの活気があるからこそ孤児院の運営が成り立つ、というのもまた間違いのない事実なのです。
〈魔宮〉を受け入れるか、それとも憎むか。人生は矢のように迷いなくは進みません。エトゥが自分の気持ちに整理をつけるのは、まだ少し先のことになるでしょう。