第4話 イワナ定食
水の砕ける音のなんとさわやかな事か。
風の冷たい感触のなんと心地よい事か。
厚い靴底のスニーカーと靴下を脱ぎ去り、細いジーンズの裾をくるくるとまくる。向日葵は川の水際までそうっと忍び足で歩いた。柔らかな足の裏を小石がちくちくとつついて気持ち良く痛い。バレエダンサーのように片足でバランスを取り、もう片方の足を透明な川面に浮かべるように浸す。足の裏をくすぐる清らかで冷たい水。えいっ、と一気に川底まで足を沈める。かき氷とはまた違った冷たさが染み込んで来て、頭のてっぺんまできんっと電気が突っ走る。
人の主の妻として山小屋での生活を始めて日はまだ浅い。しかし向日葵の毎日の生活は一変した。フリーライターとして雑誌の編集の手伝いをしたり、ウェブマガジンのコラムを一つ任されたり、自分のしたい形の仕事とは言え、時計の針を逆に回したくなるような時間に追われる生活をしていた。
山に入り、向日葵は愛用の腕時計を外した。目覚まし時計のアラーム設定を解除した。携帯電話をベッドの枕元に置きっぱなしにした。日の出と共に目を覚まし、日が沈むと山小屋へ帰り山伏達と飽きるまで会話を交わす。彼らの話は今までの都市での生活と匂いがまるで違った。色彩が違った。眠くなるまで彼らの話を聞く。眠くなれば眠りにつき、起きていたければいつまでも山伏達と会話を楽しむ。時間など在って無いに等しい。
「おーい、ヒマワリさん。川の魚をなめちゃいかんぞ。そんな勢いで川に踏み込めば魚に気配を気付かれる」
小柄な相撲取りのような、いかにも山伏的な無精髭を生やした男がひそめた声を遠くから投げかけて来た。彼は森に溶け込む緑色のジャケットを着込み、大きな身体を小さく丸め込んで手元の仕掛けに意識を集中させていた。
「あ、ごめんなさい。でも、冷たくて気持ちいいですよ」
もう片方の素足はゆっくりと水に沈める。砂地の川底にじわりと両足が沈み込む。川の冷たい水が向日葵の足の下の砂を少しずつ少しずつ削り取る。
「テツヘイさん、ヒマワリが暴れたくらいでこちらは問題ないよ。それとも何? 負けた時の言い訳作り?」
真樹士は川から離れた所で姿勢を低くしたまま背中からリュックを下ろす。するすると一本のロッドを引きずりだし、ぴしっと空気を震わせロッドを振るう。延べ竿式のロッドは真樹士の身長と同じくらいに音もなく伸びた。
「マキシくん、君のためだよ。キャリア20年の俺が釣りで負ける訳がない」
山伏の鉄兵は人の主にちっちっちっと人差し指を振るい、継ぎ足し式の竿を大切なおもちゃのゼンマイを巻くように慎重に継ぐ。
「釣りのキャリアなら……」
鋭い剣を構えるローマの剣闘士のように、真樹士はカーボンロッドを天に突き立てた。
「俺も20年ですよ」
「これはこれは。お手並み拝見と行こうか」
子供のようにはしゃいでいるのは向日葵だけではないようだ。向日葵は両足をすくうように流れる冷たさを楽しみながら、父と息子程に年の離れているくせにまるで兄弟のように張り合っている二人の男を眺めた。
七人の山伏の中で釣りを趣味として楽しんでいるのは鉄兵だけ。向日葵から見ればかなりがっしりとした体格だが、その足裁きはさすがは往年の山伏。足音も立てずに河原を歩く。
真樹士はと言うと、引きこもりがちな電脳技師のくせに、釣りに関してはやたらうるさい。真樹士は片膝立ちでロッドを構え、少しだけ目を細め、ぴたり、動きを止める。ロッドの先に揺れるルアーが振り子の動きを止めた時、真樹士は腕を大きくしならせた。
カーボンロッドのひゅうと風を切る音が向日葵の耳まで届いた。極細のケミカル合成繊維が束ねられたラインが陽の光を反射させ、まるで真樹士が魔法で波打つ光の線を空間に描いているかのように見える。するすると伸びる光のラインの先には、虹のような光彩を放つ小さなスプーン状のルアーが結わえられている。
「……お見事」
その一投を見て鉄兵は思わず呟いた。片膝立ちの姿勢で、真樹士は腕のしなりだけで大きな岩影の裏、絶好のポイントへルアーを落とし込んだ。光のラインがふわりと水面に落ちる。するとラインは川に溶け込むように光が失われて見えなくなった。
「うまいもんね」
ごつごつと両手のスニーカーをぶつけ合わせて拍手する向日葵。鉄兵と向日葵がじっと見守る中、真樹士は片膝の姿勢を崩さずにロッドを低く寝かせ、くんっと弾くように腕を引く。ロッドは音もなくしなり、弛んだ光のラインをすばやくリールで巻取る。
と、真樹士が動きを一瞬だけ止めた。そして叫ぶ。
「フィッシュ!」
ロッドを強く引き立ち上がる。真樹士の両腕の延長にあるロッドはその中程から急激にしならせて川面を指差すように光のラインをぴんと張った。
「もう来たのか?」
鉄兵が自分の仕掛けを作る手を放り出して思わず真樹士の元に駆け寄る。
「……」
しかし向日葵は動けなかった。
真樹士がロッドを引き立てた瞬間、川が流れを止めたように見えた。きらきらと太陽を写し込む川の流れがデジタルカメラで画像を切り抜いたように動きを止め、白く崩れる波の水のかけらすら一粒一粒見てとれた。足の裏の砂地をさらうような流れの強い川のはずが、その瞬間だけ鏡みたいに川面に映る空をくっきりと向日葵に見せつけた。まるで時間が止まったように、何もかもが動きを止めていた。
思わず息を飲む。この瞬間だけ自分が世界からこぼれ落ちてしまったのか。いや、違う。真樹士がいる。この美しい停止した世界で、真樹士はこちらを向いて片目をつぶって見せた。そしてすぐまた竿先のラインに集中する。
次の瞬間、世界は元に戻っていた。
「ははっ! でかいね、こいつは!」
真樹士がきりきりとリールを巻き、魚との賭け引きを子供のように楽しんでいる。川はいつもの様相を取り戻していた。
「ヒマワリ! 見ろよ、こいつを!」
川の水が暴れている。岩影から引きずり出された青い魚影が川面を尾ひれで叩いていた。真樹士はロッドを立てて暴れる魚を浅瀬へと誘い込む。さて、あとはじっくりと疲れさせて取り込むだけ……、そこで初めて向日葵がぼおっとしているのに気付いた。
「ヒマワリ? 大丈夫か?」
真樹士の声にはっとする向日葵。川が動きを止めたように見えたのは気のせいだろうか。
「うん、全然平気」
結局のところ、最新のカーボンロッド装備、最新技術のケミカルライン、ネットで取寄せたまるで工芸品のようなルアーを使った真樹士と、伝統の手作り竿、天然の鳥の羽根仕掛け、エサは川の石底に住む川虫を使った鉄兵と、双方四匹ずつ釣り上げ、この勝負は引き分けとなった。ただし、真樹士の釣り上げた魚は四匹ともすべて腹をぱんぱんに膨らませたたっぷりと太ったイワナだった。
早速、晩酌の肴となるイワナ達。山小屋の食事全般は、山伏になる前は料亭の板前だったと言う修司の仕事だ。
「シュウジさん、お手伝いしましょうか?」
初めて山にやって来た時、ほこらで拾ったヒラメをさばいた時の見事な腕前に見とれて以来、向日葵は元板前の修司の包丁さばきを盗もうと調理場に入り浸りだった。
「ゆっくりしててもいいのに、いいのかい?」
修司が真樹士の釣った獲物をまな板に供え、腕まくりをしながら向日葵に向き直った。向日葵は柔らかい髪をふるふると横に揺らし、エプロンを身に付ける。
「手伝わせてください。なんか、私だって役に立ちたいんですよ」
かつんと包丁でまな板を一つ叩き、修司は痩せた頬をにこやかに緩ませる。
「じゃあ塩でそっちのイワナのぬめりを取っていてもらえるかな」
そう言ってまるまると太ったイワナの腹にぷつりと包丁を突き立てた。その後、向日葵と修司は言葉を無くしてしまった。
「……こいつは、驚いたな」
「……イワナって、こんなの食べているんですか?」
包丁を刺し入れたイワナの腹から緑色した物がもりもりと溢れだした。山菜だ。それもかなりの量の新鮮な山菜がイワナの腹に詰め込まれていた。修司がイワナの腹に収まっていたフキノトウを手に取り、鼻に近付けて恐る恐る匂いをかぐ。
「生臭くない。て言うよりも、まるで摘みたてみたいだ」
「フキノトウって、今の時期に採れましたっけ?」
向日葵が小さな蕾のような明るい緑色の塊を摘む。
「おー、いいね。イワナの塩焼きにフキノトウの天婦羅としゃれこもう」
いつのまにか向日葵と修司の背後に立っていた真樹士が嬉しそうな声を上げる。向日葵の手から小さなフキノトウを受け取り、山の土の香りを胸にしまい込む。
「山のお恵みだ。遠慮なくいただこう」
そして向日葵にウインクをあげる。
「ウオのヌシ様が俺にプレゼントしてくれたんだ。テツヘイさんには内緒だからな。俺が実力で釣ったんじゃないってばれちまう」
まるまる太ったイワナはまだ三匹もいる。今夜は豪勢な晩酌になりそうだ。