第十八夜 さまよう狩人 -5-
物語を本筋に戻しましょう。アモルダート市街にぽっかりと空いた穴の縁。〈病人街〉を一望できる崖の上で、タルナールとエトゥは乾いた地面に座り込み、宵闇の中で蠢く人々の営みを、見るともなく眺めておりました。
昼間に子どもたちと騒いだせいで、宿で酒盛りをする気にもなれなかったタルナールは、ぶらぶらと散歩をするうち、偶然エトゥと出くわしたのです。
彼もまた思うところあって人の群から離れ、足の向くままに彷徨していたとのこと。先に腰をおろしたエトゥに倣ったタルナールは、彼から長い身の上話を聞きました。
吟遊詩人や商人は例外として、ラマルエルナに住むほとんどの人々は、自分たちの住む町や村の中で一生を終えます。そういう人々にとってみれば、故郷が衰退していくということは、身体の一部が腐っていくにも等しいのだろう、とタルナールはエトゥの心情に想いを馳せます。
「おれがもう少し早く決断していれば、ユンは死ななかったかもしれない」と、エトゥが呟きました。
「エトゥのせいじゃない」と、タルナールは言いましたが、我ながら平凡で虚しい慰めだなあ、とも感じました。
〈魔宮〉を憎みながらもそこで働き、夜の獣の根絶を志す。それは不合理で危険な考えです。自ら破滅の盃を飲まんとするがごとき心の働きです。しかし既にこの意思はエトゥの魂にこびりつき、容易に切り離せないものとなっているようでした。
大多数の鉱夫は、欲ゆえに〈魔宮〉に引き寄せられます。しかしエトゥの場合、憎しみと悲しみこそが、脚を前に進ませるために必要な、棘つきの鞭であり拍車なのでした。
「もちろん、いつもそんなに深刻なばかりじゃない。ラーシュやネイネイといた時間は楽しかったし、サーニャや子どもたちも、いまは家族みたいに思える。でもやっぱり当分は、〈魔宮〉もアモルダートも好きにはならないだろう」と、エトゥは言いました。
ふたりの眼下にある〈病人街〉の一角で、大きな笑い声が聞こえました。誰かが酒を飲んで騒いでいるのでしょう。
「そろそろ戻るよ。寒くなってきた」と、エトゥは立ちあがり、そのまま振り返ることなく階段をくだっていきました。タルナールは彼の背を見送ってからも、しばらく脚を抱えるようにして座ったまま、南の空に冷たく輝く星々を眺めておりました。
*
翌日の朝、宿に思いがけない来客がありました。正確に言えば、外で騒ぎになっているのを、タルナールとエトゥが迎えに行ったのですが。
〈病人街〉に慌てた様子で駆けこんできたのは、十二、三歳の痩せた少年でした。タルナールに覚えはありませんでしたが、エトゥはすぐに彼を見分けました。
「ジャワン、どうしたんだ」
どうやら孤児院の子どもであるようです。目鼻立ちのくっきりした、利発そうな顔をしていました。
「サーニャが攫われた! 早く来て!」と、少年は慌てた様子で言います。
「なんだって? いったい……」
事情を問いただそうとしたタルナールを、エトゥが制します。
「タル、悪いがラーシュとネイネイを呼んできてくれ、おれの弓矢も頼む。それから孤児院へ」と、彼は素早く判断をくだしました。
「エトゥはどうする」
「先に行ってる。どうやらただごとじゃない」
そう言うが早いが、エトゥは少年とともに駆け出しました。タルナールはひとまず彼の言う通り、ラーシュとネイネイを呼んで孤児院へ向かおうと決めました。事態を把握するのはそのあとでもよいでしょう。
既に起きていたふたりに用件だけを伝え、念のために武器を用意してから、共にアモルダートの北市街を目指します。
「こないだの悪漢どもだと思うか」と、タルナールは走りながら尋ねました。
「それ以外には考えられない。くそ、もっと痛めつけとけばよかったな」と、ラーシュは答えました。あるいは刺激したこと自体がまずかったか、という後悔の表情です。
人出の多くなってきた通りを駆け抜け、貧民街の雑多な路地を進みます。一度、ネイネイが派手に転んでテントの中に頭を突っ込みましたが、それ以外は問題なく孤児院へと辿り着くことができました。
息を切らしながら庭先に入ってみれば、右往左往する子どもたちをレンヤが宥めているところでした。先に来ていたエトゥは、軒下でふたりの兵士と言い争っています。
「アモルダートの衛兵は、人さらいを野放しにしておくということか」と、エトゥは食ってかかります。冷静な口調の中にも、さすがに怒りの響きが混じっておりました。
「生意気な口を叩くな。俺たちはアモルダートを守るのが仕事であって、ごろつきを追いかけていくほど暇じゃない」と、兵士も強硬です。
「誘拐が繰り返されたらどうする」
「そのときはそのときに対処するさ」
上等な皮鎧と槌矛で立派に武装した兵士たち。きらりと光る銀の腕輪は、彼らがバーラムに忠誠を誓い、その富と権力を誇示するための存在であることを示しています。もちろん有事には兵力となるのでしょうが、犯罪を取り締まるという役割には、あまり熱心でないようです。
エトゥは兵士に侮蔑の視線を向けたあとで、タルナールたちに向き直ります。
「ジャワンから詳しい話を聞いた。攫われたのは半刻前。子どもを郊外の農場まで送っていったとき、駱駝に乗った盗賊が襲ってきたらしい。サーニャが連れ去られて、残った子どもがなんとかここまで戻ってきた」
「盗賊はどっちへ?」と、ラーシュが尋ねます。
「市街の辺縁を経由して南へ逃げたそうだ。いまから探しに行こうと思ってる」
「南といっても広いぞ」
「分かってる。けど、ほかに知恵がない」
そう言うエトゥの表情と声には、珍しく焦燥が滲んでおりました。
「……僕が場所の見当をつけてくる。半刻だけ時間をくれないか」と、タルナールは言いました。サーニャとは昨日一度顔を合わせただけの間柄ですが、あんなに健気な娘がひどい目に遭うのは許せません。「説明はあとだ。エトゥたちは移動手段を確保して欲しい。馬でも駱駝でもいい」
三人は束の間顔を見合わせましたが、迷う様子はありませんでした。
「なにか考えがあるなら、おれはそれに従う。頼む。子どもたちの悲しむ顔は見たくない」と、エトゥは言いました。
「それは僕も同じだ。まだ聞いてもらってない歌が沢山ある」と、タルナールはエトゥを安心させるようにその肩を叩き、孤児院での再集合を約束してから、市街の中心部へと取って返しました。駆け足で向かうのは、アモルダートの市場です。
タルナールは昨日に孤児院であったやりとりを思い出します。ごろつきたちは子どもを奴隷として売り飛ばしたいと考えているようでした。しかし子どもの奴隷を欲する主人がいたとしても、身元の怪しい人間からは買ったりはしません。必ず奴隷商人の仲介があるはずです。
朝から活気あふれる市場の一角へ行ってみると、アモルダートの外側から連れてこられた奴隷が通りに並べられ、富裕な買い手たちの品定めを受けていました。
ご存知の通り、ダバラッドの奴隷は商品として売り買いされ、居住の自由や婚姻も制限され、大抵の場合は財産を持つことも許されません。
しかし親切な主人のもとで教育や訓練を受け、平均的な市民よりよい暮らしをしている奴隷もまま存在するのです。だから非常に貧しい人々は、ときとして最低限の生活を確保する手段として、進んで奴隷に身を落とすこともあります。
しかしそれは本人がその生き方を選ぶからこそ許されるのであって、他人を攫ったり脅したりして奴隷にするような人間やそれを扱う商人は、どこへ行っても爪はじきにされます。
タルナールは今回の犯人がそういった悪評を立てていないか奴隷商人たちに聞きまわり、居場所の見当をつけるつもりでいたのでした。
「お兄さん、どんな奴隷が入用かね?」
市場に入るとさっそく、恰幅の良い中年の奴隷商が声をかけてきました。
「元気な子どもはいるかな。十四、五ぐらいの女でもいい」と、タルナールは尋ねます。
「それはあんまり取り扱いがないね。いても、高いよ」
「扱ってるような人間に心当たりは?」
「どうしてもお求めとあらば、私が仕入れておきますよ」
目的はあくまで情報を集めること。タルナールは考える素振りを見せます。
「北の貧民街にある孤児院の子どもが、売りに出されるって耳に挟んだんだけど……」
その言葉を聞くと、奴隷商に反応がありました。
「私もその話は知ってますがね、あそこを狙ってるような連中は、商人としても下の下ですよ。唯一なる者の名にかけて、ウチの奴隷たちはちゃんとした経路で仕入れてますから」と、奴隷商は言いました。
「そりゃあ、すまない。ところでその連中っていうのはどういう人間なんだ?」と、タルナールは尋ねます。
「早い話がごろつきですよ。仁義を知らない人間でね。半分盗賊みたいなもんだ。探すのはやめといた方がいいんじゃないですかね。兵士の目を恐れて、街の外にいるみたいだから。
お兄さん、そんな人間から奴隷を買うってのは得策じゃないです。見えない病気を持ってたり、実は処女じゃなかったり。扱いもひどいもんですよ。ぜひウチでお買いなさい。ほらこの娘、満月のように可愛らしいでしょう。礼儀もわきまえてますし、最低限の読み書き計算だってできます」
「街の外っていうのは、具体的なねぐらがあるのかな?」と、タルナールはさらに尋ねます。
「……ははあ、お兄さん。本当のところ、奴隷を買いに来たわけじゃないね?」と、ここで奴隷商もなにかを察したようでした。彼は声を低くしましたが、気分を害したわけではなさそうでした。タルナールはそろそろ正直に話した方が得策だろうと判断し、本当の事情を打ち明けます。
「うん。実はそうだ。知り合いが攫われた」
「そのごろつきどもにかい? あんまり関わるのはお勧めしないね。人数も多いだろうし、武器も持ってるはずだ」
「大丈夫、こっちも腕利きがいるから。あんたの商売敵を潰してやるよ」
タルナールが言うと、奴隷商は腹を揺らして笑いました。
「豪気だねえ! よし、教えてやろう。これはあくまで噂話で、私が直接確かめたわけじゃないから、万が一間違ってても怒らないでおくれよ」
「いいから、早く話してくれ」
「ここから南。馬なら駆け足で半刻の場所に古い砦がある。いまは使われちゃいないし、長らく放っておかれてボロボロだが、野ざらしよりはましなんだろう」
このあたりはシーカやケッセルとの境にも近く、政情が不安定だった時代には、それらの国との小競り合いも起こっておりました。そのときに建造された砦のうちひとつが、ごろつきたちのねぐらになっている、と奴隷商は言いました。
「そこから遠くに奴隷を売り飛ばしたり、禁制品の取引をしてるって噂だ。わざわざ近寄りたがる人間はいないし、アモルダートの衛兵も知ってるのやら、知らないのやら」
どうやら、思いのほか大仕事になりそうです。
「早速行ってみることにするよ。悪いね、時間を取らせた」
「なに、気にしなさんな。勇敢な旦那に幸運がありますように!」
思いのほか早く情報を手に入れることができました。いまから砦に乗り込むとなると、昼日中の戦いということになります。本当は夜襲が一番いいのですが、あまり長引かせるとサーニャの身が危なくなります。
陽射しに温められた貧民街の饐えた臭いを嗅ぎながら、タルナールは孤児院へと戻りました。動揺している子どもたちを勇気づけながら少し待っていると、ラーシュたちが駱駝を一頭、馬を一頭連れて帰ってきます。
「どうだった」と、エトゥがやや勢い込んで尋ねました。
「南にある砦が怪しいって話だった。距離は馬で半刻」と、タルナールはさきほど得た情報を共有しました。「駱駝には僕が乗ろう。何度か経験がある」
「じゃあ、俺とネイネイが馬に乗る。エトゥはタルに乗せてもらえ」
そう言うなりラーシュは馬に飛び乗り、ネイネイを尻馬に引きあげました。
こうして一行はレンヤや子どもたちに見送られ、無法者たちからサーニャを取り戻すべく砦を目指したのです。