最終話 10 スタンド・オーバーマン
左太郎の皮を被った猿の主は考えた。
ヒトと言う生き物はなんと多くの事を思い浮かべ、そして深い思考を繰り広げる生き物なのだ、と。ヒトの肉体が身体に馴染んで来ると、見るモノすべてのその意味が鮮明に読み取れるようになってきた。ヒトの意識の深層に蓄積された膨大なデータベースが流れ込む勢いすら感じられる。
山の上位のヒトと下位のサルにこれだけ魂の差があるのか。しかし今はそのヒトの力を得たのだ。対等の力を得ただけでなく身体の大きさまでも同じになった。もはやヒトもサルもない。あとは実力の勝負。
猿の主は左太郎のポケットから携帯電話を取り出した。この機械の使い方も夜が朝になるように自然と頭に浮かんで来た。左太郎の頭の中にあった知識も猿の主の血肉となりつつある。携帯のメモリーを呼び出し、ある男の名前を探し出した。
握りつぶせるほどに小さな機械を耳元に持って行く。電気的な連続音が数回繰り返されると、聞き覚えのある男の声が返事をしてきた。
『よお……、サルのくせになに勝手にケータイ使ってんだよ』
真樹士だ。人の主様の口調を真似てやる。
「よお……、今は俺の機械だから使ってもいいんだぜ」
『まさに猿真似じゃねえか。まったくめんどうばかり起こしやがって』
「うっとうしかったんだよ、山伏共も、ヒトのヌシも。俺の頭の上をちょろちょろしやがって」
携帯電話の向こうから笑い声が漏れて来る。小さなトゲのある手触りの悪い笑い声だ。
『頭の上をちょろちょろしてたのはお前らの方じゃねえか』
「表現の手法だ。実際にそうでなく、そうした比喩方法じゃねえか。ヒトのヌシ様ともあろう方が理解できないのか?」
『……なんかムカツクな』
今度は猿の主が嫌味を含んだ笑い声を聞かせてやる番だった。ひとしきり笑ってやった後、沈黙したままの携帯にゆっくりと染み込ませるように語りかける。
「まあ、いくら俺がヒトと対等になったとは言え、さすがに現役のヒトのヌシを食える程、まだこの身体に馴染んでいない」
『何?』
「先代のヒトのヌシはおいぼれだったからあっさりと食えたがな。うまくもなんともなかったぜ」
『何が言いたいのかわかんねえな。はっきり言ってくれないか?』
「ヒトのヌシの子だよ、俺が食いてえのは。オンナごと食いてえな」
携帯電話の向こうで何か機械を扱っているような音がする。
『いまこの瞬間にぶち殺してやりたくなったよ。あまり俺をなめるな』
「できるもんならやってみろよ。怖くて俺の前に出て来れないくせによ」
もう一度ねっとりとした笑い声を電話越しに人の主に聞かせてやる。
『それができるんだよ。ただやらないだけだ』
「なぜだ?」
『ジュンがな。ジュンだ、わかるか? 最強の山伏がよ、あっさり殺してしまったら、山伏達の無念も晴らせないって言うんだ』
相変わらず携帯電話の向こうではカチャカチャと言う音が続いている。新しい人の主がよく使っているコンピュータと言う機械か。
『だから一瞬でやっちまうよりも、おまえに後悔させるためにじっくりといたぶりたいんだとさ』
「……それで?」
『もうすぐそっちに着くんだ。ジュンに遊んでもらえ』
猿の主はふと携帯電話を耳から離した。一台の自動車がこちらに近付いて来る。猿の主は真樹士の気配を探りながら夜の街を歩き、今はバイパス沿いの人影のまったくなくなった歩道で、自動販売機に寄り掛かりながら真樹士へと電話をかけていた。それまで車の通りはまるでなかったが、一台の自動車がヘッドライトをこちらに向けてバイパスを斜めに横切って来る。
人の形をした猿の主は目の前に手をかざしてその車を睨み付けた。屋根の上に誰か乗っている。頭には何かの面のようなものを被り、鹿のような角が見える。山伏か。
「よお……、山伏が来たぜ。ヒトのヌシ様よ、あんたは来ないのか?」
猿の主は再び携帯に語りかけた。
『俺だと一瞬で片付けてしまうからな。それじゃあジュンの気持ちがおさまらないらしい』
「仕方ねえな。じゃあ山伏と軽く遊んでやった後、あんたに会いに行くよ」
『ああ。安心しな。ジュンには言ってある。トドメは俺が決めるってな』
猿の主がバイパスの自動車に視線を戻した。その途端違和感に襲われる。車の屋根にいたはずの山伏の姿がない。降りたのか? いや、車は今も速度を落とさずにこちらに突き進んでいる。
『ヒントやろうか?』
携帯電話から真樹士の声。
『アタマの上だよ』
真樹士の声につられて上を向く。そこには空を飛ぶ鬼がいた。町の街灯が純のシルエットに鋭角の影を纏わせていた。まばたきする間もなく、純の影は大きく迫って来る。
とっさに猿の主は身体を横に開く。次の瞬間に服をかすめるように純の身体が風を巻き起こして通り過ぎた。空よりかけ降りて来た純の膝は自動販売機に突き刺さり、激しく火花を飛び散らせて機械はアルミ缶を大量に吐き出してショートした。
猿の主は身をかわした弾みで一歩二歩と道路側によろめいてしまい、純に向き直ろうとしたが不意に目の前に目映い光が溢れだした。純が乗っていた車がそのまま突進してきていたのだ。
猿の主は跳んだ。人間離れした猿の跳躍力で高く宙に舞い、ガードレールを紙のように突き破った車を軽く飛び越えた。
『よくかわせたな』
携帯電話から真樹士の声が続く。
『でも、まだまだだぜ』
気配。空中で猿の主は背後に振り返った。そこには逆さまに脚を振り上げた山伏の姿があった。純は逆の姿勢のまま振り上げた脚を猿の主の身体へと落した。全身に強い衝撃と痛みが走り、背中から暗い道路の冷えきったアスファルトに叩き付けられる。
視界がちかちかと光をほとばしらせて歪む。胸の中の空気が口から漏れてしまい悲鳴をあげる事すらできない。取り落としてしまった携帯電話が割れる。
猿の主はひゅうひゅうと音を立てて息を吸い込み、アスファルトに四つん這いになったまま山伏の姿を探した。と、二本の脚が目の前に降り立った。山伏の物だ。人間が着る普通の服装とは違う、樹の幹がしなるような音を立て、ホタルのように光る服を身に付けた山伏だ。
「これぐらい全然平気ですよね? サルのヌシ様」
視線を上げる。夜空に輝く月を背負うように山伏が仁王立ちしていた。頭に被っている面から生える角が光って見えた。
「ヤマブシ、ごときがっ」
純は数歩分間合いを開き、猿の主が立ち上がるのを待った。目の前に這いつくばる、慣れ親しんだ仲間の左太郎の姿。しかしその中身はまるで異質の者だ。こちらを見上げるその目すら濁って見える。
「そちらこそ、サルごときがヒトに歯向かうだなんて」
かかとをアスファルトから離し、腰を深く落とし込む。軽く握りしめた拳をかすかに揺らしながら猿の主へと向ける。ヘッドセットの暗視補正された淡いグリーンの視界に、猿の主がようやく立ち上がったのが見えた。身長のある左太郎の優雅でしなやかな動きはどこにも見られなかった。目の前にあるのは、まだ二本の脚で地面を駆る事に慣れていない獣の姿。両腕をだらりと前に垂らし、沈めた腰でバランスを取るように身体を前後に揺らす。顎を引いた頭は、上目遣いするように強い視線をぶつけて来る。
先に動いたのは猿の主だった。一瞬姿勢を落し、両腕をアスファルトへと付けて頭から突進してくる。純はとっさに両肘をくっつけるように目の前に持って来て、猿の主の頭がぶつかるその瞬間に軽く身体を浮かせてバックステップを踏んだ。想像していたよりも強い衝撃が両腕を痺れさせる。浮いた身体はそのままの勢いで持ち上げられ、猿の主の両腕が伸びて来てがっちりと掴まれた。
それでも純は冷静に反応する。身体は宙に浮いたまま、ガードした両肘をわずかに開いて猿の主の頭を挟み込む。猿の主の頭頂部で手を組み、目の前の顎に渾身の膝を突き上げた。
山伏のセンサースーツの補助動力が純の膝の力を感知し倍増させる。顎を打ち抜かれて猿の主の頭は大きく後ろに反れるが、純は決してそれを離さなかった。猿の主の頭をぐいと引き込んで脇に抱える。右腕をしならせて喉元にしっかりと食い込ませ、宙に浮いた身体をそのまま背中から地面へと墜落させる。
猿の主は頭を純に固定されたまま顔面をアスファルトへと強く叩き付けられた。純も同じく背中を打ち付けたが身体の勢いを利用してそのまま後転しすぐさま片膝立ちで戦闘体勢を整えた。猿の主の身体は一度大きく跳ね返り、轢き殺されたカエルのように四肢を力なく伸ばしてアスファルトにうつ伏せに突っ伏して動かなくなった。
「マキシさん、聞こえます?」
動かない猿の主を見て、純は立ち上がってゆっくりと間合いを取った。両腕を肩から力を抜いて少し揺らす。さっきの突進で受けた痺れが指先にまで達して感覚が失われている。
『どうした? スーツの数字的にはほとんどダメージはないぞ』
ヘッドセット内に真樹士の声がこだまする。
「さすがサルのヌシ様ですよ。偽物のヌシなら今のでノックアウトですけど、まだまだ平気みたいです」
人の姿をした猿の主は少しの間動きを見せなかったが、うつ伏せの姿勢から首だけを動かして純の方を見上げた。にやりと笑う。
「ちっ。死んだフリしてたのに、近付いてこねえな」
「残念ながら、僕は慎重派なんです」
ゆっくりと立ち上がる猿の主。顎は砕けたか、顔面の形が少し歪んで見える。アスファルトに叩き付けられたせいで顔の皮膚が破け、あちこちが赤く血を滲ませ始めている。
「マキシさん。補助筋力を最大にしてくれませんか? 一気にケリをつけないと、やばそうです」
『オーバーマンモードか? いくらジュンでも3分もたねえぞ』
「2分で十分です。それに、トドメはマキシさんが決めるんでしょ? 僕はただ、みんなの分をぶん殴ってやりたいだけです」
『オーケイ。相当の筋肉痛覚悟しろよ』
「全部終わったら鍛え直します」
純の視界が淡いグリーンから赤に染まる。早速、真樹士がセンサースーツの補助動力効果を最大にまで設定し直してくれたようだ。山伏が装備しているセンサースーツは山伏自身の筋肉の動作を感知し、入力された動作パターンを最適化し、フィードバックされた動作はセンサースーツそのものが伸縮して躍動する。しかしその効果もあくまでも装備している人間が持つ本来の筋力を補助する範囲でしかない。そうでなければ、異常な範囲での急激な伸縮を強要される筋肉繊維と腱は容易に切断されてしまう。関節も脱臼程度ではすまされない。
真樹士はその補助動力センサーの効果を、純の肉体が耐えられる限界まで一気に引き上げたのだ。純は身体が熱くなるのを感じた。素直な肉体は早くも異常な負荷を感知し、危険信号を脳へと送り始めたようだ。
両腕を振り上げるだけで、力を込めて制御しないと肩から先が吹き飛んでしまいそうな勢いで構えてしまう。腰を低く落とすだけで、両膝に数十キロと言う重しをくくりつけられたような爆発的なエネルギーを感じる。
猿の主は目の前の純の身体から異変を読み取った。薄くぼんやりと光を放ち始めている。それぞれの関節がきしむ音を立て、高い温度で燃えている炎のように、全身からゆらめく蒸気を吹き上げている。
本能的に、目の前のそれが大いなる危険な存在だと認められた。
「さあっ!」
純が吠える。今度は純が先に動く番だった。
純の軸脚のアスファルトが摩擦熱で溶けてめくれ上がる。振り上げられた蹴りは蒸気を吹き上げながら猿の主の首を狙った。猿の主は腰を落として純のすさまじい蹴りをぎりぎりのところでかわす事ができた。豪風が頭の髪の毛を何本もさらっていく。
純の連続した動きはそれでもとまらない。身体はすでに猿に背中をむけていた。蹴りの勢いをそのまま回転運動へと変えて、力を溜め込んだ軸脚を背後へと払う。その後ろ回し蹴りはしゃがみ込んだ猿の主の腹部へと突き刺さった。
「ぐふうっ」
腹の中の空気が塊として喉をかけ登って口からくぐもった音として弾け飛んだ。身体がへし折れ、背後へと吹き飛ばされる。猿の主は両足が地面に着くのを感じ取ると、なんとかバランスを保ち倒れ込む事は避けられた。しかし重い蹴りを打ち込まれて腹から折れ曲がった身体は言う事を聞いてくれない。身体の中のものすべてが口から流れ出てしまいそうだ。
そこへ風を感じ取った。
純の連続運動はまだ終わってはいなかった。回し蹴りを放った脚は再び軸脚としてアスファルトを歪ませる程に踏み込まれ、純は腰に拳を構えたままの姿勢で前方へと飛んだ。腹を抑えてくの字に身体を曲げた猿の主がぐんと近付く。突進する身体の力をすべて拳へと乗せて正拳突きを放つ。
純の拳は身体をななめによじっていた猿の主の脇腹に突き立った。分厚いセンサースーツのグローブ越しにも、弾力のある筋肉の鎧を引き裂き、その奥にある肋骨が砕ける感触が伝わって来た。
『ジュン! だめだっ!』
真樹士の声が純の頭に響く。振り上げた右脚、回し蹴りの左脚、そして猿の主の脇腹にめり込んでいる右の拳と腕。筋肉が激しい伸縮に耐えきれずに伸びきって純の骨格から剥離しかかっているのを感じる。熱く燃えた針が埋め込まれたようなピンポイントでの激痛が走る。
でも、まだ大丈夫だ。左腕が残っている。
『無茶し過ぎだ!』
それでも純はさらに深く踏み込んだ。ちぎれそうな身体を猿の主と密着させる程に近く、弾けそうな意識は猿の主を斬り付ける程に鋭く。コンパクトに折り畳んだ左の肘を猿の主の砕けた顎に打ち上げる。猿の主の視界が大きく歪んで飛び上がった。猿の主には何が起こったのかもはやわからなかった。何故、自分は空を見上げているんだろう。
かくんと力を失い膝が折れる。猿の主は両膝で冷たい道路に立ちすくみ、ただ、空を見上げているだけだった。やっと跳ね上がった首が戻って来た。
視界に純が現れる。
だらりと左の肘が力を失う。それでも無理矢理左腕を引き戻し、その腰の回転運動で再び右の拳を突き動かす。もう真っ直ぐは伸ばせないがそれでも十分な間合いだった。純の右フックは的確に猿の主の顎を捕らえた。頭が真横を向く。揺らされた脳は頭蓋骨内を跳ね回り、身体は完全に制御を失ってしまった。
人の形をしたそれは酒に酔って踊るように両肩を震わせて、両膝立ちの格好から尻餅を付くようにぺたりと腰が砕け、視線は定まる事もなく泳ぎ続けてあぐらをかくような姿勢で身体を折り曲げて動かなくなった。
『ジュン! 限度を考えろ! コントロールはこっちにもらうぞ』
純の視界が赤からグリーンに戻った。センサースーツの駆動系システムは真樹士の端末に制圧されたようだ。しかしすでに身体を動かす事にも痛みを伴う純はそれに反抗する余力も、理由もなかった。
『もういい。力を抜け。身体は動かすな。痛くないか?』
「あちこち痛過ぎます」
『あたりまえだ。おまえ運動しばらく禁止だ』
純は身体が勝手に動くのを感じた。すでに全身に力は入らない。真樹士がコントロールするセンサースーツがアクティブモードに切り替えられ、純は真樹士が制御するロボットの中の人に過ぎなかった。勝手に首が優しく回り、猿の主の動かなくなった身体を視界の真正面に添える。
『勝ったな』
「みんなの、仇ですよ」
『とどめは俺がさすって言ったじゃんかよー』
真樹士の口調にいつもの明るい雰囲気が戻って来た。純はさらに身体が勝手に立ち上がるのを感じた。純の身体の動きを最小限にとどめるようにゆっくりとセンサースーツをコントロールする真樹士。同時にガードレールを突き破ったままの車を操作して純の隣まで走らせる。
『乗せるぞ』
純はまるで誰かに肩を担がれているように感じた。センサースーツが単独で動いている。自分はそれに担がれているだけか。バンパーがひしゃげた無人の車がゆるゆると近付いて来て助手席のドアが開く。優しく、シートに座らされる。全身が熱くてたまらない。
『まったく無茶しやがって。サルの奴があれで倒れなかったらどうするつもりだったんだ?』
「マキシさんがとどめさすって言っていたから、後の事なんて考えていませんでしたよ。僕は、ただ奴を殴りたかっただけです」
純はバックミラーを覗き込んだ。アスファルトに座り込んだ姿勢のままの左太郎の形が見える。あれからあの人の形はぴくりとも動いていない。
「マキシさん、あれ、見えますか?」
気のせいか、あの人の形をしたモノが薄く折り畳まれているように見えた。
『あれって?』
「サタロウさんの、身体です」
『いや、この角度だと見えないな』
気のせいではなかった。バックミラーの中の左太郎の姿は、まさに脱ぎ捨てられた抜け殻だった。
人の皮を脱ぎ去った猿の主は夜の町を疾走していた。あまりにもダメージが大き過ぎる。あの人の皮を被り続ける事はもうできなかった。そして、この猿の身体も限界がきている。早く新しい肉体を見つけなければ。
そうだ。人の主を探さなければ。
おそらく人の主は戦いを山伏に任せて、自分は安全な場所で高みの見物をしていたに違いない。あのコンピュータと言う機械を使って自分では何もせずに、暖かい場所で油断しているに違いない。
今がチャンスだ。この傷付いたぼろぼろの身体でも、油断しきった人の主なら襲って身体を奪えるはずだ。
人の主の身体を奪った後は、すぐにあの山伏を始末する。人の主の身体ならば先程の人の身体よりも数段強く動けるはずだ。人の主の子供とオンナは後からゆっくりと食ってやればいい。
猿の主は鼻を鳴らした。
すぐ近くだ。このすぐ近くに、人の主がいる。
あそこ、か。
奴の臭いがする。
薄暗い中、キーボードを静かに叩く音が聞こえる。誰かと喋っているのか、羽虫のはばたくような小さな音が聞こえる。
猿の主はその窓ににじり寄った。焦る心を落ち着かせ、痛む身体を静ませて気配を消す。少しずつ身体を動かして窓を覗き込むと、コンピュータに向かっている人影が一つだけ見える。
音に変化はない。中から憎い人の主の臭いがする。
やはり、完全に油断しきっている。今だ。
猿の主はガラスの窓を突き破って暗い部屋に踊り込んだ。明かりの元はコンピュータのモニターだけか。青白く弱い光を浴びているその人影はびくりと全身を震わせて、息を漏らすような情けない悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。
猿の主は立ち上がった。床に転がって無様に四肢を震わせている男を見下ろす。
「?」
何者だ、こいつは?
見覚えのない男はわなわなと震えて、恐怖に声もだせない様子だ。猿の主の知っている人の主の顔ではない。
猿の主は動きを停めてしまった。と、その時、赤い光が目に入った。空間に赤くぽつんと光る点が見えた。その点はゆっくりと猿の主の身体を這っている。猿の主は視線でそれを追い掛けた。腹から胸へ、喉へ。そして見えなくなった。
窓の外か?
猿の主は床の男から窓の外へと顔を向けた。
その眉間に、赤い光の点が一つ。
風を切る鋭い音が聞こえた、気がした。それが、猿の主の感じた最後の感覚だった。
猿の主は音も立てずに大きく仰け反り、眉間を撃ち抜いた弾丸は後頭部から抜け出して猿の主の頭の中身を壁にぶちまけた。全身の力が失われ弛緩した肉体はただそこに置かれた一匹の猿となった。
床に転げ落ちた男はぱくぱくと口を動かし、言葉もないままただ時間だけが過ぎ去っていった。
やがて、窓に人影が現れる。
「よお、お邪魔するよ」
真樹士は土足のまま部屋に上がり込んだ。突然に窓から飛び込んで来た猿に続き、次は人の主が乗り込んで来た。この部屋の主の自称スーパーハッカーブライズ様は完全に声を失ってしまっていた。
「しょせんは猿だな。こんな罠にひっかかっちゃうなんてな」
真樹士は狙撃ライフルを担ぎ直して、かつてスーパーハッカーを名乗って真樹士のサーバーにちょっかいを出した男に語りかけた。
「よお、大丈夫か?」
ぶるぶると首を横に振るだけで応えるブライズ様。真樹士は軽く肩をすくめて見せて、友達の家に遊びに来たかのような軽い口調で続ける。
「厳しいお仕置きが必要だったからな。猿の主にも、おまえにも」
もうすでにただの物体となった猿の主の身体を見下ろす。
「これに懲りたら、いや、……まあ、いいか。これからどうするか、おまえが選べ。人の生き方にとやかく言うのは好きじゃない」
窓に歩み寄る。窓枠に脚をかけ、ふと、思い出したように振り返る。
「あ、そうそう。おまえが作ったヒマワリのコラージュな。あいつ、あんなに胸おっきくないの。それを踏まえて、もしまた作ったら送ってこい。その度胸があるならな」
真樹士は軽くそう言い残して窓から飛び降り、ふっと姿を消した。
そして、やっと静かな夜が訪れた。