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第2話 美少女フィギュアとハッカーとTシャツと蛾と

 薄く墨を溶かしたような暗い部屋。窓はブラインドを下し、そこへひと昔前に流行った美少女ゲームのポスターをさらに重ね貼り。太陽の光なんて必要ない。

「さあ、腕の見せ所です」

 男が一人、誰に言うともなく呟く。ほの暗い部屋に眩しい光を投げかける液晶ディスプレイの周囲に、さまざまな髪の色を艶やかに流すフィギュア達が、惜し気もなく肌を露出してなまめかしい仕種でご主人様を見上げている。

「今ここに、伝説が始まります」

 狙いは、霊山、洛朱九崚。座王連峰の神格小規模サーバー。噂では何人ものハッカー達が侵入を試み、そして未だ誰も到達した事のないまさに前人未到の電子の秘境だ。

「史上最強のスーパーハッカー、ブライズ様が山に舞い降りる!」

 男は湾曲したキーボードを撫で回す。すると自由に輪郭を歪められる有機キーボードは男の手に馴染むように少しだけ膨らみを増した。

「今ここに、伝説が始まる!」

 もう一度、観客が誰もいない薄暗い舞台で、男は声を張り上げた。

 

 薄暗い部屋。窓からかすかに光が漏れている。木漏れ日のような、和紙で仕上げたちぎり絵を陽に透かしたような、そんなかすかな光。まだ、夜が朝に舞台を明け渡すには早いのか、部屋はぼんやりとしたほのかな暗闇が漂っていた。ベッドの上で向日葵は重いまぶたを半開きにして部屋を眺めた。

 隣にあるべき真樹士の身体はなく、二人の寝室に置いたパソコンに向かう彼の姿が薄明かりの中におぼろげに浮かんで見える。ベッドに手を這わす。すでに温もりはない。ずいぶん前に真樹士はベッドから抜け出したようだ。

「マキシくん、もう、朝?」

 窓の向こうは未だ暗い。解りきっているが、少し意地悪してやる。

「あ、起こしちゃった? もう7時だよ」

「ウソ。まだ暗いもん」

 少し身体を起こし、肘をついて真樹士を眺める。寝起きのTシャツ姿にはまだひんやりとした空気が漂っている。真樹士はカーゴパンツにTシャツの重ね着、いつものイエローレンズのサングラスと言うスタイルでパソコンに向かっていた。

「……何してんの?」

「誰かがハッキングをしかけてきやがった」

 だからこんな夜に起きだしたのか、と、向日葵は本格的に二度寝モードに切り替えて毛布に潜り込んだ。しかしそれは真樹士ののんびりとした声が許さない。

「起きろ起きろ。ほんとにもう7時だよ。山伏のみんなはとっくに山の見回りに出ているよ」

 毛布からひょっこり小さな頭を出す向日葵。さっきよりまぶたはだいぶ軽くなったが、だからと言ってカーテンから朝日が溢れだす事はない。

「……ハッキングって、何かまずい事でも?」

「いや、今までの遊び半分のハッカーじゃないってくらいしかわからないな。ちょっと本気っぽい感じだ。でも今回は様子見ってところかな。泳ぐ前にプールの深さを調べてるってとこか」

 向日葵は真樹士の言葉を半分聞き流してベッドから抜け出した。大きな欠伸を一つして、すらりと細い腕を伸ばして窓のカーテンに手をかける。

「面白みに欠けるけど、なかなか慎重な奴だ。でも、調子に乗りやがるとうっとうしいな。また来たら、存分に泳がせてやるよ。お子様プールじゃなくて、何が潜んでいるかわからない海でな」

 真樹士がお茶のペットボトルを傾け、向日葵の細く滑らかな曲線を描く後ろ姿を眺めた。うーん、両手を頭の上で組んで背伸びをする向日葵。外の様子を覗こうとカーテンの隙間から窓に顔をそおっと近付ける。恐る恐る視線を右へ、左へ。

「大丈夫、あいつらは昼間は出てこないよ。そもそも、あんなに近くに来る事そのものが珍しい」

「べ、別に怖がってる訳じゃないよっ」

 慌てて姿勢を正す向日葵。真樹士はパソコンの前を離れて彼女の隣に立った。さあっと半開きだったカーテンを一気に開け放つ。

「ラフカディオ・ハーンだっけ? 小泉八雲か? 生首が飛ぶなんて怖い話書くよな」

「お化けに興味ないの、私は」

 向日葵はじっと目を凝らす。外は暗い。いや、違う。暗い訳ではない。

「何、これ?」

 何かが窓を隙間なく覆っていて、それが朝日を遮って光が部屋に届いていないようだ。薄い布を幾重にも重ね、その向こうに眩しい朝日が注ぎ込まれている、そんな透明感がある。

「ああ、ヒマワリが怖がらないように、頼んで窓を塞いでおいたんだよ。生首達が君を珍しがって覗きに来るかも知れないしな」

 真樹士は頭一つ小さな向日葵の柔らかな髪を撫でる。彼女の髪の毛は細く、しなやかだ。寝癖もあまりつかず、自然に上から下へと流れている。

「頼んでって、ジュンくん?」

 向日葵は髪を撫でられるまま窓に鼻先を近付けた。布や板で窓を塞いだ訳ではなさそうだ。小さな何かがびっしりとガラス面を埋め尽くしている。外がだいぶ明るいのか、じっと見つめればその小さな何かの重なり具合であちこちに小さく陽の光が透けてくるのがわかる。

「いや、虫のヌシに」

 真樹士がガラスをコツンと小突く。

 そのとたんに窓ガラスを覆い尽くしていた何千匹ものさまざまな模様をした蛾の群れが飛び立った。煙りがうねるがごとく、蛾の塊がまるで一匹の巨大な軟体生物のように窓ガラスから離れて行く。目の前の蛾の壁が崩れ去り、白い朝日がコーヒーに溶けるクリームのように広がる。羽ばたきの音もなく、人の眼のような模様をした羽根を持った蛾達は森に姿を消した。あれだけの数の蛾が呼吸する間もないほんのわずかな時間で森に溶け込んで行った。

 と、真樹士の隣で猫のように彼に身体を預けていた向日葵の姿も消え失せていた。振り返ると、ベッドが人間一人分膨らんでいる。

「……どうした?」

「ムシ嫌いっ! 特にガは超嫌いっ!」

 ベッドの膨らみが甲高く叫ぶ。

「じゃあ次から蛾じゃなくて蝶々に頼むよ」

「そういう問題じゃないっ! ムシ大っ嫌いっ!」

 ひょっとして、離婚も時間の問題かも知れない。真樹士は向日葵を説得してベッドから引きずり出すのに小一時間要した。

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