第十夜 鋼鉄の針 -7-
ブルズゥルクは明らかに人間の存在を察知していましたが、図体が大きな分、小さいものを探すのは苦手と見え、タルナールたちの正確な位置までは掴んでいないようでした。獣はしばらく苛ついた様子であたりを探ったあと、やがて獲物を諦めて〈魔宮〉の奥へと戻っていきました。
タルナールは大きく息を吐いてから、ぐったりと全身の力を抜きます。
「ラーシュは無事だろうか」
ブルズゥルクの気配が遠くなってからも、三人は念のため、もう四半刻ほど息を潜めておりました。そろそろ大丈夫だろうかと思いはじめたころ、〈魔宮〉の奥から小石を踏む人間の足音が聞こえてきます。
恐る恐る窺ってみると、そこにはラーシュの姿がありました。
「生きてたのか!」と、タルナールは穴を飛び出して駆け寄ります。ラーシュの顔と剣には、べっとりと血がこびりついていました。
「怪我してるのか?」
「いや、これは返り血だ。怪我してるのはアイツの方さ。棘も二、三本ぶった切ってやった。そっちも大事なかったみたいだな」と、練達の剣士は笑ってみせました。
ネイネイとエトゥも穴から這い出して、ラーシュの無事を喜びました。
「今回はこのまま帰るほかないな。俺もさすがに疲れたよ」
結局、今回の収穫は猪に似た獣から採れたアモル石だけになりそうです。しかしブルズゥルクのような巨大な獣に襲われたことを考えると、命を持ち帰れただけでも上首尾と考えるべきでしょう。それもラーシュが囮になってくれなければ、どうなっていたか分かりません。
昨日と同じ温泉の湧く場所で野営し、一行は〈病人街〉を目指して歩き続けます。その後は夜の獣と遭遇することもなく、ランプや罠がある場所までやってくることができました。緊張が解けると、どっと疲れを感じます。タルナールは一刻も早く槍と楯を置き、寝床で休みたい気分になっていました。
「今かけっこをしろと言われたら、病気の騾馬だって負けそうだ」と、ついつい弱音を吐いてしまいます。
「まあ、大変は大変なんだよな。一獲千金を目指してやってきたはいいものの、〈魔宮〉の中や魔獣が怖くて去ってく人間は多い。はじめは奥を目指すと言って、結局は浅い場所にいつく奴もいる。〈病人街〉の周りで無難な仕事をはじめる奴も少なくない。そこにもきっと、それなりの物語はある」と、ラーシュは言います。怖いならば無理をするな、と伝えようとしているようでもありました。
「あるいはそうかもしれないけど」と、タルナールは自らの弱気を恥じます。「それだとあの人に届かない。僕は――」
「なら、俺たちと一緒に来いよ」と、ラーシュは言いました。「心配するな。俺もネイネイもエトゥもいるんだから」
タルナールの背を叩く手の力強さには、なんでも預けられそうな頼もしさがありました。ラーシュたちに出会えたのは幸いだった、とタルナールは思います。〈魔宮〉探索は大層危険で、今後には不安もありましたが、彼らとならきっとやっていけるでしょう。このような勇気と誠実さを備えた道連れには、滅多に出会えるものではありません。
「分かった」と、タルナールは言います。気づけば出口のすぐ近くまで来ていました。揺らぐランプが列を成し、一行の道を照らしています。
「ラーシュ、ネイネイ、エトゥ。改めて、よろしく頼む」
*
「俺たちの計画を話しておこう」
一行が〈病人街〉に戻ってきたとき、アモルダートは夕刻を迎えておりました。宿まで帰りつき、皿に盛られた羊の燻製肉をつまみながら、冷やしたぶどう酒で喉を潤していたとき、ラーシュがそう切り出しました。
酒場にうっすらと漂う香料や、マヌーカが調合する怪しげな薬のにおい。はじめて来たときこそ違和感を覚えましたが、〈魔宮〉の危険に晒されたあとでは、心身に寛ぎをもたらしてくれる不思議な効果があるように思えました。
「今回行ったところの先にはブルズゥルクがねぐらにしてる場所がある。俺たちも一度見たことがあるんだが、明らかに自然の洞窟じゃないし、奥にもまだまだ道が続いてた。けど、詳しく調べるためには、どうしたってブルズゥルクが障害になる。留守を狙ったとして、どのみち帰りも通るわけだからな。となれば、なんとかして斃すしかない」と、ラーシュは言いました。
「可能なのか? 普通の矢が効くようには思えないけど」と、タルナールは素朴な疑問を投げかけました。それにはエトゥが答えます。
「普通の武器じゃ皮を突き通せない。ネイネイのまじないを使うか、ラーシュが持ってるようなアモル鋼の刃じゃなければ。ただ、突き通せたとしてあの巨体だ。剣や槍じゃ長さが足りないし、そもそも近づくには危険が大きすぎる」
もっと気性の穏やかな獣であれば、大きくとも捕まえる手段はいくらでもあるでしょう。しかしあの狂暴さを相手にするとなれば、呑気に網や縄を使っている余裕はありません。
「だから、おれたちは弩砲を使う」と、エトゥは言います。
「弩砲? あの城壁に取りつける弩砲?」
タルナールは詩人として各地を放浪してきましたので、これまでいくつもの都市やその防御施設を目にする機会がありました。騎馬民族と国境を争うケッセルの東方。大規模な盗賊団に悩まされるダバラッドの砦。そういった場所では、しばしば城壁に弩砲と呼ばれる兵器が備えつけられていました。
それは金属の部品と動物の腱で作った弦を使い、槍ほどもある矢を飛ばす大がかりな機械です。当然威力も相応のもので、人間はもちろん、たとえ巨象が相手であっても、容易に殺傷することが可能でした。
「そうだ。弩砲を部品に分けて〈魔宮〉運び込み、現地で組み立てる。そこにブルズゥルクをおびき寄せて斃す。二台用意して、ネイネイの魔術を使えば、致命傷を与えられるはずだ」と、エトゥは説明します。もちろん、確実ではありません。それでも槍を持って突撃するよりは、だいぶましな作戦と言えました。
「でも、お金がね……」と、ネイネイが呟きながら頬杖をつきます。
「いくらかかるんだ?」と、タルナールは尋ねました。
「ちょっと調べてみたら、弩砲一台で金貨五十枚。人足を雇うのに金貨二十枚。運んでもらうだけじゃなくて戦う人間も必要だから、それに金貨三十枚。最低、金貨百五十枚からのお金が必要になる」
タルナールがいまの貯蓄を訪ねてみると、金貨九十枚まではあるとのことでした。
「ネイネイの頭飾りとか、杖を質に入れるっていう案もあった。いっそネイネイ自身を質にいれるとか……嘘だよ。そんな顔するな」と、ラーシュが冗談めかして言いました。
「ラーシュの剣を質に入れれば、十倍は借りられるんじゃないの」と、ネイネイはやり返します。
「これを質に入れるくらいなら、俺はひとりでブルズゥルクと戦うね」
軽口の応酬は置いておき、タルナールは貯めなければならない金額に思いを馳せます。今回の実入りが金貨二枚。生活費もただではありませんから、百五十枚貯めるには、あと何ヶ月もかかる計算です。
「エトゥ。ブルズゥルクを狩ると、どれくらいのアモル石が手に入る?」と、タルナールは尋ねてみました。
「どうかな。単純に身体の大きさで考えれば、金貨二百から三百枚」と、エトゥが答えます。
髭のない顎をさする彼の言葉を聞いて、タルナールは解決策を思いつきました。将来手に入れられるはず利益を分配する約束で、必要な資金を調達するのです。はじめの準備に多額の金銭を必要とする、ダバラッドの船主がよくやる手でした。
もちろん、同じ方法で詐欺を働く人間もおりますので、話を成立させるためには、提示する金額の大きさだけでなく、相手を納得させ、信頼してもらうことが重要になります。
「ラーシュ。この間僕に絡んできた男」と、タルナールは心当たりを探ってみます。「顔は広い方かな?」
「ジャフディか。広いと言えば広い。不思議なことに」と、ラーシュは答えます。
「なら、彼に金集めと人集めを頼んでみよう」
そう言って、タルナールは三人に金集めの方法を説明しました。エトゥは最後まで疑わしげでしたが、ラーシュとネイネイは納得してくれました。
「でも私、アイツ嫌い」と、ネイネイは顔をしかめました。
「なにも友達になろうってわけじゃない。契約を結んで、それを果たしてもらうだけだ。顔の広い人間っていうのは体面を大事にするから、人を丸め込むことはあっても、あからさまに裏切ったりはしないと思う。はじめの印象は悪かったけど、僕が話してみるよ」
そんなことを話していると、酒場奥にある階段から、当の本人がおりてきました。寝る前に一杯ひっかけようとしているのでしょう。タルナールは近くの奴隷に上等の酒を頼むと、金属の水差しに入ったそれを、ジャフディのところまで持っていきました。
「よう、色男。また喧嘩でも売りにきたか? ラーシュに気に入られて心強いだろ。毎晩ケツを貸してるのか?」
タルナールの姿を見たジャフディが、自分の所業を棚にあげて言いました。まだ酔ってはいないようなので、口が悪いのは元々のようです。
「こないだははじめての場所で、僕も気が立っててね。失礼を働いたのは謝るよ。お詫びの印に、これを」と、タルナールは筵に腰をおろし、自分の杯に酒を注ぎ、一口飲んでからジャフディに手渡しました。
「ふん、下心が透けて見えるぜ」と、言いながらも、ジャフディは杯を受け取り、中身を一息に飲み干しました。
「その通り。実は頼みたいことがある」と、タルナールは切り出します。
「酒の分は聞いてやろう」と、ジャフディは答えました。もっと難航するものかと思えば、案外話の分かる人間です。
タルナールはブルズゥルク討伐の具体的な計画と、実行の資金が必要なことを包み隠さず話しました。得られるかもしれないアモル石の大きさに話が及ぶと、ジャフディの目がきらりと光りました。タルナールは畳みかけるようにして、具体的な条件を伝えました。
「こっちが金貨九十枚を用意する。そっちが六十枚用意する。戦利品もその比率で分配する。たとえばアモル石が金貨三百枚になったら、こっちが百八十、そっちが百二十だ」
「詐欺みたいな話だなあ」と、ジャフディはその青白い頬を撫でながら言いました。「その計画だと、こっちは少なくとも十人雇わなきゃなんねえ。六十枚じゃとっても足りねえよ。最低でもこっちが三、そっちが二だ」
「もし乗らないなら、僕も別の人間を探すしかない」と、タルナールも退きません。
「なら俺はお前たちの計画を真似して、先にブルズゥルクを狩ってやるぜ」と、ジャフディは得意顔。とはいえ、この程度の展開はタルナールも想定しておりました。
「ジャフディ、ブルズゥルクと戦ったことはあるか? 皮膚は棘に覆われてるし、鋼鉄みたいに硬いから、ネイネイのまじないがなければ殺せない。もし失敗してアモル石が手に入れられないってことになったら丸損だ。それでもいいのか?」
金貨百五十枚分の損。この想像はジャフディの心をかなり揺さぶったようでした。彼は長く考え込んだあと、忌々しそうに口を開きます。
「博打には変わりねえ」
「そうだ。博打だ。でもこっちにはラーシュもいる。分は悪くない」と、タルナールは言いました。
ジャフディは低く唸り、しばらく腕を組んで思案顔です。
「……いいぜ。賭けてやる。お前とは仲良くしたくねえが、金貨とはねんごろになっておきたいんでね。三日で人と金を集める。それまではシコシコ悪だくみでもしてるんだな」
やがてジャフディは言いました。
「分かった、十分に練っておこう」と、タルナールは笑顔を見せます。
挑発の甲斐がないと感じたのか、ジャフディは大きくため息をつき、水差しから酒を継ぎ足しました。目的を果たしたタルナールは立ちあがり、仲間たちの元へと戻りました。
「うまくいったみたいだな」と、やりとりに聞き耳を立てていたらしいラーシュが言います。「俺ならぶん殴ってるところだろうが、さすが、商人の息子だ。これからも交渉事があれば任せることにするよ。俺もネイネイもエトゥも、意見を口で通すのは得意じゃないから」
こうして、計画の日程は大幅に早まりました。しかしそれはブルズゥルクという強大な夜の獣と、狩るか狩られるかの戦いが近くなったことを意味していました。そのことを考えると、タルナールの頭には、追われていたときの恐怖がよみがえり、身震いをせずにはいられないのでした。