第十七夜 さまよう狩人 -4-
さて、少しばかり物語の本筋を離れます。ここでしばらく時間を割いて、我らが〈魔宮〉探索の仲間であるエトゥの身の上をお話ししておきましょう。
エイブヤードの中腹には、古来よりカルガ人と呼ばれる狩猟民族が住みついておりました。彼らはダバラッドの平地に暮らす人々と近しい見た目をしておりましたが、平地の民が概して人懐こそうな顔貌をしているのに対して、カルガ人たちの顔はどこか風雨に晒された山肌のような、峻厳な顔つきをしているのが特徴でした。
両者の文化は多少異なりましたが、特にいがみあっていたわけでもありません。時代がくだるとカルガ人は段々と麓におりてきて、平地のダバラッド人たちと混血し、定住して村を作るようになりました。
エトゥが生まれたのも、そのようにしてできた村のひとつでした。せいぜい三、四十人が住んでいる程度の小さな集落で、人々はひとつの家族のように暮らしていました。
太陽が遥か東の平原からのぼり、雄大にして冷厳なるエイブヤードの頂を通り過ぎ、西にある内海の向こうへと沈んでいく。繰り返される季節と星の巡りの中で、人々は小さな畑と、家畜と、森の恵みを糧として、決して豊かではなかったものの、素朴で平和な暮らしを送っておりました。
ご存知の通り、ダバラッドの国土は大部分が乾燥した大地です。けれどもエイブヤードの麓には、まだ湿りけを残した風が吹き、季節に応じた雨が降り、川の水も豊か、草木も育ち、野生の獣も多くいたのです。
しかし暮らしは安楽なばかりでなく、あるとき周辺の地域を疫病が襲いました。それは村や町を壊滅させるまでには至りませんでしたが、犠牲者の中には運悪く、当時五つだったエトゥの両親が含まれておりました。
父と母の死を理解できるかできないかの年頃で、エトゥは隣村にある遠縁の家へ引き取られていったのです。
引き取られていった先に住んでいたのは父と娘の二人。娘の方はユンという名で、そのときはようやく乳離れをしたぐらいの年頃でした。母はエトゥの両親が罹ったものと同じ疫病で、既に亡くなっておりました。
エトゥの育ての父となる人物は、狩りを生業とする者でした。カルガ人は元々優れた狩猟者であり、昔から見通しのいい山肌や麓近くの森林で、ヤギや猪、鹿を獲って暮らしていたのです。
戦時になればその技術は遥か遠くから敵を射殺す武力となり、敢えてそれを相手取ってまで、エイブヤードを侵そうという勢力はいませんでした。
エトゥの育ての父もまた、カルガ人の血と技を色濃く継いでおりました。ユンは生まれつき身体が弱かったので、エトゥを迎えたときの父は、後継ぎができたと大層喜びました。引き取られてからそう日が経たないうちに、エトゥは弓と矢を持って森に連れ出されました。
「ぼうず、弓を射るときに一番大事なことはなんだと思う」
はじめてエトゥが狩りに出たとき、父はこう尋ねました。
「……相手に当てること?」と、エトゥが答えると、父は無骨な顔を緩めて首を振り、エトゥの頭に手を置きました。
「もちろんそうだが、一番じゃない。大事なのはな、ぼうず。心を静かにすることだ。心を静かにしていれば余計な物音も立てずに済むし、怖くなったりすることもない。獲物に釣られて興奮することもない。心を静かにすることが一番。獲物をしっかり見ることが二番。当てるのは三番目でいい。分かったな、ぼうず」
はじめてその言葉を聞いたとき、エトゥにはその意味を充分に理解することができませんでした。しかしあまり口数の多くない父が何度もそればかり繰り返すので、いつしかエトゥの耳にも心にも指先にも、その教えが染みついてしまったのでした。
素朴な生活はそれから十年以上続きました。
そしてエトゥが十六になった年、教えを試されるような出来事が起こります。
物静かで優しい父と、可愛らしいユンと、そしてエトゥの三人は、本当の家族とまったく変わらぬ、あるいはそれ以上に仲睦まじく暮らしておりました。
狩りの獲物が非常に豊富というわけではありませんでしたが、森の鹿からは麝香の原料が採れ、それが商人に悪くない値で売れたのです。とはいえ香料として加工されたものは非常に高価で、エトゥやユンにはあまり縁のないものだったのですが。
そんなある日、村の狩人のうちひとりが、森の中で食い荒らされた鹿を見つけます。死ぬ前に首を折られ、その骸は樹上に放置されておりました。しばしば見られる狼とは、明らかに違う種類の捕食者のように思われました。
その三日後、早朝から畑仕事に出ていた農夫が殺されました。命からがら逃げた妻によれば、捕食者はムジルタを主な生息域とし、このあたりには棲んでいないはずの、信じられないほどに巨大な豹だったということでした。
豹は物陰から疾走して農夫に跳びかかり、その前脚で首を叩き折り、死体を咥えて軽々と運んでいったらしいのです。
人間の味を覚えた獣は危険です。反撃のための角も、逃走のための強靭な肢も持たない獲物。警戒心のなさゆえに、あるいは糧を得る必要ゆえに、しばしば群を離れる獲物。もしも皆さんが人間の愚鈍さを知る肉食の獣であったならば、狩らない理由がどこにあるでしょうか?
放っておけば犠牲者は増えるばかり。だからこそ狩人たちは、なによりも優先して豹を討ち取らなければなりませんでした。
恵みの森が、殺伐とした戦場に変わります。
もしここがダバラッドの荒野ならば、もしここがエイブヤードの山肌ならば、カルガ人の末裔たちは決しておくれを取らなかったでしょう。しかし生い茂る樹々が、広がる枝葉が、彼らに多くの死角を作り出します。そして豹という生き物は、実に器用な身のこなしで樹にのぼるのです。
ひとり、ふたり、狩るはずの者たちが狩られていきます。辛うじて生還した者は、口々に豹の大きさ、狡猾さ、獰猛さを訴えます。
五つのときからエトゥを育て、弓の技術と心得を教えてくれた父は、豹の四人目の犠牲者となってしまいました。
「エトゥ」
それからさらに一週間経ち、付近の村では新たにふたりが殺されておりました。弓矢を負って家を出るところだったエトゥを、ユンが呼び止めます。
「危ないことしないでね」
行くな、とは言われませんでした。狩りを生業とする人間として、森へ入らないわけにはいかないことを、豹を狩らずにはいられないことを、ユンもよく知っていたからです。
「大丈夫だ。すぐ帰るよ」と、エトゥは言いました。
父の仇を取り、平穏な生活に戻る。エトゥは決意を胸に、森に足を踏み入れます。
昼なお薄暗いエイブヤード山麓の森。いまは紛れ込んだ異質な獣のせいで、鳥たちも神経質になりをひそめていました。肌に感じる風さえ、鼻に届くにおいさえ、いつもとは違うように思えます。森は既に、恵みをもたらす場所ではなく、弱い心の喉元に喰らいつき、闇に引きずり込む悪意の棲み処となっておりました。
エトゥは注意深く、それでも確固とした足取りで森を進んでいきます。
ひどく静かな時間が一刻ほど続きます。そして森の奥、エトゥの鼻がわずかな腐臭を捉えました。目が地面に落ちた異物を捉えました。
それは狩人の靴でした。蛆の湧いた足首も一緒でした。
エトゥは近づいて靴を観察しようとし、気配を察知して素早く跳び退きます。
一瞬あと、靴の傍に着地したのは巨大な豹でした。風下にある木に登ったまま、こちらの隙を伺っていたのです。その右眼には矢が刺さっておりました。犠牲となった狩人の誰かが、反撃を加えたに違いありませんでした。
エトゥは豹の着地から間髪を入れず一矢を放ちました。同時に、獲物が感じている様々なものを自分の心にも感じ取りました。静かな心は鏡や水面のように、目の前にあるものを反映するのです。飢え、恐怖、怒り、苦痛、昂奮、敵意。
しかしエトゥはそれに圧されることなく、大地に踏ん張って次に備えました。父の仇を前にしてなお、むしろ狩人としての心得を教えてくれた父の仇だからこそ、エトゥは平静なのでした。
はじめの矢は豹の脇腹に突き刺さっていましたが、致命傷になってはいませんでした。豹は素早く地面を蹴り、その前脚を振りかぶります。
二本目の矢は豹の左眼に命中しました。しかし両眼を失ってなお突進の勢いは死なず、エトゥは巨体に覆いかぶさられる形となってしまいました。腐臭を孕んだ吐息が顔にかかります。黄ばんだ鋭い牙がすぐ目の前です。
鋭い爪が、エトゥの肩を掻きむしります。肉の削げる激しい痛み!
しかしエトゥはまだ闘志を失ってはいませんでした。腰のナイフに手を伸ばし、それを豹の首に深々と突き刺します!
傷から噴出し、口から吐き出される血がエトゥの胸や顔を汚しました。ようやく致命傷を与えられたのです。豹は大きく身体を仰け反らせたあと、どう、という音を立てて地面に倒れ、二度と起きあがってくることはありませんでした。
念のためにナイフでとどめを刺し、自らの止血を済ませたあと、エトゥは豹の右眼に突き刺さっていた矢を確かめます。
それは案の定、父が作ったものでした。死の直前まで父は平静であっただろうか? きっとそうに違いない。エトゥは矢じりを外し、豹の大きな牙を抉り取り、そのふたつを懐に入れて村へと戻りました。
*
それからも、エトゥはユンと共に暮らしました。二人は兄妹として育ちましたが、周囲からはほとんど夫婦と見なされておりました。ユンは変わらずエトゥを慕い、エトゥは身体の弱いユンを常に気遣いました。大人になっても彼女は寝込むことが多く、森に出かけることの多いエトゥを心配させていました。
エトゥは産みの親も育ての親も早くに失ってしまいましたが、生活自体に大きな不満は持ちませんでした。エトゥは二十四になるまで、静かに穏やかに暮らしておりました。
そして〈魔宮〉が発見されます。
アモル石が掘り出されます。精錬され、商品となって運ばれていきます。人が集まり、街が形成され、そこにまた人が集まります。
人はパンを食べます。肉を食べます。木で家や店を建て、薪を燃やして暖を取ります。煉瓦の焼成や鍛冶にも大量の燃料を使います。
男女問わず香料を焚き。布で着飾ります。麝香や竜涎香や薔薇水のにおい、人のにおい、周辺の村々までそれが漂います。
生活が変わりました。
はじめ村々は好況に湧きました。農産物や獣の肉、毛皮が高く売れたからです。これまであまりお目にかかることのなかったダワーリー金貨やシックル銀貨が流通するようになりました。人々は豊かになり、当然のことながら大いに喜びました。
それから村の人口が減りました。死んだのではありません。出稼ぎに行ったのです。昔ながらの土地や道具を捨て、傭兵や人足として有力者に雇われていく人間が大勢おりました。そうすればいまよりずっと豊かになれる、楽な暮らしができる、という噂がしきりに流れました。
新しくできた街は、アモルダートと呼ばれるようになっておりました。
そして森の獲物が減りはじめました。というより、森そのものが減っていったのです。木材の需要はその供給量を大幅に上回り、何十人もの集団が恐ろしい勢いで木を伐っていきます。棲み処を追われ、人々に怯え、鹿や猪やウサギは姿を消してしまいました。
森の恵みに依存していたエトゥの生活は貧しくなりました。しかしそれでもなんとか暮らしていける。別に豊かにならなくてもいいのだ。ユンと二人で、静かに生きていければそれでいい。だからエトゥもユンも村を離れようとは言いませんでした。そのうち皆アモル石なんかには飽きて、元の生活が戻ってくる。さしたる根拠はありませんでしたが、エトゥはそう信じました。
しかし段々とユンの体調が悪くなってきました。栄養のあるものを食べていないからでしょうか。それともあたりが騒がしくなったから? 森が伐られ、空気や水が悪くなったからかもしれません。無理して高い薬を買ってみましたが、それに気休め以上の効果はなく、街からやってくる医者にも、確かな原因は分かりませんでした。
「ごめんね、私のせいで」
あるとき、ユンが言いました。
「私がいなければ、もっといい暮らしができるのにね」
「そんなことを言うな」
寝台に横たわるユンの傍らに腰かけて、エトゥはその細い手を握ります。
「おれはここの暮らしが好きだよ。大丈夫、そのうち元みたいに静かになる。そうしたら体調も戻るさ。ユン、なにも心配しなくていい」
しかし結局、ユンが生きている間に、元の生活が戻ることはありませんでした。彼女は肺を病み、苦しい息の中でエトゥの幸せを祈りながら死にました。〈魔宮〉が見つかってから、一年半が経っておりました。
エトゥは、エトゥはもちろん平静ではありませんでしたが、取り乱すようなことはしませんでした。なにが悪かったのか。誰が悪いのか。〈魔宮〉を見つけた人間か、欲に目が眩んだ有力者か、村を捨てていった人々か。
狩人の冷静さは、安易な結論を嫌います。しかしなにかに対して強い気持ちを向けなければ、エトゥは生きていくための活力を保てそうにありませんでした。
三日三晩、飲まず食わずで哀しみを見つめ、内向きに悩んだ結果、エトゥは〈魔宮〉への思いに対して、ひとまず憎しみという名の札を貼り、身の振り方を考えることにしました。風の噂によると、〈魔宮〉の内部には夜の獣と呼ばれる存在がいて、その体内からアモル石が採れるらしいのです。
もし自分が獣を狩りつくしたら、きっとみな〈魔宮〉を去るだろう。アモルダートはただの寂れた街になり、森はゆっくりと元に戻るだろう。何年先になるかは分からないが、昔のような静かな生活が、ユンはいないが静かな生活が送れる環境になれば、少しでも彼女の追悼になるだろう。
それは非常に大それた考えでした。ですが重い腰をあげるには、生きてユンとの想い出を抱えていくには、なんでもよいから理由が必要だったのです。
そしてエトゥは最低限の荷物だけを携えて、アモルダートへやってきました。見たことのない建物、人々、商品に戸惑い、四半刻と経たないうちに森が恋しくなりました。しかし自分にもはや帰る理由はないのだ。己に何度も言い聞かせ、叱咤し、〈病人街〉へと足を運びます。
細身の剣を携えた赤髪のシーカ人が声をかけてきたのは、ちょうどそんなときでした。