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千夜の魔宮の物語  作者: 黒崎江治
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第十一夜 鋼鉄の針 -8-

 夜が去り、朝が訪れます。


 宿の自室で目を覚ましたタルナールが窓から外を覗いてみると、既に午前の遅い時間となっておりました。〈魔宮〉探索で心身ともに疲れが溜まっていたからか、随分と長い間眠ったようです。


 ジャフディが資金繰りと人集めを終えるまでの間、タルナールはダバラッドの市街をひと通り回ってみよう考えていました。ここに来てからすぐに〈病人街〉を訪れ、そこからは一度買い出しに行ったきりなので、市街の様子ちゃんと把握してはいなかったからです。舞台のことをよく知っておかねば、物語もよいものは作れません。


 タルナールが一階に降りていきますと、酒場は閑散としておりました。みな仕事に出ているか、外で気晴らしをしているのでしょう。いまはマヌーカだけがかまどの近くで薬の素材を弄びながら、ぼんやりと虚空を眺めているのみです。


「よくお眠りになられたご様子。部屋はお気に召しましたでしょうか」と、マヌーカが言いました。


「まあまあかな。ラーシュたちは?」と、タルナールは尋ねます。


「みなさまお出かけされています。もし余暇の過ごし方に迷っておられるようなら、僭越ながら私が御指南いたしますが」


「いや、それはまたにしよう。今日は街を散策するつもりだったんだ」


「それは残念」と、マヌーカはいたずらっぽく笑います。


「ああ、でもひとつ頼み事があるんだけど」


「なんでございましょう」


「マヌーカは薬師をしてるんだろ」


「そのようなことも嗜んでおります」


「毒は調合できるかな?」


「なるほど」と、マヌーカは妖しげに目を細めます。「ご要望に合わせて承りましょう。速く効く毒、何日もあとで効く毒、殺さない程度に長く苦しめる毒、性器を腐らせる毒、気を狂わせる毒……。このマヌーカになんなりとお任せあれ」


「悪いけど、人に盛るためじゃない」


「もちろん、冗談でございます」


「普通の狩りに使うヤツがいい。殺す毒でも、麻痺したり弱らせたりするでもいい」


「あぁ、件の獣に使うものでございますね」


 そうだ、とタルナールは頷きます。


「図体が大きいのは少々面倒です。お作りすることはできますが、材料の調達も含めて、少しばかり時間をくださいませ」と、マヌーカは引き受けてくれました。


 彼女に礼を言って宿をあとにしたタルナールは〈病人街〉の南にある市場で林檎を買い、それを齧りながら階段を昇って市街に出ていきました。


 降りしきる陽光が地面を焦がし、建物の煉瓦や漆喰を焼いています。多くの人間は既に仕事をはじめており、道には商品を運ぶ馬や駱駝が行き交います。休日気分のタルナールは目的地を定めることもなく、ぶらぶらと通りを歩きはじめました。


〈病人街〉で精錬されたアモルはアモルダート市街に運ばれ、鍛冶屋や錬金術師の手でアモル鋼やアモル銀となります。さらに職人の手を経て武器や装飾品へと姿を変え、庶民には想像もつかないような価値の商品となるのです。


 アモルに直接関わる仕事のほかにも、アモルダートには様々な稼業で生活を立てる住民が暮らしております。品物を運ぶ者、普通の鉄や真鍮から日用品を作る者、新たに移り住む人間の家を建てる大工や指物師、どこに行っても需要の多い仕立屋や織物職人。


 少し郊外に目を移せば、汲み上げた地下水を利用した小規模な農場もそこかしこに見ることができます。〈魔宮〉の街とはいえ、普通の都市と変わらぬ生活を送っている人間も多いのです。


 そしてどんな場所でも感じ取れるのが香料のにおい。麝香、竜涎香、乳香、それから薔薇をはじめとした花の精油などなど。


 ご存知の通り、ダバラッドの人間は香りを好みます。みすぼらしい格好をした奴隷や浮浪者同然の者が、香炉だけはちゃんとしたものを持っている、なんてこともあります。


 タルナールはアモルダートの景観や音やにおいを五感で捉えながら、自然とこんな歌を口ずさんでおりました。


天球の果てに去りし神々 

憩うそらには香満ち満ちて

烏羽の如き黒い瞳と 

林檎の頬持つ乙女が集い

ぐるりぐるりと喜び舞えば

星も昂ぶり涙を流す

滴る水が波間にふりて

泳ぐ鯨が飲んで歌えば

貴人焚きたる竜涎香


 市街を回っているうちに、タルナールはあまり馴染みのない建物を見つけました。そこから出てくる人々は一様に頬を上気させ、顔つきもなにやらさっぱりとしています。ふとその中にネイネイの姿を見つけ、タルナールは足をとめました。


「タルもお風呂入りにきたの」と、こちらに気づいたネイネイが歩いてきました。彼女は濡れた髪に砂ぼこりがつかないよう、また白い肌が日射で焼けないよう、ゆったりしたフードを被っておりました。


「ここは公衆浴場か」と、タルナールは建物を見遣ります。


「そう。ダバラッドの人は病みあがりとか、特別な行事の前にしか入らないみたいだけど、私は〈魔宮〉から帰ってくると必ず入ってるの。身体、汚くなるからね」と、ネイネイは言いました。


「僕はただ散歩してただけだ。暑い中ぶらついてたから、そろそろどこかで休もうかなと思って」と、タルナールが言いますと、ネイネイは少し迷うような素振りを見せてから、控えめにタルナールの袖を引きました。


「じゃあ、お気に入りのお店紹介してあげる」そう言うネイネイに従って、タルナールは公衆浴場のすぐ隣にある大きな天幕へと入ります。中はうまく風が通るように工夫され、そこかしこに冷水で満たされた水盤が置かれておりました。


「今日は私がおごってあげるから」そう言って、ネイネイが奴隷に銅貨を六枚渡しました。しばらくすると、雪花石膏(アラバスタ)で作られた杯が運ばれてきます。入っているのは赤みがかった冷たいシャーベット水でした。


「何日かに一度の贅沢だから、お風呂あがりには必ずこれを飲むの」少女のような微笑みを浮かべるネイネイに倣い、タルもシャーベット水に口をつけますと、檸檬の酸味が舌をぴりぴりとつつきます。ぶどう、林檎、蜂蜜、薄荷も使われているようです。甘く、さわやかで、実に涼しげな飲み物でありました。


「もぐっているときにも少し話したけれど」タルナールは思い立って尋ねます。「僕は〈魔宮〉のことをあまり調べずに来た。ただの鉱山でないことぐらいはもちろん知っていたし、夜の獣もしっかりとこの目で見た。


 それでもまだ、僕は〈魔宮〉の正体を掴めずにいる。いまは忘れ去られた何者かが、遥か昔にこの場所を作った、と君は言った。それが特別なことなのは分かるけど、夜の獣やアモルとはどういう繋がりがある? 君たちは、それを調べるためにもぐるのか?」


 ネイネイはそのエメラルド色の瞳で、タルナールをじっと見つめました。彼女はしばらく黙っていましたが、やがて慎重に口を開きます。


「アモルは異界から取り出された物質だと言われてる」と、ネイネイは以前と同様のことを繰り返します。


 「いままでに発見されてきた古代の遺跡からは、わずかにアモル鋼やアモル銀が見つかっただけで、純粋なアモルが、これほど大量に存在した例はなかった。夜の獣なんてものはもちろん、伝承にさえ存在しなかった」


 言葉を重ねるたび、ネイネイの声は力を増し、魔術師然とした深みを備えていくようでした。


「アモルや夜の獣の出現が、意図したものなのかどうかは分からない。けれどそれには古今東西で例を見ない、魔術の深奥が関わっていることは明らか。それを作った存在は、かつてこの世界を去った小人や妖精や竜たちをも凌ぎ、いまや天球の果てにのみおわす神々にも匹敵する力を持っていたのかもしれない」


「魔術の深奥か」と、タルナールは呟きます。「つまり夜の獣を呼び出し、アモルを自由に錬成する。その秘密を知るために、君たちは〈魔宮〉を制覇するのか?」


 この問いに、ネイネイは首を振りました。


「理由はそれぞれ違う」と、彼女は言います。「でも少なくとも、権力とか富なんかには、ふたりもあんまり興味がないみたい。機会があったら、ゆっくり聞いてみるといいんじゃないかな。……ねえ、タル」


 ネイネイの目つきが優しげなものに変わります。


「あなたも自分の目的が果たせるといいね。恩人に届くような物語を作るんでしょう? それがどんなものになるかはまだ分からないけど」


「うん。ありがとう」と、タルも微笑みます。「吟遊詩人としても、好奇心旺盛なひとりの人間としても、君たちとの冒険を楽しみにしてる」


 話しているうちに身体から熱が抜け、心地よい気分になって。時刻はそろそろ正午。タルナールはシャーベット水の杯を飲み干し、席を立ちます。


「僕はもう少しぶらぶらするよ。まだダバラッドには不案内だし」


 もうしばらくのんびりしていくらしいネイネイと別れて天幕を出ると、タルナールは再び通りを歩きはじめました。裏路地に入り込んだり、市街の外側まで足を伸ばしたりしているうちに夕刻となりましたので、タルナールは頭の中で地図をまとめつつ、〈病人街〉への宿へと戻っていきました。

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