第5話 牛の首 1
「その時、私は気付いてしまったんだ」
嫌に冷たいその低い声は場の緊張感が高め、地を這う重たい霧のようにじわりと身体の中に染み込んでくる。山伏の中でも一際背の高い彼は、テーブルに両肘を付けて窮屈そうに背をかがめて組んだ指先に顎を乗せていた。左太郎は全員の視線が自分に集中している事を確かめるように、テーブルの周りの顔をじっくりと眺め回した。
「彼女はこの部屋にどうやって入ったのか? 鍵は間違いなくかけたのだ……」
不安感を煽る沈黙が置かれる。
「そして、鏡に写る彼女の姿は……」
山伏として山に入れば、普通の生活をしている限りおよそ体験できない奇妙な現象にでくわしてしまう。そんな山伏達ですら、左太郎の低い声、物静かな仕種、絶妙な間を含んだ呼吸、彼が醸し出す閉塞感のある空気に捕われて短い物語に取り込まれてしまう。ましてや、山に入ってまだ数日の向日葵にとっては未体験の空気だった。思わず真樹士の腕にすがりついてしまう。
「いったい死後何日経てばあんな姿になれるのか。溶けかけた頬の肉をずるりと歪めて彼女は言った。『やっと気付いてくれた?』」
「たぅっ!」
いったい何を思えばそんな声を出せるのか。向日葵は両手を上げていきおいよく立ち上がった。
「ごめんなさいっ! 私リタイアッ。もう寝ますっ。おやすみなさいっ!」
向日葵は全員がぽかんとする中、カップの底に残ったすっかり温くなったココアを一息にあおり、やけにぎこちない直線的な動きでテーブルを立った。
「なんだよ、ヒマワリ。サタロウさんの怖い話のクライマックスだってのに」
真樹士が立ち上がったヒマワリのパーカーの裾をくいと引っ張る。それでも彼女はかまわず回れ右して、へそを丸出しにしてまでも寝室へ向かって歩き出した。
せっかく上等な岩魚と山菜が手に入った事だし、と言う訳で山伏達は今夜も酒盛りをしていた。そして怪談話をさせたら右に出る者はいない左太郎の出番となった訳だ。しかし、最初のエピソードが語り終わられる前に早くも脱落者が出てしまった。
向日葵はパーカーを引っ張る真樹士の腕を取り強引に立ち上がらせる。
「さあ、マキシくん、もう寝るよ」
「おいおい、まだ話は終わっちゃいないだろ」
と言いつつも素直に向日葵に引っ張られていく真樹士。
「……よし、じゃあこうしようか」
左太郎は話を中断させ、議会に一つの提案を掲げるように片手を上げた。
「『牛の首』の話をしよう。こいつを聞いたら、今夜はお開きだ。眠っても良いよ、向日葵さん」
山伏達のにやけ顔が彼女に集中する。
「うしの、くび?」
左太郎は向日葵にゆっくりと頷いた。
「ああ。新米山伏のタクヤもいるし、ちょうどヒトのヌシ様のマキシくんも山にやってきた事だ。……聞きたいかい? まだ聞いた事ないだろ、……『牛の首』」
ウシノクビ。その奇妙な響きに向日葵は首を傾げる。想像が恐ろし気な映像として変換されて頭の中に徐々にバケモノが描かれて行く。
「よせやい」
そう言ったのは真樹士。
「あんな恐ろしい話は俺は他に聞いた事がない。やめてくれよ『牛の首』の話だなんて」
新人山伏の卓哉を除く山伏達の顔が一層にやける。
「なんだ、マキシくんは知っていたのか。……『牛の首』」
「俺を誰だと思っているんだか。ヒトのヌシが知らない訳ないだろう。悪いが俺も今夜は休むよ。可愛いヒマワリが怖くて夜も眠れないってのは可哀相だからね」
向日葵はもう何も言わずに真樹士を寝室へと引っ張って行った。そして、ぽつりと一人だけ置いてけぼりを食らったような新人山伏、卓哉は憮然とした表情を面に出して左太郎に切り出した。
「『牛の首』ってそんなに怖い話なんすか?」
「そうか、君は知らないのか。……『牛の首』を」
怪談話に長けた山伏は、からかう対象を向日葵から卓哉に切り替えたようだ。
「……ね、マキシくん」
向日葵はベッドに横になり、半身を起こして肘をついて真樹士の背中に声をかけた。彼は振り返る事なく生返事を返す。パソコンの液晶ディスプレイが放つ光が真樹士にかぶり、まるで後光を背負っているかのように見える。
「ここんとこ寝る前に必ずパソいじってるけど、何してんの?」
「んー、宇宙人を探しているの」
「私は真面目に質問しているつもりですけどー」
予想外の答えに思わずベッドに突っ伏す向日葵。
「俺も真面目に答えたつもりですよー」
リズミカルにキーボードを叩く音とマウスをクリックする音がようやく止む。くるり、回転椅子をもったいぶって回してこちらに向き直る真樹士。
「深宇宙から放たれた電波を解析する民間のプロジェクトがあるんだ。電波と言ってもそれが単なる太陽フレアの小規模爆発かも知れないし、実は遥か遠くの知的生命体からのメッセージかも知れない。それを解析するにはものすごい計算能力を必要とするスーパーコンピュータが必要で、有志を募ってパソコンの空きメモリーの……、理解できそう?」
「無理」
あくびをしている向日葵を見つけた真樹士。ふうと軽く肩をすくめて液晶ディスプレイの電源を落として立ち上がる。
「単純に言ってしまえばパソコンを貸し出ししてるみたいなもん。ネットで繋いで計算の手伝いをしているんだ」
真樹士はデニムのシャツを脱ぎ去ってTシャツ姿で向日葵のベッドに潜り込んだ。向日葵はまた肩肘をついてベッドを彼のために空けてやる。真樹士は仰向けになってちらりと向日葵を覗き見る。ふと、肩肘をついたままの向日葵と目が合った。
「何か言いたそうだな」
「……リンドウちゃん、出てこなかったなーって」
「百物語の一話目で君がリタイアしたからだよ」
「だってほんとに怖かったんだもん」
今夜の怪談話のきっかけは向日葵の一言だった。山に捕われている記憶をなくした少女、リンドウ。未だ彼女の顔を見た事がなく、声を聞いた事もない。彼女はずっと部屋に引きこもっている。そこで向日葵は一つの提案をした。おもしろい話をしてみんなの笑い声で彼女を部屋から呼び出そう、と。命名、天岩戸作戦。しかし、どこで何を間違えたのか、始まってしまったのは百物語だった。
「慌てる事はないって。すべては関係し連鎖する。原因があって結果が生まれる。それが因果だ。自然の成りゆきに任せよう。リンドウが出てきたいと思ったら、きっと出てくるさ」
枕元の電気を消そうと真樹士は手を伸ばしたが、向日葵の顔から消化不良の色がまだ消えていないのに気付いた。
「まだ、何か?」
向日葵と真正面から向き合うように、真樹士も肩肘をついて笑顔を見せてやる。
「……『牛の首』って、どんな話?」
少し間を置く。
「聞きたい?」
向日葵ははぐらかすかのように視線を反らし、それでも切りそろえた前髪が揺れる程度にかすかに頷いた。
「……後悔しないか?」
前髪がなかなか揺れない。視線も泳いでいる。
「いいよ。話そう。『牛の首』だ」