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はじまりのおしまい

 空は果てしなく高く、彼方に霞んでいる雲が絹のようになびいて見える。もうすぐ秋は本格的に旅支度を始め、冬がどっしりと居座ろうと重い足音を轟かせる頃合いがやってくる。

 まだ朝も早い。いつもならベッドの暖かさに包まれてまだ夢心地でいる時間だ。向日葵は大きく息を吐いてみた。まだまだ気合いが足りないなと言いたくなる程度の白い吐息はあっという間に森に溶け込んでいった。

「マキシくーん、お腹減ったよー」

 朝御飯もまだだ。太陽が昇る前に真樹士と向日葵、二人だけで山小屋を出発。真樹士だけでなく向日葵までもリュックを背負わされ、そこにいろいろな食べ物が詰め込まれている。

「これは寄り合いの滝についてからだよ。みんなで食べるの」

「みんなって?」

 二人だけで散歩に行く、そう聞いていたつもりだが。

「俺と君と、あとヌシの皆様」

「え、聞いてないよ」

 ぴたり、足が止まる向日葵。一度だけ出会った事がある虫の主様を思い出す。昆虫、爬虫類の集合体と一匹の白い大蛇。蛇はなんとか我慢できたとしても、虫達と食卓を一緒にするのは、はたして。

「心配しなくていいよ」

 真樹士が彼女の心を読み取ったかのように応えた。

「今日は山の神と君のお披露目だ。正式な山のヌシ達の寄り合いだから、みんな礼儀正しく接してくれる」

「お披露目?」

 少しばかり向日葵の心配と角度が違っていたが、とりあえず真樹士の言葉を信用してやる事にする向日葵。真樹士はふと空を見上げながら白い息を吐いて続けた。

「そう。あとは滝に着いてからのお楽しみ。話さなきゃなんない事がいっぱいあるんだ」

 向日葵は真樹士に習って空を見上げた。まだ青に染まりきっていない早朝の空。そういえば、向日葵が山に入ってから、ここまで静かさに満ちた空と山、穏やかで澄みきった森の空気は初めてかもしれない。

 いろいろな事が起こった。恐ろしくて、悲しくて。すべてに終止符が打たれてから一週間経つが、未だに一人で眠るには夜は暗すぎる。隣の真樹士をちらりと覗き見る。真樹士はこれっぽっちも不安げな要素を顔に浮かべず、まさにピクニックを楽しんでいる顔だった。この顔が隣にあるなら何も心配する必要はないか。自然と向日葵も笑顔になる。

 まだまだわからない事、聞きたい事がいっぱいある。向日葵の頭の中の謎はまだ何も解決していなかった。

「ま、いいか」

 いまさらごちゃごちゃ言ったって始まらない。真樹士に任せるしかない。

 

 二人きりの寄り合いの滝。滝は大袈裟に砕け落ちる音もなく、静かに水をたたえる滝つぼに注がれている。大きな滝つぼから清流として森に流れ込む澄んだ水の流れ。森が少し開けた場所に滝はあり、地面は座り心地のよさそうな背の低い柔らかい雑草で埋め尽くされている。一歩踏み込むと不思議と音もなく登山靴が沈み込み、それでもしっかりと確かな地面で支えてくれている。

 なんて静かな場所なんだろうか。隣に座る真樹士の吐息すら聞いて取れる。

 草の上に座る。滝の側で、もう秋も深いと言うのに暖かい。上質の絨毯に腰をおろしているような気分だ。柔らかい草の上を指でなぞる。

「ヒマワリ? どうしたの?」

 真樹士が顔を覗き込んで来た。そんなに惚けた顔をしていたのか、向日葵は思わず座り直して姿勢を正してしまう。

「ううん。ただ、居心地いいなって」

「ああ。山の神も戻って来た。すべてのヌシ達も収まる所に収まった。これが本来の神の住む山だよ」

 そう言って真樹士はバックパックをごそごそと探り出す。さまざまな食べ物が詰まった真樹士と向日葵が背負って来た物だ。

 ふと向日葵が顔を上げると、いつのまに現れたのか、白い大蛇が鎌首をもたげて真樹士と向日葵を見つめていた。ウロコが見て取れない程にきめ細かい陶器のような滑らかな肌と、黄金色の宝石にうっすらと亀裂が入ったような瞳。ぺろり、二股の舌を出す。

「よお、こないだはお世話様」

 あまりに突然の登場に固まったまま動けない向日葵を余所目に、真樹士はバックパックから立派なリンゴを取り出した。発泡の網に包まれたままの、なんとも果物と思えない輝きを放った重いリンゴを虫の主に見せてやる。

「ど、どーも」

 ぎこちなく頭を下げる向日葵。真樹士はにやにやとその様子を見ながらリンゴの発泡の網を取ってやって白い蛇に軽く投げてやった。虫の主はぱくりとリンゴをくわえて、ゆっくりと頭を下げた。

「箱でリンゴを用意したよ。後でみんなの分も持って来るからな」

「ムシのヌシ様ってリンゴが好きなの?」

 向日葵はゼンマイ仕掛けの人形のように首をかくかくと回して真樹士を見る。真樹士はバックパックに腕を突っ込んで次の食べ物を探していた。

「蛇とリンゴは、アダムとイブの時代から意外に接点があるのさ。それよりちゃんとご挨拶しろよ。いくら下位のヌシだからって相手は虫の王だからな」

「ハイハイ」

「返事は一度ね」

 次にバックパックから出て来たのは釣りのエサだった。水とこねあわせて作る練り餌の素だ。真樹士はすっと立ち上がると滝つぼに近付いて行く。

「このメーカーの練り餌じゃなきゃダメって言うんだよ。やっぱ大手メーカーは味が違うのかな」

 びりっと袋を破いてそのままどさどさとエサの素を水に投げ込む。すると水面にじわじわと黒い影が浮かんで来た。波紋が一つ二つと水面を揺らす。

「ウオのヌシ様だよ。さすがに水から出ると身体重くて動けなくなるからこのままで失礼するよ」

「ウオのヌシ様って、岩魚と山菜くれたヒト?」

 ヒトかどうか、すでに感覚が麻痺しかかっている向日葵。よちよちと四つん這いになって水際に近付く。そこには全身に苔の生えたオオサンショウウオがぽっかりと口を開けて、確かにうまそうに練り餌を味わっていた。

「ヒラメもね。ここらへんの魚をすべて司っている。ヌシ様怒らせたら海でも魚が釣れなくなっちまう」

「それはそれは」

 すごいのかどうか、よくわからなくなってきた。

「おいしいお魚、いつもお世話様です」

 よくわけのわからない挨拶をしてしまう向日葵。オオサンショウウオはばくんと口を閉じて挨拶を返してくれたようだ。真樹士は水に手を突っ込んでオオサンショウウオの頭に生えた苔をわしゃわしゃとかき回した。喜んでいるのか、嫌がっているのか。とりあえず身をよじっているオオサンショウウオを眺める向日葵。

 と、一陣の風が向日葵の切りそろえた前髪をさらった。髪をおさえて見上げると、巨大な鳶が一羽が頭上の大樹の上にとまっていた。このヒトは会った事がある。思わず向日葵は手を振った。いつか真樹士を運んできた鳥の主様だ。

「トリのヌシ様の好物はなーんだ?」

 真樹士がバックパックに腕を突っ込んで次のお土産をまさぐっている。向日葵は鳶の大きな姿を見上げながら顎に指を添える。

「トンビと言ったら油揚げ?」

「正解。しかも定義山の厚揚げじゃないとだめ。ヌシってみんなワガママなんだよなー」

「マキシくんもあんぱんは粒あんじゃないと嫌がるじゃん」

「そりゃあ、俺もヌシだから。ワガママ言う権利がある」

 真樹士はぽーんと厚揚げを高く放り投げた。それを器用にくちばしでキャッチした鳥の主。虫の主。魚の主。鳥の主。向日葵は指折り数えた。確か、山には九つの主がいたはず。

「ネコマタ! キミへのお土産は食べ物じゃないから後でな」

 真樹士が今度は向日葵が背負って来たリュックの中に腕を突っ込んで背後に大声を上げた。それにつられて振り返る向日葵。またまたいつのまにか、猫耳をつけた少女が草の上に横たわっていた。今日もまたメイド服姿で、肩肘をついてにっこりと笑みを投げかけて来た。こうして見ると、ただのかわいいコスプレ少女にしか見えない。しかし本体は猫又と言う妖怪だ。それが山の獣達の主。

「ジュンちゃんとのデート、だよね?」

 ぺろり、舌を出す。その舌は人間のモノとは思えない長さと鋭利さを持っていた。向日葵はなんとなく気の合うこの妖怪の側に寄って、また草の上にぺたりと座った。そして彼女の猫耳にこっそり手を伸ばす。

「こら、ヒーちゃん、くすぐったいって!」

「いーじゃん、ネーちゃん。ふさふさして気持ちいいって」

 何故か異様に仲のいい二人を真樹士は冷ややかな視線で眺めた。猫又と向日葵が手を組んでしまったら、ひょっとしてかなり手に負えないコンビになってしまうのではないか。これからの夫婦生活が少し不安になる。

「ヒーちゃんネーちゃんってキミらねえ」

 真樹士はリュックから一房の巨峰を取り出した。そしてきょろきょろと周囲を見回し、鳥の主が止まっている大樹の幹の中程に、目的の小さな白い影を見つけた。

「おーい、サルのヌシ様。降りてきな」

 向日葵と猫又は一緒に寝転がったままの姿勢で頭上を見上げた。木漏れ日の差し込む緑色が色濃く折り重なった木々の中、だるまのように小さく手足をたたんだ小さい老猿の姿がある。猿の主との戦いを思い出し、思わず身を堅くする向日葵。

「大丈夫よ、ヒーちゃん。あいつは先代のサルのヌシ。大人しい奴よ」

 向日葵にくすぐられて気が緩んで人への変化が崩れかけた猫又は、頬にぴょこんと生えたヒゲをつまみながら向日葵の膝を撫で付けた。

「そうだよ。俺達ヒトが代替わりをしたように、ちょうどサルのヌシも代替わりしたんだ」

 真樹士は樹から降りて来た白髪の猿に頭を下げ、大きくたわわに実を付けた巨峰を手渡した。

「みんなの分もあるよ。後で箱で持って来てやるからな」

 まるで深く土下座するかのように、白い老猿は両手を地面に付けて人の主へ対して自らの後頭部を晒した。人の主は片膝を付いて猿の主の背に手をかけた。ゆっくりと顔を上げる老猿。

「もう全部終わったんだ。気にすんなって」

 それを見て猫又が向日葵にこっそり耳打ちする。

「マキシちゃんってけっこう甘いよね」

「何でも飲み込んじゃう。いつかストレス溜まって爆発しちゃうよ」

 真樹士はもう一度ぽんと猿の背中を軽く叩いてやり、今度はリュックから蜂蜜の瓶を取り出した。向日葵が気付くと、いつのまにか真樹士の背後に黄金色の小山がもこもこと動いている。

「やあ、クマのヌシ様。きっちり、全部終わったよ」

 黄金色の小山はひょっこりと首を伸ばし、蜂蜜を持った真樹士の手元を覗き込んだ。真ん丸に太った巨大な熊は子猫のように真樹士にじゃれつき、くんくんと鼻を鳴らして蜂蜜をねだった。

「最高に高かったんだからちゃんと味わって舐めてくださいよ」

 真樹士は蓋を外して熊の主に最高級のアカシア蜂蜜を熊に渡した。早速蜂蜜に舌を伸ばしたその丸っこい頭を撫でてやり、向日葵のリュックにまた手を差し込む真樹士。あれ、と顔をしかめてリュックの中に顔を突っ込む。

「ヒマワリ、栄養剤どこに入れた?」

 リュックに顔を突っ込んだままの真樹士が訊ねる。向日葵は少し考えて、もう片方の荷物、真樹士のバックパックを指差した。

「マキシくんが自分で持つって言わなかったっけ?」

「そっか?」

 真樹士は自分のバックパックを拾い直して中を覗き首を傾げる。と、思い出したように横のポケットを探り、植物用栄養剤アンプルのパック取り出した。

「あったあった。これが効くらしいんだ」

 寝転ぶ猫又と向日葵の元に帰って来る真樹士。よっこいしょと草の上に腰を下し、すぐ側の大樹の根本にアンプルを差し込んだ。

「何してんの?」

 思わず手元を覗き込んでしまう向日葵。普通にホームセンターの園芸コーナーに売っていそうな栄養剤のアンプルだ。差し終えた真樹士は満足そうに立派に太った樹の幹を掌で叩く。

「紹介が遅れたな。ミドリのヌシ様だよ。山の植物達の王だ」

 向日葵は幹を撫でる真樹士の手元から大きく頭上を見上げた。苔むした根本。そして真っ直ぐに空を支えているように伸びる太い幹。精いっぱい両手を広げているような枝と溢れる緑色の葉。鳥の主の巨大な鳶がとまっていてもまるで揺るがない。

「はじめまして、よろしくお願いします」

 向日葵はきっちりと座り直して頭を下げた。猫又もおもしろがってそれに習う。

「さあて、俺達も食べよう。猫又、キミも食べるか?」

 真樹士は自分のバックパックからサンドイッチを取り出した。しかし向日葵がちょっと待ってと掌を見せる。

「ねえ、数合わなくない?」

「数?」

「うん。虫、魚、鳥、獣、猿、人、熊、緑。八種のヌシ様しかいないよ。九つのヌシだからあと一人いるんじゃない?」

「大丈夫、忘れてないよ」

 真樹士はサンドイッチの後にポテトチップの袋をバックパックから引っ張りだした。向日葵に見せびらかすように手渡す。このポテトチップは、初めて山に入った日に入り口の祠にお供えしたものと同じ物だ。

「ヌシのヌシ様、いわゆる山の神様だ」

 そう言って真樹士は向日葵からポテトチップを取りかえして袋を開ける。そのまま誰かに手渡すように、隣の誰もいない空間に袋を持って行く。真樹士が手を離しても不思議と袋は宙に浮いたまま落ちる事はなかった。

「さっきからずっとそこにいたけど、向日葵はまだ修行不足だからよほど近付かないとお姿を拝見できないかな」

 ポテトチップの袋がかさかさと揺れる。あの日の風を思い出す。森を一陣の風が通り過ぎて、お供えしたポテトチップは中身が消え失せていた。あっと思わず声が出てしまう。

 揺れるポテトチップの袋から、小さく細い子供の手が伸びているのが空気に滲んでくるようにうっすらと見えて来た。一枚のチップをうれしそうに口に運ぶひな人形のような着物を身に纏ったきれいな黒髪をした女の子。それと、彼女の肩を抱く、アーモンドのような大きな目をした少女。

「やっと紹介できるな」

 真樹士がせき払いを一つ。

「新しい山の神様と、リンドウだよ」

 

「すべての事の発端は、山の神の代替わりだったんだ」

 ミステリー小説の探偵役の最後の最後での謎解きのように、真樹士は少女の形をした山の神とリンドウの側に座って話を始めた。

「俺やサルがそうだったように、山の神様にも代替わりの時期があるって事そのものが意外だったよ」

 トマトとハムとレタス、それと真樹士の希望のマヨネーズがたっぷりと挟まれたサンドイッチにかぶりつく真樹士。ヒトの形をした向日葵、猫又、山の神、そしてリンドウが車座に座る。他の主達は思い思いの居心地のいい場所を陣取り人の主の手土産を味わっていた。

「そして主の寄り合いが催された。新しい山の神様を迎えるにあたってのな。でも山の神様はまだまだ生まれたて赤ん坊。お守役として、ある一人の女の子が選ばれた」

 携帯ストーブで沸かした紅茶をすする真樹士はリンドウを視線で示した。

「それがリンドウだ」

 向日葵はリンドウの横顔を眺めた。山小屋にいた時は一度も会えなかったが、こうして見ても、普通の女子高生にしか見えない。黒髪は長く、顔も首も身体付きも細い。身長は向日葵の方が低いが、その細い身体付きからリンドウの方が華奢に見える。リンドウは向日葵の視線に気付き、少し照れくさそうな笑顔を見せてくれた。

「そして、悲劇は始まった。山の神様の不在の時間。代替わりしたばかりの若く凶暴な新しいサルのヌシ。代替わりを目前として力を失いつつあった年老いた先代のヒトのヌシ」

 真樹士は少し言い淀む。

「サルのヌシは、お守役として紹介されたリンドウを襲って食ってしまった。そしてヒトの力を得て、ヒトのヌシまでも手にかけたんだ」

 その言葉がすぐに理解できなかった向日葵は首を傾げてリンドウを見、真樹士へ視線を戻し、またリンドウの少し困ったような笑顔を見てやった。おいしそうにパリパリとポテトチップを食べる山の神様を膝に抱き、本当の子供をあやすようにその艶やかな青みを帯びた黒髪を撫で付けているリンドウ。どこか、悲し気な笑顔にも感じられる。

「そうだよ。いまここにいるリンドウは、と言うよりも、山小屋にいた時からそうだったけど、リンドウは幽霊さんだよ」

 思わず向日葵のサンドイッチを口に運ぶ手が止まってしまう。

「最初、死んだリンドウの魂をサル達が狙っていると勘違いしたんだ。だからリンドウを厳重にガードしていた。でも、サル達の狙いがヒマワリと、俺、ヌシそのものだと解って、こっちもやっと攻めに出る事ができたんだ」

 真樹士は紅茶をなめるようにすすりながら淡々と続ける。

「向日葵、山小屋ではキミだけがリンドウを見れなかったんだ。会っていない訳じゃなくて、ずっと一緒にいたけど、目に入らなかっただけなんだよ」

「すると、何?」

 もう、大抵の事では驚かなくなって来た自分に少し驚く。

「いまここにいるみんなの中、まともな人間は私だけ?」

 人の主、山の神、幽霊、妖怪がくすくすと笑う。

「ヒーちゃんだってもうまともなヒトじゃないよ。お腹の子、たぶん次のヒトのヌシ様になるよ。そんなちっちゃいうちから山の中で暮らすんだもん」

 猫又が不器用にサンドイッチを食べこぼしながら笑った。

「それについてはまた話すよ」

 真樹士が新しいサンドイッチを摘まみ上げて言った。タマゴサラダがはさまれたもので、具を覗き込んで、やったと小さく呟く。

「ヒトのヌシとリンドウの遺体が発見されてからは、ヒマワリも知っての通りだ。山は変調を来し、ヒトを食った事によりその力を獲得したサルは三匹。七人の山伏と戦って、この山から強いヒトが四人と、強いサルが三匹いなくなってしまった。残念だ。でも、もう過ぎた事だ」

 タマゴサラダのサンドイッチにかぶりつく。真樹士はゆっくりと味わって温くなった紅茶で流し込み、向日葵に紅茶のカップを向ける。

「あと、何か知りたい事は?」

 向日葵はリンドウの穏やかな笑顔と山の神の無邪気な食べっぷりを交互に眺め、食べ慣れていないサンドイッチに苦戦している猫又を見て吹き出しそうになり、そして真樹士を真正面から見つめた。

 首を横に振る。切りそろえた柔らかい前髪がふるふると揺れ、自分でも少し誇り高くなれる、そんな笑顔を見せてあげた。

「山はこれからもこんな感じで在り続けるんでしょ?」

 こんな感じ。いままさに彼女を包んでいるこの居心地の良い空気。

「ああ」

 真樹士はゆっくりと頷いてくれた。向日葵にはそのたった一秒の返事で充分だった。

「なら問題なしよ」

 

「どーしたどーしたっ! おまえの底力はその程度なのかっ!」

 真樹士のどこか楽し気な声が山にこだまする。二つ、大きく手を打って腕組みをして黄色いサングラスをかけ直す。その視線の先には二人のトレーニングウェア姿。一つは純。人間の限界を越えた激しい運動での全身の肉離れ、身体のあちこちの腱がちぎれ、いまだリハビリ中の身だ。それでも、すでに超人的な回復力を見せている。彼も腕組みをして涼しい顔でもう一人のトレーニングウェアを見やった。

 もう一人は、両手を膝について大きく肩で息をしている。全身から汗が蒸気のように吹き出ていて、髪の毛もシャワーを浴びたように額にへばりついている。大きく息を吐き捨てて伸びをして、空に向かってあらん限りの大声で叫ぶ。

「まだまだーっ!」

 その声を聞き付けた向日葵はマフラーをしっかりと首に巻き付けて、白い息とともにその疲れきった新人山伏に声をかけてあげた。

「ヤマワキくーん! 買い出しに行くけど、何か食べたいのあるーっ?」

 真樹士が振り返ると、車の準備をする鉄兵と、身重の向日葵のためにもう一人雇った女性板山伏とでも言おうか、鉄兵と遜色ない立派な身体付きをしたお手伝いさんのキヨ子がいた。

 もともと女人禁制の山。女性神である山の神様が嫉妬するから。それが神聖なる領域に女人が入山する事を禁じた最大の理由だ。しかしその山の神様自身から真樹士はきっちりと許可を取っている。ふもとの町の神主達の組合からちくちくと嫌味も聞こえて来たが、誰にも文句を言われる筋合いはない。

 当のキヨ子もなかなかの豪気な人物で、山伏と言うよりも山姥と呼んでくれと山小屋での家事を一手に引き受けている。さすがに元料理人の修治の方が料理の腕は上と、厨房は相変わらず修治の聖域となっていたが、確実にキヨ子は山伏達の大いなる母として関西出身の中年女性に見られるその巨大な存在感を見せ付けていた。

「マキシくんはー? ヤマンバさんとスーパー行って来るよー」

 本当の母と娘のようにすっかり打ち解けているキヨ子と向日葵。

「ヤマワキー、遠慮なしなー。おまえさんはまだまだ鍛えなくっちゃなんないんだ。しっかり食いたいの食えよ。俺はビールがあれば何でもいいよー」

 真樹士にスカウトされ、あっさりと警察官の道を捨てて山伏に転職した山脇は額の汗を拭って少しだけ考えて、まだまだ元気がある事をアピールするかのようにまた大声を張り上げた。

「ハンバーグッ!」

 思わず笑い出してしまう山脇以外。

「……なんか変な事言いました?」

 きょとんとする山脇に、ひとしきり笑い終えてから真樹士が言った。

「オーケイ。じゃあ最後の一本な。ジュン、リハビリ中だからって手加減するなよ。ヤマワキ、ジュンのタイムから10分以内にゴールできれば、俺が編集した特製DVDプレゼントするよ。オトコなら見とけってDVDだ。モエルぞ」

 ふと純が携帯電話を取り出して、笑いながらそれに応えていた。その余裕っぷりを見て、それと真樹士のDVDプレゼントと言う言葉に反応して山脇はぐいと胸を張った。

「お願いしまーっす!」

 笑いを堪える事のできない真樹士。ああ、なんていじりがいのある新人なんだ。

「ヒマワリさん、お願いしていいですか?」

 純が携帯電話をポケットに戻しながら真樹士と向日葵の元に歩いて来た。やはり笑いを堪えている様子で、にこにこしながら山脇の頑張りっぷりを眺めている。

「リンドウから電話。山の神様がピザ味のポテトチップ食べたいって」

 山の神のお守役についたリンドウは、あれから山小屋には降りて来ていない。それでも純の携帯に何かと連絡を入れて来るようになった。純もそれをしっかりと受け止めている。

「うん。わかった。ジュンくんは何か欲しいのある?」

「僕は大丈夫ですよ」

 そう言って山脇の元まで走って戻る純。何か山脇にアドバイスをしてやっているのか、短く言葉をかけてストレッチを始めた。

「ところで、マキシくん。マキシ特製DVDの内容は、妻としてぜひ知っておきたいのですが?」

 真樹士を真正面から睨み付ける向日葵。夜中、二人のベッドをこっそりと抜け出してパソコンをいじっている事もある。自称スーパーなんとかって言うハッカーを手懐けて手下のようにこき使っているようだが、はたして、妻に内緒で何をしているのか怪しみだしたらきりがない。

「オトコなら見とけって萌える内容らしいけど、オンナのわたしもぜひ観たいところよ」

 真樹士はしれっと返す。

「ガンダムだよ。オトコなら燃える」

「あらあら。ヤマワキくん、かわいそ」

「ほらほら、テツヘイさんもヤマンバさんも待ってるよ。寒くなるから早く行って早く帰ってきな」

「あ、うん。いってきます」

 真樹士は鉄兵の運転する四輪駆動車を見送り、山の周囲マラソンのスタートを切った純と山脇の背中が見えなくなるまで目で追い続けた。

 ふと、誰もいなくなり、物音一つなくなり急に静かになる。

 自分が山に入ってからいろいろな事が起こった。失った物も大きい。それでも山は在り続けるのだ。

 向日葵の言葉を思い出す。

 

 山はこれからもこんな感じで在り続けるんでしょ?

 

「ああ」

 真樹士は応えた。

「山はこれからもこんな感じだよ」

 

 

 

   おしまい

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