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第1話 リンドウ 3

 小さな光の粒がかすかな風に舞う。透明感のない濁った光がそれぞれ対をなすかのように瞬き、暗闇に包み込まれた森林にふわふわと漂い、黒い森をささやかに飾っている。

「飲む?」

 何百年もの歴史を過ごした木の幹をそのまま輪切りにして仕上げたような、年輪が幾重にも刻まれたテーブルによく冷えた缶ビールが置かれる。その隣にはヒラメの刺身、ピーナッツと柿の種。

「じゃあ、ちょっとだけいただきます」

 純は真樹士からグラスを受け取る。山小屋のバルコニーに真樹士と純は森を漂う不確かな光を眺めながら座った。

「今日はずいぶんと数が多いな」

 ざわりと木の葉を揺らす風が吹けば、小さく頼りない光はいっせいに瞬き、まるで淋し気なクリスマスツリーのように一層に森の暗さを引き立たせる。真樹士の言う通り、これだけの光の乱舞は珍しい。薄ら寒い深い森の奥、山小屋の側の小川がさらさらと流れ、水車がきしきしと回る。真樹士の手の中で缶ビールはぱしゅっと小気味良い音を立てた。

 真樹士は遠慮がちに手を伸ばした純のグラスになみなみとビールを注ぐ。お返しと、缶を受け取ろうともう片方の手を伸ばす純だが、真樹士はそれをかわすように腕を捻って自分のグラスに溢れる程に泡を立てた。

「それじゃあ、まずは乾杯といこう」

 はたして今夜何度目の乾杯か。グラスが堅いレンガをぶつけあわせたような高い音を響かせる。酒そのものにあまり免疫のない純は唇を湿らせる程度に口をつけ、真樹士をじっと真っ直ぐに見つめた。

 小さなグラスとは言え一気にビールをあおり、かつんと木のテーブルに透明度のある音を立ててグラスを置き、それからやっとその視線に気付く真樹士。またもや缶に伸ばした純の手を避けるように真樹士はビールをひったくる。

「今の俺達はヒトのヌシと山伏じゃねえよ。古くからの友達だと思って何でも言えよ」

 他の山伏達や向日葵はまだ山小屋の中で飲んでいる。真樹士は純を連れてその宴を抜け出し、森に面したバルコニーにでてきたのだった。純は頭の中で自分が使うべき言葉をきちんと推敲するようにしばらく黙りこくり、やはり真っ直ぐに真樹士を見据えて口を開いた。

「あらためて、ご結婚おめでとうございます。ヒマワリさんって、かわいい人ですね」

「……おまえほんっと真っ直ぐで真面目なんだな」

 真樹士の反応に純は言葉に詰まってしまう。自分が思った事、伝えたい事をそのまま飾らない言葉にしたつもりだ。カゴの中で懸命に輪を回すハムスターを眺めるような顔で見られても困ってしまう。

「何か、変でした?」

「いやいやいや」

 真樹士はピーナッツを一粒つまみ、暗闇の森に投げ込んだ。濁った光がふわりとそれをよける。

「惜しい、よけたか」

 次の一粒は口の中に放り込み、すぐに噛まずに口の中を転がしながら純の真っ直ぐな視線に向き直った。

「らしくていいよ。すごくいい。俺も俺らしく、単刀直入に聞くぜ」

 真樹士は再びグラスのビールを一気に喉に流し込んだ。

「あの子を見つけた時、どう思った? おまえの素直な感想を聞きたい」

 あの子。

 先代の人の主が山で行方不明になり、そして真樹士が指揮した山伏達が彼の無惨な死体を発見し、同時に深い山にはあまりにも似合わない明るい色のパジャマ姿の少女を見つけたのは、今からちょうど一ヶ月前の出来事だった。

 純は真樹士から視線を反らした。森に漂う不確かな光達を目で追いかけ、慎重に自分の言葉を組み立てる。

「……ここにいてはいけない子だって感じました」

 純はグラスを傾け、乾き始めた口の中をビールで潤す。

 あの瞬間、純の心にじわりと染み出してきたのは、人の主の死と言う衝撃でもなく場違いな少女への憐れみでもなく、早く彼女を隠さなければならないと言った苦い焦燥感だった。思い出しただけでも口の中が乾く。慣れない酒で口を湿らし、あの時の森の光景を頭に描く。

 人の身体を形作っていたものがバラバラに散らばり、生暖かく鼻の穴に粘り付く臭いが立ち上り、足元はどろりとした血にぬかるんでいた。ヘッドセットのおかげで深い暗闇に沈んだ森も画像処理されて鮮明に見渡せる。

 そして、一人の少女。血だまりに立ちすくむパジャマ姿の高校生くらいの少女。光が一粒もない深夜の森。人が立ち入ってはいけない聖なる山。ふもとの町まで数時間も歩かなければならない森に、泥一つついていない裸足のパジャマ姿の少女。

「ここにいてはいけない……?」

 真樹士が新しい缶ビールを開けて先を促す。

「はい。こう、ここにいるべきではないって意味じゃなくて、早くここから連れ出さなければと言う意味で、ここにいてはいけない。……意味わかります?」

 真樹士はグラスに口をつけたまま森を漂う光を見つめていた。ふわりふわり右へ、ふわりふわり左へ。

「……で?」

「とりあえず彼女の名前がリンドウだとわかった。……それだけです」

「リンドウ、か」

「身元は地元警察に問い合わせて確認できましたけど、彼女自身、自分が何者か理解できないみたいで。それと……」

 少し言い澱む純。慣れないビールをまた口に含む。

「死体は、一人分ではなかったみたいです。数人分か、少なくとも、二人分の肉体。しかし、足りないパーツも相当あったみたいで、おそらく大型動物に捕食されたのではないかってのが警察の見解です」

 今度は真樹士が慎重に言葉を選ぶ番だった。頭の中に散らばるピースを組み合わせ、最もそれらしい形に組み上げる。

「おまえの感想は正しい。現状から導かれる真相はこうだ。オフレコだ。ゲンさんにも言うなよ」

 こくり、頷く純。

「事の始まりは今の段階ではなんとも言えない。しかしきっかけはヌシの寄り合いだ。ヌシの寄り合いでヒトのヌシと、何かが揉め事を起こした。そして、ヒトのヌシは殺された。ここまではすでに発生している事実だ。そしてここからは推測だ。ヒトと厄介事を起こすのはどいつだ?」

「揉め事って言っても、いったい何を揉めたのか?」

 真樹士はグラスを持つ手で純の真っ直ぐな視線を指差して言う。

「考える順番が違うぜ、ジュン。何を揉めたのか、じゃない。何がヒトのヌシを食い殺したか、だ。そうすれば理由なんて自然と解る」

「大型動物、……熊?」

「普通ならな。だが違う。ここは神なる山だぜ。山のルールにのっとって考えれば容疑者は絞られるだろ」

 山のルール。純は首を傾げるしかなかった。そんな正直な彼のリアクションを楽しむように真樹士はもったいぶって話す。

「下位のヌシは上位のヌシに逆らえない。それが山のルール。熊のヌシは山の番人だ。ヒトが悪さしないよう、唯一ヒトが逆らえないヌシ様だ。他のヌシはヒトよりも下位だ。でも、ヒトのヌシは食われていた。解るか?」

 一気に捲し立てて真樹士はヒラメの刺身を口に放り込んだ。もぐもぐとやりながら純の返事を待つ。

「……解りません」

「山でモノを食うってのは何を意味する?」

「命を譲り受ける事。その能力を獲得、……ああ、そうか!」

 純は暗い森を仰いだ。両手で顔を多い、もはやこの世にいない老人の顔を思い浮かべた。

 山でモノを食らう事。木の実を食い、虫を食い、魚を食い、鳥を食い、獣を食う。山から受け継いだ命を自らも継ぎ、その能力を戴く。木のように永く生き、虫のように儚く鳴き、魚のように清く泳ぎ、鳥のように早く飛び、獣のように強く走る。

「そう、ヒトのヌシを食った奴は、……ヒトになりたかったんだよ。だからヒトを食った。さて、ヒトになりたい奴らは?」

「……猿。じゃあ、サルのヌシが?」

「物事は連鎖で考えろ。偶然は単独で起こらない。新たな偶然を引き連れて、必然となるんだ」

「連鎖で?」

 純はやはり首を傾げるしかない。ビールを煽り、ヒラメの刺身を楽しむ真樹士の次の言葉を待つ。真樹士はヒラメの刺身を一切れ箸でつまみ上げて純にすすめる。純は無言で顔を横に振った。真樹士は、じゃあ遠慮なく、とでも言うように刺身が盛り付けられた皿を自分の方へ引き寄せた。

「ヌシの寄り合いには御馳走が振舞われるものだ。そして死体は、少なくとも二人分。つまり、ヒトのヌシの他の死体は振舞われた御馳走だったんだよ。サルのヌシが要求したんだろうな。それしか考えられない」

「でも、下位のサルが上位のヒトを食うだなんて、そんな事は山の神が許さない」

「だから連鎖で考えるんだよ」

 真樹士は純の反論をばっさりと切り捨てた。

「山の神が山を裁定する立場にいられなかったとしたら? そう。だから、ヌシの寄り合いが必要だったんだ。そしてその場で、サルの奴がヒトを御馳走に要求し、ヒトのヌシはそれを止めようとし、逆にサルのヌシに殺された。もう八十だったもんな。ヌシとしては年を取り過ぎていたかもな」

 純は真樹士の言葉を一度分解し、頭の中でもう一度組み立てた。余分なパーツも足りないパーツもはないように思える。山の掟に従えば、確かにそれが最も筋が通る推理だ。

「それが事の発端だったのさ。山の神が何故山を裁く事ができなかったのか。それはいまの段階では情報が足りな過ぎてわからないけどな。でも連鎖は続く。次だ」

「次って、サルのヌシがヒトになれたかって事ですか?」

「鋭いじゃないか、ジュン」

 真樹士は最後のヒラメを頬張る。

「なれる訳がない。サルはサルだ。だけど、サルはヒトになりたい。ヒトを食えばヒトになれると思ってな。そして、山の神はいない。何が起こる?」

「じゃあ、リンドウは……」

 そこまで言いかけた純の言葉を真樹士が片手を振るって飲み込ませた。足音が近付いてくる。軽い足音。どの山伏達とも違う足音。向日葵だ。

「はーい、お二人さん、こんな所にいたの?」

 バルコニーの扉が開け放たれて、陽気な声が暗い森に染み込んだ。漂う光達がびくっと揺れる。頬をほんのり赤く染めた向日葵は栗色の髪をかきあげて、森の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。ふと真樹士のグラスに気付き、それを奪い取ろうと細い手を伸ばす。

「おいおい、飲み過ぎだよ、おまえさん」

 そう言う割りにはあっさりとグラスを引き渡す真樹士。

「わーお、ホタル! すっごい! さすが大自然!」

 頬の色以上に酒が入っているのか、向日葵は抑揚のある声で舞台俳優さながら森を抱き締めるように両腕を広げた。ふと思いつき、上着のポケットからデジカメを取り出す。

「あ、ヒマワリ、やめとけ……」

「ヒマワリさん、待って……」

 真樹士と純が同時に声を上げたが、向日葵は二人の声も聞かずに森を乱舞する光にデジカメを向ける。

 フラッシュ。

 びくっと固まる向日葵。

 光は瞬き、ふっと森の奥底へと消えて行った。

「……」

 向日葵は動かない。動けない。

「あー、ヒマワリ。言ったろ。この山で生き物の写真は撮るなって」

「……あー、……うん、いったっけ?」

 真樹士はゆっくりと立ち上がり、動けないでいる向日葵の手からデジカメとグラスを受け取った。ぽんと彼女の肩に手を起き、くるり、強制回れ右させる。

「けっこう飲んだろ、お腹に子供いるんだからあんまり飲むなよ。もう寝ろ。そうだ、今夜は一緒に寝てやろうか?」

 純が側にいるのにも関わらず、真樹士はすらっと恥ずかし気もなく言う。

「あー、そのー、……お願い。悪い夢見そう」

 向日葵はそう呟くと開けっ放しだった扉に足早に消えて行った。真樹士は肩をすくめて彼女のデジカメを覗く。思わず声が漏れる。

「うお、すげえや。テレビ局にこの画像高く売れっかな?」

 そして純に向かってデジカメを放り投げた。

「もう寝ようぜ。明日から忙しいぞ。サルの奴がまだ山をうろついてやがる。もちろん狙いはリンドウだ」

 ちらほらと、光達が舞い戻ってくる。純はデジカメの画像を眺め、真樹士と同じように思わず声を漏してしまった。

「うわあ、ヒマワリさん、今夜は眠れませんね」

 向日葵のデジカメは、森に漂う幾つもの青白い生首を写していた。生首はみなきっちりとカメラ目線で、その眼はぎらりとフラッシュの光を反射させていた。

 真樹士はピーナッツを一粒つまみ取り、森に漂う薄暗く鈍い光に投げ付けた。今度は光は避けなかった。ふっとピーナッツが闇にかき消え、ぽりぽりと噛み砕く音が小さく聞こえてくる。

 ふわりふわり、幾つもの対をなした光が森に漂っていた。

 ふわり、ふわりと。


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