最終話 5 彼女は仮想人格
寄り合いの滝。山の中腹、森がやや開けた所に位置する主達が集う静かな場所。真樹士は熊の主とともに再び存在するようになった。
「熊の主様、付き合ってくれてありがと。おかげで全部わかった」
真樹士は熊の耳の後ろをくすぐるように撫でながら空を見上げた。もうとっぷりと陽も落ちて空は濃い藍色に染まっている。金星がきらりと一際目立っていた。そんな深い夜の空なのに大きな鳶が一羽、くるりとゆったりとした輪を描いて飛んでいた。
「うん。こっから先はヒトとサルが起こした問題だ。自分達で解決する。今まで通り中立でいてくれてかまいませんよ」
真樹士が熊を撫でていた右手を夜空へ向けて手招きする。すると鳶ははるか上空にいるのにも関わらずそれに気付いて降下してきた。
「あの若いクマくんはもう少し貸してくれます? うん、全部片付いたらちゃんとお礼するから」
脇に抱えていた山伏のヘッドセットを被る。舞い降りた巨大な鳶、鳥の主が真樹士の肩を捕らえる。
「わかってますって。今夜中に決着つけます。本気になった新世代のヒトのヌシの力を見せ付けて、二度と下克上起こそうなんて考えないよう徹底的にへこましてやるさ」
ぶわり、宙を舞う真樹士。
『ジュン、状況はあとで全部説明する。とにかく今はゲンさんとタクヤの坊やのとこに急いでくれ』
純の携帯電話が鳴り、待ちわびた真樹士の声が響いて来た。現治朗と卓哉が携帯に出なくなり、向日葵もパニックを起こしていて現状がまるで把握できていなかった。そこへやっと真樹士が帰って来てくれた。
「遅いですよ、マキシさん。早くヒマワリさんのとこに行ってやってください。こっちは僕と猫又様で十分です」
『ケモノのヌシが出て来てんのか。どんな恰好で現れた?』
純を乗せて森を突っ走る真っ白い獣が首をくるりとこちらに向ける。
「猫耳メイドモードよん」
『そいつはキュートだ』
「そんな事はどうでもいいんです。リンドウも僕に任せて、マキシさんは早くヒマワリさんの元へ!」
猫又はすぐ前を向いてものすごい速度で向かって来る樹の幹を躱しながら、クソ真面目なんだからー、と小さく呟いた。
「奴の狙いはリンドウじゃなかったんです。ヒマワリさんと、そのお腹の子です。サルのヌシ達は完全にヒトになろうとしています」
『ああ、だいたい事情はわかっている。俺も本気で潰してやる。ジュン、猫又、相手がヌシの分身だからって遠慮はいらねえ。おまえらも全力でぶちかましてやれ』
「了解です」
「ぶちかまして差し上げますわ」
純と猫又は同時に答えた。
向日葵はどうしたらいいのか、まるで解らなくなっていた。少し前に卓哉ポインタが大きく横に弾かれてそのまま動かなくなったかと思うと、次の瞬間には現治朗ポインタが消滅した。どんなに叫んでも応答がない。考えられない速度で高速移動中の純の携帯は話し中。銀行強盗犯の携帯ポインタと左太郎ポインタはくっついたまま動かない。もうすぐそこへ鉄兵ポインタがたどりつく。修司の携帯ポインタもじわりじわりと山小屋を離れて行く。
自分は何もできないのだと言う事が肌を焼かれるように痛感する。ただモニターの中で行われているゲームを見ているに過ぎない。指示を出す、自分がそんなレベルに達していないのは理解しているつもりだった。しかし危険を知らせるどころか状況を説明してやる事すらできないでいた。
ヒグマが向日葵の焦りを嗅ぎ取ったのか、ベッドから降りて子犬のように鼻を鳴らして彼女に頬をすり寄せる。
「ねえ、クマくん。私どうしたらいいの?」
ついにヘッドセットを外してしまう。まだ視界が揺れている。仮想酔いだ。
「マキシくん、早く戻って来てよう」
頭を抱える。真樹士のデスクに突っ伏して、思わず泣いてしまいそうになる。
山に入って何日経った? いくら人の主の不在期間があって山の状況が異常だったからと言って、たった数日でいろいろな事があり過ぎた。普通に街で生活していれば決して体験する事のないあらゆる事が起きている。
「キミがいてくれてよかったよ」
ヒグマにはもう慣れた。頭の剛毛をくしゃくしゃと撫でてやる。でも、このたった一人でいると言うのは慣れる事はできそうになかった。
と、若い熊が向日葵から離れ、カギをかけた扉を真正面から睨み付けた。
「な、何?」
同時に何か聞こえる。誰かが自分を呼ぶ声だ。どこから? 扉の向こう? 違う。ヘッドセットの中だ。
「クマくん、ちょっと静かにしててね」
扉へと唸り声を上げるヒグマの背中をぽんぽんと叩いて、巨大な鹿の角のようにアンテナを生やした重いヘッドセットを被る。その中は懐かしい声がこだましていた。
『ヒマワリー、ヘッドセット脱ぐなよー。心配したぞ』
「じゃあもっと心配してくれる? 今どうなってるの? 私じゃ何にもできないよ!」
まるで真樹士が側にいるように感じる。柔らかい声が頭の中を転がり回り、暖かな手が頬を撫でてくれている。
『もう大丈夫だ。あと三分でそこに行く』
真樹士が彼のヘッドセット端末で操作したのか、向日葵の視界に三分間の時間表時が現れてそれが時を刻み始めた。
『現状がかなり厳しいのはわかった。いいか、ヒマワリ。そこに引きこもっていろ』
「うん」
五秒経過。
『もう大丈夫だから、全部終わったらお茶でも飲みながら説明するよ』
「うん」
『とにかく待っててくれよ。他のみんなと作戦練り直すから、あとはヘッドセット脱いでてもいいからベッドでクマと丸くなっててくれよ』
「うん」
あと二分四十五秒我慢すればいいだけだ。向日葵は通信の切れたヘッドセットを脱いでパソコン脇に置いた。ペットボトルの水を口に含み、やっと一心地つく。
「クマくん、さっきからどうしたの?」
ヒグマを見やると、まだ扉の向こうへ静かな唸り声を上げていた。
真樹士はヘッドセットの中の仮想視界を改めて見回した。動いているポインタは純と修司の携帯電波、それと鉄兵のヘッドセットのものだけ。卓哉と左太郎のヘッドセットは動きを見せていない。そして現治朗の信号は消えている。
純の言葉通りなら猿の主は三体。主クラスの敵を三体に完全装備の山伏は四人だけ。しかもその四人の山伏はそれぞれスタンドアローンでリンクされていない。真樹士が設計したシステムはまだその真価を発揮していない事になる。
「さあ、どうする?」
思わず声に出てしまう。
今は主となりきるべきだ。仲間を失うかもしれないと言う恐怖、失ってしまった事に対する責任感は真樹士自身が人間だから感じるのだ。主であればそれらは超越できる。主とはそういうものだ。犠牲を厭わないよう冷徹にならなければ現状は打破できない。
そう。いま山の神は不在なのだ。無秩序と混沌が山に渦巻いている。
「テツヘイさん、シュウジさん、聞こえる? 悪いけど、今すぐ山小屋に戻ってくれるかな。敵は三体。一体はジュンに任せている。あと二体はおそらくヒマワリを狙ってくるから待ち伏せで行く」
ヘッドセットのディスプレイの鉄兵ポインタと修司の携帯ポインタが山小屋へと動くのを確認する。
「夜明けまでに決着をつけるよ」