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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第十三夜 鋼鉄の針 -10-

 いったい、なにが起こったのでしょう?


 想定外の事態が発生したのは間違いありませんが、タルナールとて立ちどまるわけにはいきません。背後たった数十歩の距離では、爪と牙と棘が荒れ狂っているのですから。


 騒ぎの正体はまもなく知れました。待機組に襲撃があったのです。準備万端であるはずの弩砲は、二つのうち一つが壊れてしまっておりました。大人しくしているはずの人足たちが散を乱して逃げまどい、混乱に拍車をかけています。


 タルナールがその向こうに見たのは、信じがたいものでした。


 ブルズゥルクです。いま追ってきているのとは別の、もう一匹のブルズゥルクです!


 この恐るべき夜の獣は二匹いたのです。新手の一匹は体躯こそやや小ぶりであるものの、人間を嬲るのには十分過ぎるほどの膂力を備えておりました。ジャフディ以下戦闘員が応戦していましたが、既に数名が地面に横たわり、血を流しながら呻き声をあげています。


「横道を通ってきたのか!」と、ラーシュが悔しげな息を吐きました。


 入り組んだ道の多い〈魔宮〉において、ある地点に到達する経路は複数存在しましたし、少し掘れば拡大したり繋がったりする場所もありました。それでもブルズゥルクの巨体であれば、回り込まれる心配はなかったはずなのです。まさか別の小さい個体に、その前提を覆されるとは!


「タル、ふたりを手伝ってやってくれ! 俺はあの小さいのをやる!」


 どこにそんな体力が残っていたのかと思うほど、ラーシュは俊敏に動きました。怯える人足たちの間を稲妻のように駆けながら、ネイネイとエトゥの横を通り抜けていきます。


 タルナールが見たところ、弩砲に取りついているふたり、特にエトゥは落ち着いている様子でした。混乱と怒号の中、巨大な矢の照準を微調整し、敵が射程範囲に入るのを待っています。自分を一撃で殺しうる獣と相対し、なお冷静さを失わない狩人の目は、きらりと鋭い光を放っておりました。


 タルナールは弩砲の射線を避けるように位置をずらしながら、ほとんど倒れこむようにしてネイネイの足元に辿りつきました。


 死の咆哮が近づいてきます。それから弩砲が放たれるまでの時間が、タルナールには随分と長く感じられました。


 エトゥの操作によって、固く引き絞られた弩砲の弦が解放されます。矢が唸りをあげて飛び、冷たい鋼が皮と肉を貫き、骨を砕く音が聞こえました。タルナールが恐怖を押して振り返りますと、ブルズゥルクの首と前脚の中間に、弩砲の矢が深々と埋まっているのが見えました。


「まだ動くぞ」と、エトゥが告げます。並の獣なら即死か、少なくとも瀕死の重傷であるはずです。しかしブルズゥルクはいまだ荒い息を吐き、すぐにでもこちらに跳びかかってきそうな様子でした。


 とはいえ、もう少しで勝負は決まるでしょう。しかし弩砲に装填できるのは一発きりです。予備の矢こそありますが、ネイネイのまじないがなければ、充分な損傷を与えることはできません。本来なら二台の弩砲で一気に致命傷を与える手はずだったのですが……。


 タルナールはもう一台の弩砲に、壊れてしまった弩砲に目を遣ります。そこにはネイネイがまじないをかけたはずの矢が、まだ装填されたままでした。タルナールはその矢を取り出すべく、壊れた弩砲に取りつきます。


 しかしこれが中々容易ではありません。壊れた拍子に部品が矢柄を挟み、弦が絡まってしまっているのです。力任せに引っ張るだけでは、どうにもうまくいきません。


「これ、使って!」


 見かねたらしいネイネイが、さっと短剣を差し出します。柄に繊細な彫刻が施された、護身用と思しき小さなものでした。タルナールは礼を言う余裕もなく短剣を受け取り、刃を弦に押し当ててそれを断ち切ります。


 矢を回収する間、タルナールは気が気ではありませんでした。いまにも太い棘で胴体を突き刺されるのではないか、鋭い爪で抉られるのではないか、と半ば覚悟しておりました。しかし恐る恐るブルズゥルクの様子を窺ってみると、意外にもさきほどの場所から動いていません。


 よく見れば、その目はギョロギョロとせわしなく動き、牙の並ぶ口からは大量のよだれを垂らしています。踏み出そうとしている肢はぶるぶると震え、爪は浅く地面を掻いています。


 麻痺しているのです。マヌーカの毒がいまになって効いてきたのです。


 それでも長らく同じ状態とは限りません。タルナールはエトゥを手伝い、無事な弩砲に急いで矢を装填します。


「あとは目を瞑っていても当てられる。タル、ネイネイ。ラーシュたちの方を」


 言い終えるが早いが、エトゥは二発目の矢を放ちました。


 それは洞窟の空気を切り裂いて飛翔し、ブルズゥルクの脳天に勢いよく突き刺さります。断末魔の咆哮をあげる間もなく、恐るべき獣は完全に沈黙し、四肢を一度だけ痙攣させたあと、すぐに動かなくなりました。


 これでひとつの脅威は去りました。しかし小型の個体はどうなったでしょうか? タルナールが振り返ると、少し離れた場所でも、戦闘が終結しようとしておりました。複数人が決死で突き、切り裂き、殴りつけ、少しずつブルズゥルクを弱らせていったのです。


 しかし、ラーシュの姿が見えません。


「助けてくれ!」


 死にかけのブルズゥルクが喋った……ように聞こえましたが、違いました。その腹のあたりから聞こえるくぐもった声は、確かに人間のものでした。武装した鉱夫たちはブルズゥルクにとどめを刺したあと、その巨体を転がして、下敷きになっていたラーシュを引っ張り出しました。


「おえ」


 四つん這いになったラーシュが、どろどろと大量の血を吐きます。


「大丈夫か」と、タルナールは駆け寄り、その背をさすってやりました。


「血が口に入っただけだ」


 ラーシュはどうやら相手の懐に入り込み、押し潰そうとしてきたところを、アモル鋼の剣で一突きしたようでした。大した怪我もなかったのは、優れた技量ゆえか、並外れた度胸ゆえか、はたまた単なる幸運のおかげか。もしかすると三つがかみあった結果の、危うい勝利だったのかもしれません。


「タル、怪我人の手当をしなくちゃ」と、ネイネイが呼びます。


 勝利に安堵し、半ば放心していた状態から我に返り、タルナールがあたりを見回すと、そこには大勢の怪我人がおりました。


 即死が一名、重傷者が五名、自力で移動と手当ができる軽傷者が九名。死んだのは立派な鎖帷子をつけた鉱夫でした。装備の甲斐もなく、ブルズゥルクの棘に腹部を貫かれ、見るも無残な有様となっておりました。


 タルナールたちはまず出血の酷い者から処置し、骨の折れた者には弩砲の部品で添え木をし、医術の心得があるネイネイを中心に、この場でできる限りの応急手当を施していきました。


〈この者の内に流れる水よ、育まれる土よ、混ざりあい、渦を巻き、再生の芽を吹かせたまえ、盛んなる命の力を萌えさせたまえ〉


 驚くべきことに、ネイネイのまじないは人間の治癒力をも高めることができました。布で縛った傷口にネイネイが触れると、患部が持つ熱がゆっくりと引いていくのです。


「クソッ、早く俺も治療してくれ! こんなに血が出てる!」と、ジャフディの喚き声が聞こえます。実際のところ、彼は腿を軽く切り裂かれただけで、一行の中では比較的軽傷の部類でした。


「あなたは後回し!」ネイネイが珍しくきつい口調で言うと、その迫力に圧されたのか、ジャフディはぶつぶつ言いながらも引きさがりました。


「想定外はあったが、なんとか全滅せずに済んだ。これで〈魔宮〉の奥に進める」と、タルの傍らでラーシュが呟きます。全身をブルズゥルクのどす黒い血に染め、ひどいにおいを放っています。


「ラーシュ。君も金より〈魔宮〉そのものに興味があるんだな。ネイネイと同じように、魔術の深奥に関心があるのか?」


「いや、それとは少し違うな。俺の理由については、また別の機会にゆっくり話すよ。俺はもうクタクタだ。エトゥを手伝いたいんだが」と、ラーシュはため息をつきました。少なくとも疲れているというのは本当でしょう。


「ああ、それは僕がやっておくよ」と、タルナールは答え、エトゥのもとへ戻りました。彼は牛や馬を捌くときに使う大きな包丁を取り出して、大きな方のブルズゥルクに刃を入れようとしているところでした。辺りには黒い血が流れ出し、小さな池のようになっていました。


「タル、そこを押さえておいてくれ。血が目にかからないように気をつけろ」


 エトゥがブルズゥルクの脇腹を割くと、内臓の一部が勢いよく飛び出してきました。それを切り取り、抜き去りながら、アモル石の入っている嚢を探します。万が一なにも入っていなかったら……ちょっと困ったことになります。大損です。


 しかし内臓を掻き分け掻き分けしていると、無事に人間の頭ほどもある嚢が見つかりました。外側を裂いてみれば、拳大のアモル石がゴロゴロと出てきます。


「すごい量だ」と、タルナールは思わず声をあげます。純度にもよりますが、これならば投入した資金を回収して余りあるはず。結局二体のブルズゥルクから採り出したアモル石は、ひとりでは運びきれないほどになりました。


 それから一行は弩砲の部品で担架や杖を作り、怪我人が移動できるように取り計らいました。鉱夫たちから幾人かを割き、先に行って応援を呼ばせます。あとは犠牲者の死体を持ち帰るかどうかでひと悶着ありましたが、結局は〈病人街〉まで運び、埋葬してやろうという意見が多数を占めました。


 こうして、ブルズゥルク討伐行は幕を閉じます。〈病人街〉に戻ったタルナールは、最低限の身づくろいと荷解きをしたあと、酒盛りもせず、安心と疲労に包まれながら、泥のようにぐっすりと眠りました。

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