第十四夜 さまよう狩人 -1-
ブルズゥルクとの戦いで討伐隊が被った損害は小さくありませんでしたが、それによって得た利益もまたかなりのものとなりました。
二匹の夜の獣から得られたアモル石は四百枚のダワーリー金貨に換わり、取り決め通りの割合で分配されました。タルナールたちの取り分は金貨二百四十枚、ひとり頭で六十枚の計算です。贅沢さえしなければ、一年は悠々と暮らせるだけの金額。おお、うらやましい。
しかし変わったのはタルナールたちの懐事情だけはありませんでした。ブルズゥルクが死んだことにより、〈魔宮〉の奥に進むための大きな障害が取り除かれたのです。そこにはきっと手つかずのアモル石が多くあるはず。欲望に駆られた鉱夫たちが、いままで浅層に留まっていた者たちも含めて、さらに深部へと殺到します。
これまで〈魔宮〉には近づかなかった人間も、噂を聞きつけてにわか鉱夫となり、武器を手に取って地底へともぐっていきます。
それはある種の狂騒とも呼ぶべきものでした。
「少々素行の悪い方も多くなってまいりました」
マヌーカの様子は相変わらずですが、宿の中も随分と猥雑さを増していました。部屋に入りきらない鉱夫たちが一階の酒場で寝転がり、香料で誤魔化しきれない体臭があたりに漂っています。まるで宴のあとがずっと続いているような有様。常宿の変化には、特にネイネイが嫌悪を示しました。
「こんなんじゃ、〈魔宮〉の中で寝起きした方がましかも」
そう言って、彼女はしきりにため息をついておりました。
討伐行から三日後、タルナールたちは〈魔宮〉に吸い込まれていく鉱夫たちの波を傍観しながら、稼いだ金貨を枕にゆっくりと疲労を癒しておりました。
しかし〈病人街〉の騒がしさにはネイネイ以外の三人もいい加減うんざりしはじめ、〈魔宮〉の不気味ではあるが静かな環境が恋しくさえ思えてくるのでした。
「でもまだしばらく〈魔宮〉は騒がしいだろうな。無謀なヤツらが何人も獣にやられて、死体がゴロゴロしてるって話だ。混乱が収まるまで、もうちょっと様子をみた方いいかもしれない」と、ラーシュは言います。
タルナールもエトゥも、その意見には賛成でした。どのみち鉱夫たちのほとんどは目先のアモル石にしか興味がなく、〈魔宮〉の最奥を極めようなどという志を持った者はそうそういないからです。
にわか鉱夫たちが危険を知り、これは割にあわないと撤退したあとで、タルナールたちが落ち着いて探索を進めればいいのです。
「私、浴場行ってくる」と、ネイネイが腰をあげます。
「湯に浸かり過ぎてふやけるなよ」と、ラーシュがからかいました。
「もう二、三日は様子を見るとして、少し暇になるな」
そのやりとりを横目に、タルナールは呟きます。詩人の稼業は仕事と休息の境があいまいで、長い余暇といったものは基本的にありません。ですので、いざまとまった時間ができると、ついついそれを持て余してしまうのです。ブルズゥルクを斃したときのことは、既に物語としてまとめ終えてしまいました。
「じゃあ、ちょっと稽古でもするか」と、ラーシュが提案します。「槍がまだ手に馴染んでないだろ?」
危険が跋扈する〈魔宮〉において、武器の習熟は喫緊の課題です。ラーシュの剣、エトゥの弓には及ばなくとも、訓練しておくに越したことはありません。とはいえ槍はブルズゥルク討伐の際に失ってしまったので、また入手しないといけないのですが。
少しだけ考えてから、タルナールは稽古をつけてもらうことにしました。
「よし、決まりだな。エトゥ、行ってくる」と、ラーシュははりきり声で言いました。
なにやら物思いに沈んでいるエトゥをその場に残し、ふたりは最低限の準備を整えてから、随分と人の増えた宿をあとにしました。
狭くごみごみした〈病人街〉を出てから、アモルダート市街の南東部へ歩いていくと、そこにはアモル石から富を得たバーラムが道楽に作ったいくつかの庭園がありました。
巨大な棕櫚の木、ムジルタ産らしい珍奇な草花、人工の池に憩うカワセミやクジャク、真鍮と大理石の東屋で静かな逢瀬を楽しむ男女の姿。欲に彩られたアモルダートでは数少ない風雅な場所です。
逍遥する貴人でもなく、仕事をする庭師でもなく、稽古のために訪れたタルナールとラーシュはやや異質な存在でしたが、武器代わりの棒を振り回して誰かを怪我させる危険を考えれば、あたりが広々としている庭園は都合がいいのです。
「槍も使えるのか? ラーシュ」と、タルナールは尋ねます。
ふたりは庭園の中に入り込み、石で舗装された小さな円形広場までやってきていました。周囲に人気はなく、ときおり小鳥の鳴き声が響きます。
「武芸百般、とまではいかないが、ひと通りは訓練したことがある」と、ラーシュは答えました。
「どこで?」
「家でさ」
つまり小さいころから武器の扱いを学んでいた、ということです。アモル鋼の武器やそれを扱うだけの技量、誠実な立ち居振る舞いを考えると、彼はきっとそれなりに高貴な出なのだろう、とタルナールは推量しました。
「基礎を身につけるだけなら、剣よりも槍の方が簡単だ。タルも身のこなしは機敏だから、慣れるまでそんなに時間はかからないだろう」
タルナールの詮索を知ってか知らずか、ラーシュは槍の握り方と最も単純な突きの姿勢から、ひとつひとつ丁寧に説明しはじめました。扱いが容易とはいえ、基本を知ると知らないとでは大きく違うのだ、というのが彼の言です。
「槍は突くだけじゃない。刃で叩く、石突で殴る、柄で払う、押し込む、相手の武器に絡めて巻きあげる、投げる。もし間合いの内側入られたときは武器に固執せずに……」と、講義がしばらく続きます。
ひと通りの説明が終わったあとは実践です。武器を持ったラーシュと向かいあったタルナールは、その堂に入った構えから放たれる圧力に、思わず身体を強張らせました。
背中を見ている限りは頼もしいですが、相対すればこんなにも恐ろしい。あの煌めく刃を持つザーランディルを抜いた彼に対峙できる戦士が、果たしてダバラッドに何人いるのでしょうか。
「よし、殺す気で打ってきていいぞ」と、ラーシュは言いました。
大丈夫、これは練習だ。タルナールは小さく息を吐き、強く踏み込んでから思い切り棒を突き出しました。身体の中心を狙ったつもりでしたが、ラーシュは柄を交差させるようにして、易々と先端を逸らしてしまいます。
「余計な部分に力は入れるな。もう一度」と、ラーシュは言います。声は穏やかながら、その背後には厳格さが控えていました。
その後たっぷり一刻ほど、槍の稽古は続きました。タルが全身汗に塗れ、手の皮がすりむける頃になって、ようやくラーシュが及第を宣言します。
「タルの場合、鋭さよりも粘り強さを活かした方がいい。人間相手でも、落ち着いて対処すればかなり戦えるようになるんじゃないかと思う」と、最後にラーシュは評します。
「ラーシュぐらい強くなるにはどれくらいかかる?」と、タルナールは冗談のつもりで尋ねました。
「真面目にやれば、十五年ぐらいだな」と、ラーシュは答えます。おそらくタルナールの才能を腐しているつもりはないのでしょう。十五年という歳月の長さは、自身が積んだ鍛錬から弾き出した、偽らざる見積に違いありません。
「……精進するよ」と、タルナールは息を整えながら苦笑しました。
*
宿に帰れば相変わらずの猥雑さがふたりを迎えます。〈魔宮〉の中には昼も夜もなく、したがって〈病人街〉でもその感覚はややあいまいです。
「お疲れの様子ですが、熱い湯をご用意させましょうか? それとも冷たい薔薇水でも?」
タルナールが見た限り、マヌーカはいつも起きているようでした。もしかすると座ったまま寝ているのかもしれませんが。
「ありがとう。でも、いまはまだいい。エトゥは部屋かな」と、タルナールは尋ねます。
「いつもの場所に行くとおっしゃっておりました」と、マヌーカは答えました。
タルナールがちらりとラーシュを見遣ると、なにやら心当たりがある風です。
「孤児院のことだな」と、彼は言いました。「街の北あたりだ。エトゥは稼いだ金をよくそこに持っていく」
タルナールの生国であるケッセルにも、貧者に施しをする者はおりますが、それはもっぱら高貴な人間の義務とされ、一般の人間にはあまり馴染みのない行為でした。
ダバラッドにおいてはご存知のように、喜捨はもっと普遍的な善行とされ、孤児や寡婦はしばしばそれで命を繋ぎます。ダバラッドの文化が色濃いアモルダートでも、そのあたりの事情は変わらないようでした。
「ちょっと顔を出してみようかな」と、タルナールは言いました。
「せっかくだから楽器も持ってけばいい。子どもも喜ぶ。けど、俺はやめとくぜ」と、ラーシュは言いました。「アイツら、寄ってたかって俺に登るんだよ。危ないって言ってもやめないんだ」
どうやら、過去にひと通り翻弄されて懲りたようです。
タルナールは汗と埃で汚れた身体を拭ってから少し休み、今度は孤児院を訪れるべく、アモルダート市街の北側へと向かいました。