第3話 人の形 1
「ジュンくん、そういえばさ……」
向日葵が朝食の食器を軽く水洗いしながら、隣の純に軽い口調で尋ねる。
「リンドウちゃん、起きてこないよね」
今日の空模様を聞くような、唐突だがあっさりとした向日葵の問いかけに、純は彼女がいったい何の事を質問しているのかすぐに理解する事ができなかった。
山伏としての能力は勿論の事、ヒトのヌシとしての役割などもない向日葵にとって、山小屋の一員でいる以上何らかの仕事を分担しなければどことなく居心地の悪さを覚えてしまう。家事全般を子供の頃から普通にこなしてきた向日葵は自ら申し出て炊事洗濯掃除などを手伝う事にした。
今朝の朝食の後片付け当番は純。向日葵は純と二人きりの時にずっと気になっていたリンドウの事を聞いてみた。真樹士からリンドウと言う女の子がいる事は聞いている。事の詳細までは聞かされていないが、男だらけの山伏達の中にたった一人の女の子がいる環境を考えると、同じ女性である自分にも何かリンドウの為にできる事がありそうに思える。
「ああ、リンドウですか?」
食器洗い機に皿を規則正しく並べる手を休めて純は向日葵の方を見た。向日葵は軽くすすいだ茶碗を純に手渡そうとして、彼がこちらを見ているのに気付いて水道のパネルに手をかざした。ふっと消えるように蛇口からお湯が止まり、人里遠く離れた山小屋は何の物音もなくなってしまった。ただでさえ静かな山奥がさらに静まり返る。
「うん。ほらさ、マキシくんからちょっとだけ話は聞いていたんだけどさ」
急に静かになってしまい、向日葵は自然と声を細めてしまう。
「こんな場所に女の子たった一人でさ、私がいれば何かと話やすいかなって思ったんだけど、朝食に出てこなかったから具合でもよくないのかなってさ」
「……マキシさんはなんて?」
純は真っ直ぐに向日葵を見つめている。若く精悍な男性の純粋で透き通った視線に、思わず照れて顔を背けてしまい向日葵はパネルに手をかざして音を立てて食器洗いを再開する。
「うん、山に取り残された女の子が一人いるってだけで……、詳しくは山に着いてからって言われて聞いてない」
「マキシさんがそう言っているなら、たぶん後でリンドウの事を教えてくれるんだと思います」
純は向日葵から茶碗を受け取り食器洗い機にきちんと収める。そして言葉を頭の中で積み木のように組み立てて、少し首を傾げてから間を置いて答える。
「彼女、部屋からほとんど出て来ません。出て来てもそんなに多くを語らないし、そもそも何も覚えていないみたいです」
「よっぽど怖い目にあったのね。……可哀相だね」
最後の食器を純に手渡す。水道パネルに手をかざして水道の流れを食器洗い機の方に回し、向日葵はエプロンで手を拭きながら電子炊飯器の中を覗き込んだ。ぱくんと蓋を開けると今朝炊いたごはんが柔らかな湯気を上げた。
「おにぎりでも作ってあげようかな」
「ヒマワリさんて家庭的なヒトですね。フリーライターって聞いていたからもっと、こう、働く女性ってイメージがありました」
「いい事言うねー。おだてるとお姉さん調子に乗っちゃうよ。ごはんずいぶん残っているから他のみんなのおにぎりも作っちゃうか」
「あ、待ってください」
純が食器洗い機を起動させ、向日葵の隣で電子炊飯器を覗き込む。山伏達の体力の源を生み出す大きなお釜の底はまだ見えず、ほくほくとしたツヤのある白いごはんが蒸気の向こう側にたっぷりと見える。
「少なくともお茶碗大盛り分くらいは残しておいてください」
向日葵は純とごはんを交互に見比べて首を傾げる。さらりと柔らかい髪が頬にかかり、それをかきあげて純に尋ねる。
「ジュンくん、お腹空いてるの?」
「いえ、ルールです」
頭の上にクエスチョンマークが浮かんでしまう向日葵。ルールと言えば、ふと思い浮かんだのが好きなサッカーのルール。手を使ってはいけない。それと同じ意味でのルールなのか。電子炊飯器にはごはんを残しておかなければならない。純のオリジナルルールなのか。
そんな向日葵の様子から、純は会話がうまく噛み合っていない事に気付く。
「マキシさんから山のルール聞いてません?」
「聞いてないよ、そんなの」
純はハアと軽くため息をつき、両手の人差し指をそれぞれのこめかみに持ってきて眉間に少ししわを寄せた。世界中の誰が見ても解る、困ったなあ、のポーズを取る。それを見て向日葵も腕を組んで右手を小さな顎に添え、同じく、困ったわね、のポーズを取った。
「マキシさん、そんな大事な事も教えていなかったなんて」
「そんなやばいルールなの? ごはんを残しておかなければイエローカード?」
「いや、ごはんに限らず……」
純はぴんと人差し指を立てもう片方の手を腰に当て、今度は世界中の誰が見ても解る、人にモノを教えるポーズを取った。いちいち解りやすい子だな、と思わず吹き出しそうになる向日葵。
「山にはルールがあります。必ず守らなければならないルールです」
「たとえば?」
純は人差し指をぐっと握り込み、また一つずつ指を立てながら説明を始めた。
「一つ、山では食べ物を食べ尽くしてはいけない。必ず、最低一口分は残しておく事」
向日葵は電子炊飯器を見つめた。液晶パネルが残量と保温時間を表示している。
「二つ、山に入ったら必ず刃物を携行する事。眠る時も肌身離さずに」
朝食を用意した時の包丁を思い浮かべる。眠る時も包丁を握れと?
「三つ、人の真後ろから声をかけない。真後ろから名前を呼ばれても返事をしてはいけない」
思わず背後を振り向いてしまう。もちろん誰がいる訳でなく、食器洗い機がムンムンと静かなハム音を立てているだけ。
「四つ、山の中で物をなくしても絶対に探してはいけない」
昨日、ほこらにお供えしたポテトチップスを思い出す。
「五つ、山に入ったら、お互いを屋号や呼び名で呼び合う事。決して本名を名乗ってはいけない」
それはまずい。ほこらで思い切り本名を名乗って挨拶してしまっている。
「ちょっと待って。思いっきり本名で呼ばれてるじゃん、私」
「それは大丈夫です。山伏達もヒマワリさんもヒトのヌシ様の管理下にあるから、まずはフルネームで本名を名乗る必要があります。僕のジュンだって本名です。ただ……」
「……ただ、何?」
言いにくそうに口籠る純の言葉を続ける向日葵。純は慎重に言葉を継いだ。
「リンドウは本名ではあるけれど、あえて名字は伏せていろとマキシさんが言ってました。彼女の場合、ヒトのヌシ様の管理下にある訳ではなく、今は単に山から降りられない身なので、フルネームで本名を名乗る事は危険です」
会話の流れから想像していなかった単語が耳に飛び込んできた。
キケン。
普段から聞き慣れている単語なはずなのに、妙に輪郭が鋭く触ったら切れそうな音に聞こえた。名前を名乗る事がどんな効果をもたらすのか。キケンってどんな効果なの?
「キケンって、もしルールを破ったら何が起こるの?」
少し困ったように両手を上げて、世界中の誰もが解るお手上げのポーズを取る純。
「まだ誰もルールを破った事がないのでわかりません」
「……なるほど。それは危険だわね」
向日葵は電子炊飯器の中におにぎり数個分のごはんを残し、ごましおと海苔のおにぎりを作れるだけ握った。そして小さめのを3個選び、浅漬けとタクアンを数切れ添えてお皿に盛り付けてラップをかける。
純が教えてくれたリンドウがいるはずの部屋の扉の前に立つ。ノブに手をかけようとするが、少し戸惑うように伸ばした手を泳がせ、ノブには触れずに優しいノックをした。返事を待つが、眠っているのか衣擦れの音すらしない。
「リンドウさん、ヒマワリです」
ふと純の言葉を思い出す。決して本名を名乗ってはいけない。でも自分はヒトのヌシの管理下にあるから平気か。
「おにぎり、置いておくからお腹空いてたら食べてね」
そっとノブを回して扉を開く。ちらり、部屋を覗く。カーテンが閉められ、その隙間から陽の光がこぼれて部屋は明るかった。手紙を書くくらいしか仕事ができなさそうな小さなテーブルがあり、人が中に隠れる事もできなさそうな小さなタンスも見えた。そしてベッドの布団が少しだけ膨らんで見える。
向日葵はラップをかけたおにぎりの皿と麦茶を注いだマグカップがのったトレイを静かにテーブルの上に置き去りにし、それ以上リンドウの方を覗き見る事をやめた。
何故か、自分から彼女に会ってはいけないような気がした。リンドウの方から声をかけてくるまで待つ事にした。