最終話 7 複合データへのアクセス
ひた。
扉の向こう、廊下の奥でかすかに柔らかい音がした。音を立てないよう気配を殺した音。もしも向日葵がヘッドセットを身に付けていたら聞き逃していたかも知れない。森で妖怪ヒタヒタに遭遇していなかったら気付かなかったかも知れない。
向日葵はベッドで小さく丸まっていたところ、ぴくりと扉に顔を向けた。向日葵のガード役の若いヒグマは先程からずっと扉を睨み付けている。
「……やっぱり、誰かいるの?」
クマは唸るだけだった。
暗い部屋に光るディスプレイを見つめる。真樹士を表すポインタはものすごい勢いでこちらに近付いて来ているが、まだ山小屋にはたどり着いていない。同じく修治と鉄兵もこちらに向かっているように見える。少し離れた場所に左太郎と銀行強盗犯のポインタがある。こちらには全然動きはない。
「ジュンくん、かな?」
クマの唸り声は終わらない。
「違う?」
ヘッドセットを手に取り真樹士の声を聞こうとした時、また静かな音がした。今度は気配を消した音ではない。明らかにこちらの動きを探ろうとした音だった。
扉がノックされた。びくんと身体を震わせる向日葵。
「……誰?」
今、この山小屋には向日葵一人だけだ。解りきっている事だが、つい声に出てしまう。
「誰かいるの?」
返事はない。扉のノックもない。静まり返った山小屋の中、向日葵は自分自身の呼吸音が嫌に大きく聞こえた。ヒグマも唸り声を止めないのを考えると間違いなく何者かが扉の向こうに潜んでいるはずだ。でも、誰が?
向日葵が再びヘッドセットを被ろうとした時、扉の向こうの存在が小さな声を投げかけて来た。
「……ヒマワリ、いるか?」
抑揚のない小さな声。感情が含まれない重い問いかけ。
「サタロウさん?」
左太郎の声だ。怪談話をするそのまま、静かに波のない声をさらに投げかけて来た。
「……サルのヌシが来る。ここは危ない。出てきて、外に逃げよう」
向日葵はなるだけ音を立てないよう歩いてディスプレイを覗き込んだ。マウスを操作し、左太郎のポインタをクリックする。左太郎のGPS数値データにまったく動きは見られない。生きているのか、生きてはいないのか。動きを止めた位置そのままだ。何らかの操作をすれば心拍数など彼の生体データも出せるのだろうが、その操作はまだ真樹士から教わっていない。
「……サタロウさん? 森の中にいるはずなのに、なんでここにいるんですか?」
ヒグマは唸り続けている。向日葵はヒグマの肩に手を置いてもう一度扉の向こうに声をかけた。
「マキシくんは何て言ってたんですか?」
返事はない。しかし重々しい気配が扉を押しているように感じる。向日葵は扉からそっと離れて窓を見やった。カーテンも二重ガラスも閉めている。それでも窓を開き大声で叫びさえすれば修治や鉄兵の耳に届くだろう。
「ああ、そうか。全部、森に置いて来たんだ。……だから誰にも気付かれずここに来れた。早く、ここから出よう」
左太郎の声は続ける。
「クマがいるんだろう? クマをどけて、さあ、ここを開けて」
もう一度ディスプレイを見つめる。真樹士も修治も鉄兵もまだ数分はかかるだろう位置にいる。
「窓から離れて、窓からサルが入って来るから」
がちゃっ。扉のノブが捻られる。鍵はかけていたが、所詮は木製の扉に小さな鍵だ。本気になれば蹴りの一つで破られる。
「ヒグマくん、外の人はサタロウさん? それともサルのヌシ?」
ジュンの言葉を思い出す。猿は人の皮を被り、人に化ける。銀行強盗犯の皮を被っていたように左太郎の皮を被っているのか。それとも、本当に左太郎が装備を置いて向日葵を助けに来たのか。ヒグマは背中の毛を逆立てて唸り声を強くした。
向日葵はヒグマの背中を撫でる。一つ深く息を吐き、ゆっくりと胸に新しい空気を吸い込む。
「ヒグマくん、もしもの時は頼むよ」
一歩、二歩、扉から離れる。
「ねえ、サタロウさん。『牛の首』の話をして」
「……」
「こんな時になんだって思うかも知れないけど、サタロウさんなら意味解るよね、『牛の首』の話」
「……」
「その『牛の首』の話をしてくれたらすぐ部屋を出るから。出だしだけでいいよ」
「……」
「教えてくれないなら、マキシくんが来るまで私はここを動かない」
「……。いまはそんな『ウシノクビ』の話なんて……」
「ヒグマくん、やっつけて!」
向日葵は叫んだ。その叫びを合図にヒグマは立ち上がり、扉を破る程の力を込めて向こうに立つ重い気配に爪を振りおろした。クマの太い腕によって驚く程にあっけなく扉は引き裂かれた。木片が散らばる軽い音が部屋に響き、扉の裂け目から一人の人間の顔がわずかに見えた。
その顔は左太郎のものに見えたが、左太郎ではあり得ないようにも見えた。
ヒグマはその扉の向こうの顔にもう片方の爪を突き出した。左太郎の形をしたそれは両腕でヒグマの腕の攻撃を防いだ。がっしりと二本の腕で掴み取り、ヒグマの爪は左太郎の形をした顔の鼻先でぴたりと止まる。
「……ひどいなあ、ヒマワリ。せっかく助けに来たと言うのに……」
左太郎の形をしたそれはゆっくりと言葉を使う。充血した真っ赤な眼で向日葵を真正面に据えた。それはやはり向日葵が知っている左太郎の眼ではあり得なかった。鍛えられた山伏と言えど、ヒグマと力比べをして平気な顔をしていられるはずがない。
「……なんなのよ、いったい」
向日葵は窓ガラスに背中がぶつかり、自分が無意識に後ずさっているのに初めて気が付いた。足が震えている。
突然彼女の耳元で激しく堅い音が弾けた。ガラスが降り掛かり、同時に冷たい夜の空気が向日葵の髪をさらった。カーテンが破かれて向日葵の視界に背後から二本の腕が伸びる。
捕まる。
心が一瞬にして恐怖で凍り付いてしまった。悲鳴も出ない。背後から伸びる腕がゆっくりと動いて見える。掌がこちらを向き、爪を立てて迫って来る。向日葵は呼吸すらままならずそれを見つめる事しかできなかった。
「ヒマワリさんっ! しゃがんで!」
誰かの声が向日葵の頭に届く。とっさに彼女はその声に従う事ができた。かろうじて膝を折りぺたりと尻餅をつく。その途端に幾つもの人の形をしたものが激しい音とともに窓から雪崩こんできた。
部屋に転がり込む人影。向日葵は目の前の光景が現実のものなのか、それとも実は夢を見ているだけなのか、理解不能だった。
ヒグマが引き裂かれた扉を挟んで左太郎の形をしたモノと対峙している。窓を破って飛び込んできた人影は三体。二人は見知らぬ姿をしている。やや背の高い男、見覚えはまったくない。もう一人は場違いなメイドの姿をした小さめの女の子。しかも顔つきは猫に似て、耳も猫耳。そして、この部屋で唯一の知っている顔、ジュンの顔を見つける事ができた。
「ジュンくん!」
思わず悲鳴のような声で叫んでしまう。
「猫又様、ヒマワリさんを守って!」
純は跳んだ。ようやく立ち上がろうとした銀行強盗犯の男の皮を被った猿の膝にかかとを落とし込む。それでまずこの猿の動きを封じた。純の全体重が猿の膝にのしかかり、立ち上がる事ができずにバランスを崩す。純は飛び込んだ身体の勢いをそのまま活かして腰の捻りを加えてもう片方の膝を猿の顎に叩き込んだ。
肉が潰れて裂ける音を口の中からこぼして猿は後方に吹き飛んだ。それでも純の身体の勢いはまだ消えない。振り上げた足で再び床を蹴り宙に舞う。身体を捻り、空中で一回転する。着地の寸前にぐいと膝を伸ばし、倒れ込んだ猿の腹部に全体重と遠心力を乗せたかかとをめり込ませる。
「ヒグマ、そこをどいて!」
そのまま純は身体を前転させ、純の言葉通りに身を屈めたヒグマの背中を踏み台にして大きく飛び上がった。真下には真っ赤に充血させた眼を見開いた左太郎だったモノがいる。右脚で左太郎だったモノの頭を薙ぎ払う。髪の毛を振り乱し、そいつは廊下の端まで転がって行った。
「今度こそ本物のサルのヌシ様ですね?」
着地した純はかかとを上げステップを踏み、両腕を軽く曲げて拳を相手に見せつけるようにゆらゆらと揺らしながらゆっくりと言葉をかけた。
「ヒトのヌシ様から命令がでているので、ヌシ殺しの禁を犯させていただきます」
じり、一歩近付く。左太郎の皮を被ったサルのヌシはまだ廊下に這いつくばったまま動かない。純はほんの少しだけサルのヌシから視線を外して部屋の中を見やった。猫又が尻餅をついたまま動けないでいる向日葵の側にいる。ヒグマは起き上がり天井を見上げていた。倒しておいたもう一匹のサルのヌシもどきがいない。
「猫又様、もう一匹は?」
「逃げたわ。天井を破って」
猫又が天井を指差す。ヒグマは二本足で立ち上がり天井に向かって大きく吠えた。
まだ動けるとは、踏み込みが浅かったか。純は舌打ちを一つして目の前のサルのヌシに視線を戻そうとした。その瞬間、何かが飛び上がる。純の一瞬の隙をついて立ち上がったサルのヌシだ。天井を突き破り、破片をまき散らして姿を消した。
「……しまった」
天井を足音が駆けて行く。純はその音を追ったが、音が遠ざかって行く。すぐにまた何かを突き破る音が低く響き、やがて何も聞こえなくなった。
廊下の突き当たりの窓を開け放ち、夜の闇がすっかりと辺りを染め上げている森を見つめた。しかし何の機械装備もなしに、闇の森に溶け込んだ野生動物を見つける事は不可能だ。完全に逃げられたか。
と、その代わり、純は夜空を舞う巨大な鳥の姿を見つけた。
「マキシさん!」
鳥の主に運ばれて来た真樹士だ。彼はバルコニーに飛び下りると大声で指示を飛ばした。
「遅れてすまない、純。すぐに完全装備だ!」
「はい!」
次にヘッドセットから山伏達に声をかける。
「テツヘイさん、車の用意を。ヒマワリを町におろす。シュウジさんは猫又とトリのヌシと一緒に、みんなをいつもの山小屋に頼む」
重いヘッドセットを脱ぎ去り、髪の毛をかきあげながら真樹士は向日葵のいる寝室に向かった。廊下を歩きながら天井を見上げる。大きく破かれて冷たい夜の風が吹き込んでいた。
「あーあ、ひとんちに大穴開けやがって」
ひょいと寝室を覗き込む。ヒグマが申し訳なさそうに小さく伏せていた。メイド姿の猫又がベッドに横たわってニヤニヤとしている。向日葵はまだ窓の下で尻餅をついたままの姿だった。
「あ、マキシくん」
やっと声が出せた。
「ごめんな、ヒマワリ。ちょっと遅かったな。怖かったか?」
真樹士は向日葵の側に座り込む。彼女の髪をくしゃくしゃと撫で付け、いつも通りの遊びに誘うような柔らかい声をかけてやった。
「もう大丈夫。いろいろあったけど、もう終わったよ」
「あらあら、サルのヌシ達は逃げちゃったよ。それでも終わり?」
猫又がケラケラと笑いながら二人に水を差した。
「ああ。サルのヌシが三匹もいるとはちょっと想像以上だったけど、もうチェックメイトだ。あとは俺のシナリオ通りにしか進まないよ」
向日葵が涙ぐんだ眼で真樹士を見上げた。
「わかった。マキシくんがそう言うなら、もう終わりだね。私はあと何をしたらいい?」
「何もしなくていい。奴ら思い切りへこましてやる」